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狐たち  作者: nutella
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 興奮から平静へ、平静から辛抱へ、そして辛抱は限界だった。

 もうこれ以上待てない、とクーリロワは思った。入間の帰りが遅すぎるのだ。事実上、敵からの降伏宣言ともとれる電撃的なニュースは確かに彼女を安堵させたが、それを共有できるはずの相手が戻ってこないという状況は、気を逸らせるばかりだった。

(すぐに戻るって言ってたのに)

 話し合いが長引いているのだろうか。なんとなく、入間が出て行ったのは職員同士での緊急会議のためだろうと彼女は見当をつけていた。クーリロワがもし普通の患者ならまさか置いて行くような真似はしないだろうが、そもそも彼女が“本物の”患者ではないのはお互い承知なのだ。政府の指定病院であるここなら、一般人と同じようにテレビを観るよりは詳しく、信用度の高い情報が手に入ると考えたのかもしれない。

(だけど、それにしたって……)

 遅すぎる。

 行き違いを恐れて動かなかったが、ニュースはすでに同じ映像や解説の繰り返しになり始めていた。これ以上カウンセリングルームに一人じっとしているのは無意味だ。

 探しに行こう、そう決めると彼女はすっくとソファから腰を上げた。受付で聞けばなにかわかるはずだ。少なくとも、後どのくらい悶々とさせられるのかくらいは。

 後ろ手にドアを閉めて廊下に出ると、南向きの窓を貫く昼下がりの陽光がまぶしくて、クーリロワは思わず手をかざしたほどだった。外に目をやると、乱立するビルの合間から長い堤防で区切られた人工湾が見える。キリンのような形をした赤い鉄骨造りのクレーンの足元、波頭が白く砕け、風が強いのがわかる。だけど冬の太陽はいつも恋しい、光に引き寄せられる虫のように窓際を歩く。廊下にはちらほらと人がいるだけで、ニュースの重大さに反して不気味なほど静かだった。その静けさが、入間が戻って来ないことと合わさり、不安な気持ちに駆られたクーリロワの足は、自然と速まってしまう。

 彼女が人の声を聞いたのはエレベータエントランス近くに差し掛かったときだった。こちらに背を向ける形で、三基並んだエレベータの奥側、二人の男が会話している。茶色のトレンチコートの男と、年のいった白衣の男だ。クーリロワの存在にはまだ気付いていないようだったが、何かを警戒するように話し声は小さい。つられるようにクーリロワも足音を殺す。

「……それで、先生の見込みとしては? いつ頃だと?」

「今の段階では何とも言えないよ、かなり危なかったんだ。少なくとも今日明日ということはないな」

「何とかなりませんかね?」

「何とかって、君ね」

「お願いしますよ、起き上がらなくたっていいんです、ただ話だけでも聞けたらと」

 白衣の男が医者らしいというのはわかる。しかし、トレンチコートの方は何者なのだろう? 下手に出ているようでありながら、どこか威圧的な印象を受ける。よく似たタイプの人間をクーリロワは知っているような気がするのだが……。

(いえ、それより今は入間先生のことを優先しないと)

 同じ階にいるのだ、その医者に聞けば何かわかるかもしれない。わざわざ小声で話している人間の会話を盗み聞きするのも趣味が悪い。そう考え、声をかけようとしたところで、

「わからんようだがら教えてやるがね」

 と医者が苛立った様子で言った。

「破傷風なんて今ではほとんどないんだ。近隣でワクチンをストックしているのはここくらいだ。もし他の病院に輸送されていたら手遅れになっていたかもしれない。それくらいひどい状態だった人間が、簡単に意識を取り戻すと本気で思っとるのかね?」

 通路から踏み出しかけていたクーリロワの足が止まる。

 破傷風。

 つい昨日、彼女を悩ませていた単語。間違いようがなかった。彼らが誰について語っているのかは明らかだった。同時にわかる。医者と一緒にいるのは刑事だ。今も昔も、ステレオティピカルな服装を好む刑事はいる。あまりにもあからさま過ぎて、先ほどのクーリロワ同様、逆にわからなくなるくらいだ。

「これは失礼を、先生。ただこちらも仕事なもので。先生だって手負いの猛獣が一番危険なことくらいわかるでしょう? 私らは少女をさらって逃げ出したというもう一匹をすぐにでも処理しなきゃなりません、手遅れになる前に。なにか手がかりが必要なんです」

 刑事は妥協を引き出そうとする。しかし医者はにべもなく、

「無理だ、諦めたまえ。容態はイエロー。安定してない。君が他にも声をかけているのは知っている、だがこれは担当チームの誰に聞いても同じ結論だ。あれほどの規模で体内の生体組織をリビルドしている例だって稀なんだ。未だ予断を許さない状況には変わりない。そもそも、脳だって――」

 ちん、と音がしてエレベータが到着する。それで冷静になったのか、高ぶり始めた声量を落とし、二人はエレベータに乗り込んだ。話は続いているようだったが、すでにクーリロワの位置からは聞こえなくなっていた。

