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狐たち  作者: nutella
36/52

35

 貧しい植生に囲まれた細道には、酸性雨に萎れた木々が疲れた男のように覆い被さっている。木の枝や幹に陽光を遮られ、冷ややかに薄暗い空間、朽ちかけた看板が道の途中にある。看板にはこの臨海公園の面積や、地図上での現在地など、大雑把な説明書きがある。それに少し目を通せば、ここが公園というよりは東西に長く伸びた一本道――もともとは強い潮風と砂防のため作られた人工林を貫く遊歩道であることがわかる。

 遊歩道入り口の目印である錆びた赤灯台のオブジェからしばらく進んでいくと、楕円状に開けた空間があって、道は二叉に分岐している。一方は誰も使わない駐車場へ、もう一方は遊歩道を東へ、更に奥へ進んでいく道だ。その空間では早くも傾き始めた陽光が、木々のカーテンを縫って琥珀色の珠をばらまいている。ひときわ煌めいて反射するのは木々が僅かにせり出した片隅にある、塗りたてのように真っ白なベンチだ。

 そこには病的なほど青白い肌をした少女が横たわっている。傍らでは、顔に幾つもの痣のある男が彼女を見下ろしている。湿った地面に片膝を着き、眠る少女の手を摩る仕草は優しく、表情は険しい。

 静かだった。聞こえるのは蜂蜜を閉じ込めた水滴が、枝の先端からぽたぽたと落ちる音。はぐれ鳥の鳴き声、潮を含んだ湿った風。やがて静寂を破り、背後で柔らかい土を踏みしめる音が聞こえると、男はゆっくりと立ち上がった。

「彼女は僕の患者だ」

 入間は言った。

 走ったのか、呼吸は荒い。服装は着の身のまま、コート代わりに白衣を羽織っている。表情は山葉と同じように硬い。いつも柔らかな雰囲気を崩さないこの有能な精神科医が、どれだけ精神的に追い詰められていたかを物語っていた。対して振り返る山葉の動きは、死刑宣告を待つ入獄者のように緩慢だ。入間を認め、そしてその周囲に視線を走らせると、彼の表情には意外そうな色が浮かぶ。

「警察なら呼んでない」と入間は言った。「ひとりで来て欲しいと言ったのは君だ。約束は守るよ」

「……感謝します」

「それで、気は済んだかい?」

 その台詞に含むものを感じ、山葉は表情を変えた。しかし彼がなにか言うより前に、入間は自身の問いに、「いや」と首を振って答えた。

「もしツォエと共に来るのなら、病院まで二人、直接来ればよかったはずだ。僕をここに呼ぶ必要なんてなかった。ならなぜ――どうして僕を呼んだのか。答えは簡単だ。君は一緒に来るつもりじゃない、なにかやろうとしていることがある」

 山葉は無言だった。入間はそれを肯定と受け取った。

「確かに君には幾つかの容疑がかけられている、《タブラ・ラサ》に身柄を保障してもらうのは悪い手じゃないだろうが……。なぁ山葉君、僕もクーリロワ君も味方だ、ツォエだって証言をする機会が与えられるだろう。君が彼女をどんなに大事に扱ってきたか聞いている。僕は山葉君がPMCに進んで戻りたがっているとは思えない。だからもしこれがツォエのためなんだったら……」

「これは俺自身のためです」

「だけど、この子は君の姉じゃない。わかっているはずだ」

 反射的に入間が言った途端、痛烈な一撃を食らったかのように、山葉は顔を歪めた。かつて彼の担当医として治療にあたりながらも、それは入間にとって初めて目にする表情で、背を向けた相手を後ろから斬りかかるような後味の悪さと、後悔を覚えさせるのであった。

「……すまない」

 張り詰めかけた空気を破ったのは、ツォエの呻き声だった。夕陽に照らされ、枝上で融けた雪の水滴が彼女の顔に滴っていた。山葉はその濡れた頬をジャケットの袖で拭いながら、養父母の親族について尋ねた。入間は目を伏せ、彼らがツォエを見捨てたことを話した。

