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狐たち  作者: nutella
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 ばら撒かれた紙に関して、それを実際に手に取るまでさまざまな憶測が飛び交った。降伏勧告だという者もいれば要人暗殺の急報だと言う者、果てには新興宗教の宣伝ビラだとのたまう者までいた。

 しかし事態はもっと単純だった。パニックを起こした者はごく一部で、恐れずに近くで見上げればわかることだった。飛行機は敵の戦闘機でも哨戒機でもない、単なる小型の双発機。地上からでもわかるように、機体の腹には鷲をあしらった若草色の紋章。

 それは開局したばかりの時事ニュース専門の放送チャンネルのマークだった。

 ビラは、同時期に他局が先行して流した特ダネを、単なる後追いではインパクトが薄いと考えて行った、航空規制無視、制裁覚悟の宣伝行為だった。ゆえに内容はテレビやインターネットにかじりついていた人が少しだけ早く知り始めていたことと同じ――同刻、クーリロワがテレビで知ることになる内容だ。

 テレビは語る。

「“歴史上最も愚かな売国的選択”との紛糾が絶えないこちら統一革命戦線党議場ですが、党首本人が退陣を表明した今、彼らの戦争回避に向けた動きがうわべでなく、国家的方針となったことは確かです。また、残る要請事項も一両日中に八割が可決、承認される見通しであるとの情報も入っています。党首退陣という、電撃的な声明に対する我が国の公式見解はまだ出ておりませんが、これによって地上侵攻が延期されることは、ほぼ間違いなく――」



 かくして今や、立ち尽くしているのは山葉だけだった。

 上空からだと猫の額のような大きさの駐車場に狙い違わずビラの一群を投下した後、双発機はばりばりとエンジン音を轟かせ、次の獲物を探しに行った。

 大判の写真と細かな文字で埋め尽くされた三色刷りのビラを握り締めながら呆然とする彼を囲むのは興奮した声が生み出すざわめき。喧騒のほとんどは食料品店から飛び出してきた人々によるものだ。歓声を上げて走り回る老女がいた。車に轢かれかけながら偉大なる神の名を叫ぶ男がいた。恋人の腕の中で喜びに泣き咽ぶ多感な女がいた。

 電話ボックスの傍、山葉はぽつんと取り残される。彼は歓喜の輪に入りそびれた補欠のスポーツ選手のようだった。信じられないのだ。この戦争は前触れもなく始まり、そして終わろうとしている。幕切れはあまりに呆気なく、いったいどんな意思に沿ってこれらの決定が為されているのか、頭で知っていても、理解するのは難しかった。

 しかし疑おうとする気持ちは、駐車場の車に群がる人々の存在で霧散していくのであった。彼らが熱心に眺めているのは車載テレビだ。今このときばかりは、隣人は親友であり他人は友人であった。三度、駐車場の随所で歓声が沸き起こり、それはこのビラの内容がニュースによっても確かめられているということだった。

 山葉は拳を握った。爪が掌に食い込む。鈍い痛みが走る。すると痛覚をトリガーにして、精神が胸元をあらわにした。心のベクトルが指したのは《憤り》だった。

(――どうして開戦しない?)

 安堵より先に、それがまず浮かんだ思いだった。憤りは、唐突な譲歩を示した統一革命線に対するものだった。停戦したからといってツォエの問題が解決されたわけではないのだ。むしろ、戦争がなくなれば、この状況でどうやって軍事企業に“取り引き”を持ちかければいいのか、わからなくなった。これまでの行動の前提が怠惰な紙吹雪で吹き飛ばされてしまったようだった。唯一残されていた道が、いきなり踏み消されたようだった。

 そのとき、山葉はほとんど混乱していた。目標への前提がひっくり返され、矛盾した感情が交じり合って渦を巻いていた。だから短髪のにきび面の男がすぐ横から声をかけるまで、接近に気付かなかった。