 死角になっていた通路の一角から離れ、エントランスに立つ。扉上部のランプを見るに、医者と刑事が乗った右の一基は二九階で止まっていた。少年はその階にいるのだろうか? 気にならないと言えば嘘になるが、後を追っても仕方ない。今は受付に向かうのが先だ。それに、カウンセリングルームでの会話を思い返してみても、入間なら少年についても何か知っているはずだ。

 一分後、鉄の箱が彼女を無事一階ロビーに送り届けると、そこで彼女を迎えたのはむっとするような、高揚したざわめきだった。上階との落差に驚く、しかしこれこそまさにクーリロワが予想していたものだった。だというのにいざ目の当たりにすると、今度はこの予定調和の歓喜に、湖上の薄氷を踏み抜くような危うさを覚えるのだった。

 吹き抜けの二階の手すりに身を乗り出して甲高い声を上げて両手を突き出す男。車椅子に乗る痴呆症の老人の手を満面の笑顔で握る女。これ幸いと、林檎のように赤い頬をした愛らしい女学生に声をかける男。口元に手を当てて興奮した様子でロビーのテレビを凝視する女。

 しかしこれらの背景にあるものはひどく対照的で、クーリロワの視線はロビーのそこここに穿たれた弾痕を埋めるパテの補修跡や、窓に降ろされた鋼鉄のシャッター、仏頂面で仁王立ちする複数の警備員の存在に向けられてしまう。まるで、外威は消え内憂は去ったと無邪気に喜ぶ人々に対し、危機はまだそこにあると無言で主張しているようだ。

 人混みをすり抜け受付の前まで来ると、クーリロワが声をかけるより先に、奥のデスクで事務作業をしていた男性の職員が反応した。彼女の顔を見ると、あっというように口を開いて立ち上がる。そして手で合図しながら脇の職員用のドアからロビーに出る。

「クーリロワさんですよね?」

 言いながら男性職員はさりげなく腕まくりをする。自慢ってわけね。よく鍛えられた前腕筋を無感動に眺めながら、クーリロワは頷く。

「精神科の入間先生を探しているのですが――」

「ああ、やっぱり入れ違いになっちゃったんですね」と男は大げさな様子で残念がった。

「入れ違い? 先生はもう部屋に戻ったんですね?」

「あ、いえ、そうじゃないです。入間先生が外出したことを伝えるため、別の看護師が先ほどそちらに向かったんですよ、それが入れ違いになったという意味です」

 クーリロワは顔をしかめた。この男は本当のことを話しているのだろうか、と思った。どうして入間が彼女を無視して外出するというのか。

 言葉が足りないと思ったのだろう、男は彼女の表情に気付くと再度口を開いた。

「あの、ニュースはご存知ですよね? 統一革命戦線の声明を受けて、防衛省から通達がありまして――非常勤医師の後方基地への派遣に関するものなんですが――ともかく、これに関する緊急のミーティングだったんです、ああ、入間先生は常勤ですが兵士の心的外傷の治療担当ということで前々から志願していらして――」

「すみません、要点を」

 わざと長引かせるような説明に苛々してクーリロワが口を挟むと、男はむっとしたようだった。しかしすぐさま強張った笑顔で覆い隠し、

「ミーティング自体は先ほど終わったんですが、それと同時に先生宛に電話がかかってきたんです」

「誰からですか?」

「そこまでは。電話に出たのは僕じゃないので。ただ、男性の方だとは聞いてます。入間先生、電話に代わった途端、血相変えて飛び出していって……。普段は落ち着いていて、こんなことをするような人ではないんですが」

 後半は耳に入らなかった。入間がそんな行動をとった理由は一つしか思いつかなかった。

“本物”の患者から連絡があったのだ――山葉とツォエから。

 そこまで考えた途端、たまらなく歯がゆい気持ちになった。どうして私も連れて行ってくれなかったのか。せめて一言くらいあったってよかったはずではないか。それとも、山葉が入間だけを望んだのだろうか? クーリロワには会いたくないと。

 そんな風に彼女が自意識過剰気味な思考に浸っているときだった。

「えーっ、嘘でしょ? 入間君いないの?」

 背後からの声。クーリロワは振り返った

「なによアイツ、自分から呼び出しておいていなくなるとか、年々人の扱いが雑になってくわねぇ」

 がしがしと頭を掻きながら、女性が立っていた。

 服装はベージュのストレッチカーゴパンツ、ダークブロンズのレザージャケット。三〇代中ごろ、入間と同年代だろうか。褐色の肌にバレッタで結い上げた長い髪、うっすらと皺に縁取られたアーモンド形の瞳は磨き抜かれたマホガニー。そして、自信家の微笑を口元に。

 クーリロワと目が合うと、ウィンクする。

「ちょっと生意気だと思わない、ね?」

 女は名をアリサといった。

 空爆後、件の一家に引き取られるまでツォエの治療を担当した、心理セラピストだった。



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