「彼女が相続するはずだった莫大な財産は、指定禁止薬物の発見を受けて凍結された。実質的に没収ってことだろう。それと同時に、彼らは養育権の継承を放棄した。養子に限り、親族に扶養義務はないからね。法的には完璧に合法だ」

 たとえ幼い子供を見捨てるのが法だとしても、法の庭には現代人がひれ伏す論理のやぐらが建てられていた。論理は理性からできていて、だからこそ非情に見えるのであった。それというのもひとえに、理性が慈悲を持たないからである。理性は無情で、恩知らずで、彼女の逆子である感傷は生まれてすぐに死んでしまった。一足す一を三にする可能性を保証しつつも、その蓋然性を否定する論理だからこそ、法は情と決別する必要があった。そういうわけであったから、言い返そうとしても、山葉は押し黙るしかなかった。結局これは、予想していたことだったのだ。しかし彼は知らなかった。頭で予想することと、感情が準備できていることは別の問題なのだ。感情はいつだって、論理を裏切る用意があった。入間はそんな彼の様子を眺めながら、口を開く。

「昨晩のことだ。事件を聞いて、別の病院からある心理セラピストがコンタクトを取ってきた。学生時代の先輩だよ、今日会うはずだった。……結局、すっぽかす形になったけどね。電話口で彼女は、三ヶ月前にツォエを担当したと言っていた。驚いたよ。三ヶ月前といえばちょうど空爆があった頃――僕が君の担当になった頃だ。それで、話を聞いてわかった。この子が空爆のもうひとりの生存者だったんだな。汚染地域出身の、難民だった」

 少しの間、入間は次の言葉を決めかねていた。やがて重い息を吐きながら、

「君はわかっているはずだ。この子が薬物に手を染めたのは昨日今日の話じゃない。血液検査の結果と離脱症状の具合を見るに、養子として引き取られて間もないころからだろう」

 少しの間、山葉は言葉の真意を問うかのように、入間の顔を見つめ返していた。やがてその表情に、じわじわと苦渋の色が滲み出す。それはとりもなおさず、入間がなにをほのめかしているのか、理解したという証であった。入間は眼鏡のつるに触れ、首を揺すり、

「ああ、すこぶるグロテスクだろう? 少なくとも養父母は最初からそのつもりでツォエを扱ったはずだ。裕福な夫婦というだけでなく、チャリティにいそしみ身寄りの無い子を救う《慈善家》という肩書きがあれば、麻薬監査の目を誤魔化すのは一層容易くなる。それに、心に傷を負った難民の少女を飼い殺しにしたところで、誰が不思議に思う? 違うか、飼い殺しですらないな。中毒になれば、ツォエ自ら檻の中に留まろうとするのだから。いや、想像の話だよ」

 入間は笑った。まったく楽しくなさそうだった。

 ツォエの左瞼がぴくぴくと動いた。入間が額を押さえると、痙攣は収まった。

「運ぶよ」

 一言告げると、入間は屈んだ。ツォエの背中と膝裏に手を差し入れようとする。

 その動きを止めたのは、彼の首筋に触れた羽音だった。背後から、山葉がナイフを突きつけていた。

「……正気か、山葉君」

「聞きたくないんだ」

 薄い殻を思わせる声で、山葉は言った。殻にはひびが入っていた。

「ツォエは見捨てられた。施設は頼れない。そしてあなたが言ったように、理由もなく難民の少女を引き取る里親はいない……。だけど俺は、救いを求めてあなたを頼ったんだ。なのに今、聞かされるのはそんな暗い見通しばかりじゃないか。俺はそんなこと、聞きたくないんだ」

 力を込めた持ち手が一度ばかり震え、じぃっ、とブレードに触れた白衣の襟の一部が繊維くずになった。入間は低い、小さな呻きを上げたが、その声はまた、パニックとは違うものだった。

「入間先生、俺はこれが最善だと思った。だけど、自分の行動が正しかったのかどうしても確信できない。他の道があったような気がする。もっと正しい道があったような気がする。俺が判断を間違ったばかりにツォエが不幸になるのは、たまらない。あなたが約束してくれないと、俺は次の一歩を踏み出せない。お願いだ。彼女を救うと約束してください。あなたの立場なら、それができるはずだ」