「おいっ、ぼうっと突っ立ってんじゃねぇよ、兄ちゃん」

 びくっと肩を震わせて山葉は向き直る。男は三〇代で、三白眼と呼んで差し支えないほど目つきが鋭い。肉を千切りそうなほど太いリング状のピアスが左の耳たぶを引っ張っており、もしそこに口が付いているなら、きっと身を切るような悲鳴を上げていることだろう。

「そこのショッピングカートに寝かせてる女の子、辛そうにしてんだろ、あんたの娘か何かじゃねぇのかよ? いつまでも呆けてんなよ」

 山葉はツォエに目をやった。彼女は起こしたショッピングカートの籠に、膝を抱え込むようにして座らせていた。カートのハンドルにもたれかかるように頭を傾げ、白日の下あらわになったその顔は、乾いた唇や、色のない頬が持つ、酷烈なまでの生々しさを周囲に投げかけていた。

「ったく、自分のことしか見えねぇのかよ」

 男の言い方は悪いが、喧嘩を売っているわけではなく、不器用ながらも厚意で声をかけているのであった。しかし、好意的に受け取れる余裕が今の山葉にはなかった。激昂に身を焼かれ、男を睨み返す。お前になにがわかる、と思った。突然現われて、偉そうに上からものを言って、何様のつもりだ。お前はツォエのなにを知っている。青少年の誉れ、いい年してにきびとダンスを踊り続けているお前なんかに――

「な、なんだよ……」

 男が顔色を変え、上ずった声で言う。瞳には気圧された人間特有の、濁った光があった。男は目を逸らし、逃げるように隣の電話ボックスに入る。もともと電話しに来たのだろう。ぴんとくるものがあって、山葉が駐車場の方に目をやると、中年の女性二人が電話ボックスを指差し、なにか話していた。頷き合う。と、こちらに向かって歩き出す。

 すぐに理解した。携帯電話が使えない今、人々が公衆電話の存在に気付けば、吉報を誰かと分かち合おうと殺到することは、容易に想像できた。

「くそっ」

 山葉は呟くと、目の前の方の電話ボックスに向かった。今度は手加減なし。自由になった両手で凍ったドアをこじ開ける。ばきん、とレールの氷が割れる。受話器を取る。耳に当てる。大丈夫。回線は繋がっている。硬貨を入れる。番号ボタンに指を伸ばす。指の先が丸く突き出た金属のボタンに触れる。

 ためさないよりはましだ、と半ばやけっぱちな気持ちで思った。もしかするとクロフスが言った『必要なとき』というのは、この戦争に限った話ではないのかもしれない。なににも増して、クロフスは山葉の帰還を喜んでくれるのかもしれない。クロフスが汚染地帯出身だという噂を聞いたことがある。ならばツォエの現状を心苦しく思って、手を貸してくれるかもしれない。下卑た噂をものともせずのし上がった男への感情は、いつも憧れとして胸の内にあった。

 山葉は唾を飲み下した。

 ゆっくりと、ささくれた指でボタンをプッシュしていく。

 すぐに、最後の数字を残すのみとなった。

 準備は万全、後は人差し指が仕事をするだけ。

 彼が首を傾げたのはそのときだった。顔には、不可解なものを目にしたような、戸惑いが浮かんでいる。

 指が動かないのだ。

 押し込もうとしたところで、腕の筋肉がぶるぶると震えて、それ以上の動きを押し留めてしまうのである。まるで、末端神経と潜在意識が結託して、最後の抵抗を試みているようだった。

 不可解だった。そして不可解でありながら、自分があまり驚いていないことにも、彼は気付いていた。

 なにやら黒っぽい、疑念の種があった。

 それは心のどこかで芽吹く機会を窺っていた。種埋まる土壌に浸み込んでいるのは、最後の最後、この土壇場に来てまで吹っ切れない、違和感だった。にもかかわらず、その違和感が何なのか考えようとすると、思考は鱗のない魚のようにつるつると滑り、とらえどころを失うのであった。

「――だから聞けよ、本当だって」

 隣のボックスから大声がして、山葉は視線を向けた。先ほどの男が、受話器をピアスだらけの耳に当てて喋っている。お互い、氷に引っかかったドアが半開きになっているため、内容が筒抜けなのだ。