 お願いではなかった。武器を押し付けて、これは脅迫以外の何でもなかった。その事実は他でもない山葉自身が重々承知していたし、山葉の罪を知りながら警察にも告げずに来てくれた男に対して、裏切りとも呼べる行為であった。それでも彼には、他に道はなかった。追い詰められ、弱音を吐き、赤い唾を飲み下し、歩き続け、たどり着いた最後の土がここだった。

「ずいぶんと自分勝手だな」

 入間は眼鏡をとると、山葉を見つめ返した。瞳は疲労に若干潤んでおり、声は固い。山葉は最初から脅しですらなかったナイフをぶらりと下げ、目を伏せるしかなかった。

「わかっています。それでも、俺は……」

「ツォエは限界だ。離脱症状というのは、空の水筒を手に、延々と砂漠を歩き続けるようなものだ。特に彼女が使っていたのは、とりわけ身体依存が強いタイプのものだ。摂取し続けないと、物理的――身体的に異常が出る。頭痛や嘔吐感なんてさわりみたいなものだ、とても十歳やそこらの子供が耐えられるものじゃない。大人だって無理なんだから」

 うな垂れた山葉をひとしきり眺めると、入間は亀裂の入ったボイラーのような、長いため息を吐いた。次に山葉が顔を上げたのは、肩に手が乗せられたからだった。

「だから君が下した決断は間違ってなんかいない」入間はそう言った。「他に方法はなかった。この選択は正しいものだった。いいかい、君はひとりで来てくれと言った。僕はひとりで来た。君はツォエを助けてくれと言った。僕はわかったと答えた。いい加減な気持ちで応じたわけじゃない」

「先生……」

「ツォエのことは何とかしてみせるよ。僕を信じてくれ」

 入間は力強く頷いてみせた。

 この瞬間まで、後ろ髪を引くのは問題を丸投げしたのだろうかという迷いだった。しかしそれは今、肩に乗せられた手の熱によって、ゆっくりと溶けていくのであった。変質した葛藤は、あたかも熱分解された化学物質の如く、徐々に次の形を現していった。それは安堵だった。まだどこか怯えたような顔の山葉に、入間はもう一度頷きかけた。するとようやく、彼は力を抜くことができた。もういいのだと初めて思うことができた。入間なら信用できる。後を任せても大丈夫だ。だからきっと、これが最善だった……。

 ツォエが寝言のような、呂律の回らない声を上げたのはそんなときだ。瞼が震えた。声も震えも、それまでとは異なっていて、目を覚ましてかけていることは疑いようのない事実であった。

 山葉はナイフをシースに戻すと入間に頼み、自分の手で、恭しいとも言える仕草で彼女を抱き上げた。入間に付き従い、ベンチの正面側、分かれ道を右に行くと、やがて薄く、砂とも雪ともつかない檸檬色の絨毯を被った舗装路が見えた。その先は小ぢんまりとした駐車場に繋がっている。停まっているのはシルバーの乗用車一台だけだ。

 山葉が助手席に座らせ、シートベルトを締めてやると、ツォエは目を覚ました。ぱちぱちとまばたきを繰り返し、瓶から零れた水飴のような緩慢な動きで周囲を眺め回した。

「起きたかい、ツォエ……辛くないか?」

 運転席に着いた入間が声をかけると、視界に入っていたというのに、まったく気付かなかったとでも言うかのように、彼女はびくりと身を竦めた。混乱の余韻を引き摺ったまま、脇に立つ山葉を見やるも、言葉を続け、状況を説明したのは入間だった。だが、これから二人で病院に戻るのだと言うと、彼女はいやいやをするように、首を振るのだった。その反応に一番驚いたのは入間だった。医者として、彼女が今どれほど辛いのかは、意識を取り戻した途端、額に浮かんだ汗を見ればわかったからだ。

「強がりはよしなさい。病院に戻らなかったら、これからその症状はますますひどくなっていくんだぞ」

 ツォエの表情が一瞬、泣きそうなものに変わる。入間は表情を和らげると、運転席から身を乗り出した。彼女の頭に手を伸ばしながら、

「大丈夫だ、すぐに君は良くなる。約束するよ。不安なのはわかる。怖いんだろう? だけど病院に戻っても僕がいる。ひとりにはしない。ほら、クッキーを焼いてくれた看護婦のお姉さんだって、君のことを――」

 かちゃり、と金属音。ツォエはシートベルトを外し、山葉にしがみついた。そのあからさまな感情の表現に、入間は言葉を失うのだった。彼女が“お母さん”以外に対し、ここまで意思をはっきりと示すのは初めてのことだった。

「……行きたくないのかい?」

 山葉の腹に額をくっつけたまま、こくりと頷くツォエ。だけど、どうしてだ? 入間はそう尋ねる。尋ねながら二人を交互に見つめる。すぐにツォエは答えた。色のない、ささくれた唇から枯れた声、音量はため息にも呑まれそうなほど。しかしとっぷり湿った風を伝う言葉は柔らかく、

「私が行ったら山葉さん、ひとりになるから」

 山葉は動きを止めた。彼女の肩に手を置くことすらできないまま、さまざまな感情の奔流に呑まれていた。ツォエはそんな彼の背中に両腕を回し、静かに力を込めた。ひび割れた肋骨や、胸の創傷から感じるのは、逆剥けた子供の指先のような、甘い痛みだった。

 彼は今や、思いを新たにしていた。自分はずっと勘違いしていたのかもしれない。しがみつかれ頼られ疎ましく思いながら、同時に山葉こそ、彼女が必要だったように思えた。彼は考える。もしツォエがいなかったらどうなっていただろう? きっと何もかも違っていたはずだ。こうやって警察に追われることはなかったかもしれない。クーリロワの提案を受け入れ、二人で罪を共有して静かに生きたかもしれない。どちらの場合も多分、自分自身と周りの全てを呪いながら。こうやって考えたとき、ツォエの存在は彼の胸を押し潰す重石ではなくて、ばらばらになりかけた倫理に降ろされたいかりなのだと思うことができた。彼女がいたからこそ正しい道を探そうと必死になれたのだと、今になってわかるのだった。闇雲に足掻いてその結果、ただひとつのことを伝えるために。

 彼はツォエの肩に手を置いた。彼女は緊張した顔のまま、彼を見上げた。

「入間先生、少しだけツォエと二人きりにしてください」

「言っておくが山葉君、この車は僕の指紋でしか――」

 山葉が固持すると、入間は口を閉ざし、やがて疲れたため息を吐いた。

「……誰に見られているかわからない。五分だ。それ以上は待てない。いいね?」

 頷いてみせると、入間は車を降りた。そのまま振り返ることなく、砂防林への道を戻っていく。入間が見えなくなっても、ツォエは山葉から離れようとしなかった。山葉は馬鹿みたいに、開いたドアの内側に突っ立っていた。車内と車外、その敷居をまたぐ臆病な接触が、二人の距離感と、その行方を、同時に暗示しているようだった。

 山葉は恐る恐るツォエの頭を撫でた。ちょうどみぞおちの部分に、擦り付けられた彼女の額の熱を感じた。汗ばんだ、甘酸っぱい頭皮の匂いを感じた。高度を落とした太陽は燃え上がり、強烈な西日で風景を一色に染めていた。

「言いたいことがあるんだ」

 彼が言うと、ツォエは無言でかぶりを振った。

「必要なことなんだ」

 また彼女はかぶりを振った。

 果たしてちりぢりの夢の中で、彼女はどこまで聞いていたのだろうか。それとも張り詰めた彼の様子に、不穏な空気を感じ取っていたのだろうか。まるで別れを本気で惜しんでくれているようで、彼は少しの間だけ、自惚れた感傷に己を浸した。右手を少し浮かせ、ツォエの耳たぶを撫でた。