「嘘じゃねぇよ親父、何で半年ぶりに連絡してこんなつまんねぇ嘘つくんだよ。……いいから早くしろって、ネット繋がらないならテレビ点けろって。俺の言ってること本当だってわかるから。……はぁ? テレビも売った? ふざけんなよ、人がちょっと留守にしてる間に酒ばっかり飲みやがって。せっかくいい知らせだって連絡してやってんのに」

 どうやら父親にビラの内容を伝えようとしているらしい。苦戦しているようだ。それがなんだか妙にのん気に聞こえて、山葉はようやく緊張を緩めた。ゆっくりと息を吐く。男に感じた怒りも、理不尽だったと今なら思えた。ずっと神経を張りっぱなしだったのだ。この違和感はきっとそのせいだろう。これで、いいんだ。間違いじゃない――そう自分に言い聞かせながら、最後の番号を押した。

 数秒の間。

 コール音。

 何度も考えた。今更、他に道なんてないのだ。望みを叶えると言われたのだ。ツォエが聖女かどうかなんて関係ない。戦争になるかなんて関係ない。望みははっきりしていて、大切なのは彼女が人並みの人生を得ることだけ。

「だからよ、親父、なぁ聞けってば。先からそう言ってんじゃねぇか。本当にセスナみてぇな小型機が飛んできてビラ撒いてるんだって。……なんでこんな時代に? そんなの俺が知るかよ。インパクト、見た目だよ。……ああもうしつこいな、嘘じゃねぇのに」

 コール音。

「俺がいつ親父を騙したって? ……おいやめろ、そんなガキの頃の話、持ち出すな。……じゃあわかったよ、この電話終わったら母さんに連絡しろよ。それではっきりするだろ、ったく」

 短髪の男は不毛な努力を続ける。受話器の向こう側にいるという酒好きの父親にだって、この周囲の歓声が届いているはずだ。しかしそれでも尚、言葉だけで事実を認めさせるには不充分なのだ。

 コール音。

 しかしそれが普通の反応なのかもしれない、と山葉は思った。こちらが出した要求は、開戦を前提にしたものだったからだ。党首の退陣なんて、要求した項目のひとつにしか過ぎない。常識的に考えて、とても承認できるものではなかったはずだ。逆に言えば、統一革命戦線はそこまでして、開戦を避けたいのである。

 コール音。

 急に喉の筋肉が強張った。気管が狭まり、喘息のような、詰まった呼吸音が鳴った。

 唐突に山葉は、違和感の正体に気付いていた。それは穴だった。ホテルでカチェートと対峙したときから、ずっと考えないようにしてきた小さな穴。意識の片隅に穿たれ、じくじくと冷たい泥水が溢れ出し、これまで熊手が掻き出していたのは無象の砂粒だ。だが、熊手の爪は今、初めて、大きな獲物を捕らえようとしていた。

 そこまでして彼らが開戦を避けているのだとしたら……。

 そこまでして彼らは戦争を拒んでいるのだとしたら……。

 ずるりと音を立て、埋ずもれた思考が姿を現した。


(――だったら、そんな連中が、なぜ民間人を空爆した?)

 

 がちゃん。

 気が付くと、彼は受話器を下ろしていた。

 ぷー。ぷー。ぷー。

 彼はきつく目を瞑った。

「……くそ、くそ……くそっ……」

 激しい動悸を覚え、動くことができなかった。歓声の真っ只中、彼は孤独だった。風がさわさわと吹きつけ、腫れの引き始めた頬を撫でる。風は遠くから匂いを運んだ。

 排気ガスの臭い。

 ドラム缶から漏れ出た廃オイルの臭い。

 酸性雨に溶けたアスファルトの臭い。

 腐りかけた鯨の臭い。

 潮の臭い。

 遠い国の砂漠の臭い。

 彼は長い間そうしていた。

 やがてゆっくりと目を開くと、再び受話器を取り上げた。あまり多くを語らなかったし、語る必要もなかった。



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