「……一緒にどこか、行きたいか?」

 今度は頷いた。

 彼は目を細めた。そうできたらいいと思った。このままどこかへ行けたらいい。いや、『だったらいい』じゃなくて、本気でやってみようか。そうしてより良い場所を探してみようか。もう一度歩き出してみれば、本当は選択肢は無限にあって、駄目だと思ったのもかすんだ疲れ目が惑わせていただけなのかもしれない。頬を叩いて一念発起、ここの土は湿って柔らかすぎるし、座り込んでしまうには具合が悪い。入間は知らない、指紋認証をクリアして、力づくでエンジンをかける方法は存在する。特殊な工具が必要だが、微細振動型のナイフをうまく使えばできるだろう。そんな目で見てみれば、車だって後ろタイヤをうずうずとさせているような気がしてくる。アクセルペダルにかかる土踏まずの重みを、今か今かと待っているのだ。几帳面な入間のおかげで、きっとタンクは燃料をたらふく蓄えていて、違う結末を探す間、気のいい駿馬のようにどこまでも連れて行ってくれる。ぴかぴかに磨き上げられた車体はがたごとと身を揺らし、なんだかノスタルジックに輝く空気を切り裂いて走るのだ。

 遠くへ。

 遠くへ。

 白い雪が降る、汚染地帯の向こう側へ。

 彼は目を閉じ、薄く笑う。なんともロマンチックじゃないか。甘ったるい夢想は、酒と煙草を禁じられた子供に許される唯一の嗜好品のはずなのに……。それでもそんな幼稚さに浸ることで、ばらばらになった未来の欠片を束ねようとした。徒労に終わることがわかっていても、物分りのいい諦念より、はるかに上等に思えた。しかし欠片を合わせた一枚絵の額縁が後悔であることを彼は知っていたし、何度でも同じ問題に直面するであろうこともまた、明白なのであった。

 遠い回り道だったと思う。それで決心できるなら、間違いではなかったのかもしれない。言いたいことは単純で、きっと十秒もあれば済んでしまうような内容だったのに、逃げ続けてしまった。それもここで終わりなのだと思うと、胸の底がすとんと抜けてしまうような虚脱感と、握り拳を口に突っ込んで叫び出したいような喪失感を覚えた。その一方で、幕切れに伴う疼痛がいずれ、こんな瞬間を思い出すためのよすがになるだろうという気もしていた。すると、ツォエがぬいぐるみを抱き続けるのも、同じ理由からなのかもしれない……。

 山葉は彼女の耳たぶから指先を離した。そのままゆっくりと高度を落とすと、コートの合間からひょっこり顔を覗かせる、狐の鼻をくすぐった。

「――姉さんが好きだった」

 そんな台詞が口をついた。

 陽が眩しくて目を閉じる。瞼越しに瞳孔を焼く蜂蜜色の光の中、カレイドスコーピックな情景が浮かんだ。すると自分がなにを語ろうとしているのか、唐突にわかった気がした。

「俺の姉さんも、狐が好きだった。半分枯れた、石灰色の森を歩き回ってはよく、痩せた狐を見つけていた。食べ残したパンの切れ端を投げるんだ。狐は雑食だから、そういうのもよく食べた。決して懐かなかったけど、姉さんは気にしなかった。俺は彼女のそんなところが好きだった。乾いた大地を走り回って、よく笑う……そんな伸びやかで、生き生きとしたところが。親代わりの祖父は俺たちを嫌っていたが、そんな日でもずっと続けばいいと思っていた。でも、物事はいつまでも同じじゃない。大きく変わるきっかけがある。俺たちにとってそのきっかけは、ある事故だった」

 喋ることも辛いのだろう、ツォエはやはり無言だったが、灰の瞳はしっかりと彼を見つめていた。彼は首を振った。

「馬鹿な子供だった。放棄されたダムのへりで遊んでいたときに、俺は足を滑らせたんだ。けっこうな高さから、汚染物質のプールに落ちた。衝撃で、呼吸は止まっていた。たぶん仮死状態だったんだろう。姉さんが助けてくれた。普通に溺れた人のように、汚染された水を飲まずに済んだのは幸いだった。ただ、まったく無事というわけじゃなかった。喋るとき最初の言葉がつっかかって、何度も繰り返してしまうことをどもりとか、吃音きつおんとか呼ぶ。俺がどもりになったのは、すぐ後のことだった。みっともない喋り方をする俺を、祖父は目の仇にするようになった。でも、それでも姉さんは……」

 そこで山葉は言葉を区切り、目を細めた。

「――姉さんは傍にいてくれた。俺は彼女を愛していた。助けられてからは、盲目的な愛情になった。わかってるんだ、他の人にはきっと、俺が人間味のない、つまらない人間に見えるんだって。だけどツォエ、俺だって大事な人がいた……大事な人がいたから、君がどんな気持ちかもわかるんだ」 

 ツォエはぴったりとくっついたまま、まんじりともせず彼の話に耳を傾けていた。

 距離感の親しさ……その皮肉さに改めて気付くと、彼は肩を揺すり、錆びたバネのような笑みを漏らした。疲れた目つきで上を向き、白霧の息を吐いた。斜面を下りきった物語は、眠たい平原で秩序だった減速を始めていた。ゆっくりと息を潜め、死に掛けていた。

 山葉はジャケットの内ポケットに、そっと手をやった。

 折れた銃身に触れた。

 震える唇を噛んだ。

 彼らが“悪い奴ら”であることは、きっと罪の意識を緩めると思った。しかし違った。いつも同じ痛みがあった。山葉は腰に回されたツォエの手をはがし、しゃがんだ。助手席に座る彼女と同じ目線の高さになって、正面から見据えた。

「――お母さんのこと、すまなかった」

 彼は言った。

「五日前、屋敷を襲った事件の最中、君の義理の母を殺したのは俺だ。誤射だった。わざとじゃなかった。だけど撃ったのは確かに俺だ。ずっと君に伝えようと思いながら、言い出せなかった。言い出せなくて、心が潰れそうだった。ツォエ、謝って取り返しのつくことじゃないのはわかっている。赦してくれとも言わない。それでも、心から謝罪させて欲しい。引き取ってくれた君の家族を殺して、ごめん。誤魔化してごめん。……本当に、ごめん」

 言った、と思った。

 耳の奥を流れる血の音さえ聞こえるような、完璧な静寂。そんな不吉な静寂は、この当てのない逃避行に最初から付きまとっていたようにも思えた。たとえばこれは、滅びた世界の話なのだ。脇役がみんな死んでしまった物語なのだ。世界中で生き残ってしまったのが山葉とツォエだけだから、彼女には選択肢がなかった。

 長い時間で初めてツォエは信頼を表に出していたが、その理由に気付かぬほど彼は愚かではなかったし、一歩引いてこの信頼の成り立ちを見ると、虫に食われた砂上の楼閣が蜃気楼の如く、ぼうっと浮かび上がるのであった。

 果たして彼は、どんな反応を予想していたのだろう。

 ツォエは無知だったが、決して愚かではなかった。彼女は逃避行の始まりに思いを寄せ、理解する。すると見上げる瞳は曇り、表情は目に見えて悄然として、

「それが私と一緒にいた理由なの……?」

 違う、と言うべきだった。しかし山葉は彼女を傷つけてでも、このねじくれた関係を終わりにしたかった。そして、そうする覚悟が自分にはあると思っていた。

「そうだ」と彼は答えた。

 息を呑むような、一瞬の間があった。少女の顔が歪んだ。手が緩んだ。山葉のジャケットの裾が枯れ切った落ち葉のように、はらりと落ちた。ツォエは《変な生き物》に顔を埋めた。

 覚悟なんてなかった。

 彼は無意識のうちに手を差し出そうとしていた。その手は彼女に触れかけたところで、自然と止まった。遅れ馳せながら彼にも感じられた。車内と車外――厚みのない、境界という極めて幾何学的な隔たりを繋ぐ糸はいま、ぷちんと切れたのだった。

 彼は動かなかった。それでもツォエを眺めたのは短い間のことだ。立ち上がると一歩引き、助手席のドアを閉めた。日暮れの陽炎に呑まれる土を踏みしめる。こんなに呆気ないものかと思った。しかし他になにを予期すべきだったのかもわからなかった。

 憎まれてもいい。嫌われてもいい。

 そんな女々しい思い上がりも、今となっては知らない男の信念のような、よそよそしく、痛ましい覚悟に感じられた。



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