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狐たち  作者: nutella
31/52

30

 ごうごうと吹雪く景色を、窮屈な穴ぐらから眺めている。岩肌の割れ目に固定したオイルライターが、淡緑の光で二人を照らしている。どうやら追っ手は振り切ったらしい。この天候で捜索を続けているとは思えなかった。《変な生き物》を抱くツォエを、すっぽりと後ろから包むように山葉は座っていた。座りながら湿った土に背中を預け、ツォエの髪からほのかに漂う消毒液のような匂いを感じながら、じっと夜明けを待っていた。

 彼女が目を覚ましたのは、ちょうど山葉が小川を辿れるだけ辿り、やがて、立ちはだかる崖に作られたトーチカを偶然見つけたころだった。トーチカといってもそれは、誰も気付かないほど小さな洞穴であり、大昔の軍事演習に何度か使われただけのものらしかった。それがわかるのは普通、見晴らしの良くない場所にトーチカは置かないからであり、また、洞穴というよりは崖の岩盤の断層を縦に裂く割れ目と言ったほうがふさわしく、三メートルほど上部の天井部分には幾つか隙間があるのだが、真横に吹き付けるようになった風が雪だまりを作ったおかげで、うまくふさがっているのであった。床を見やれば空砲の空薬きょうが転がっており、若干張り出した樹木の瘤のような入り口付近の岩盤には、スタブと呼ばれる小型杭打ち機で、銃の台座を固定するために空けた穴が散見された。本来なら剣山にも似た足場は砂と土でうまく踏み固められ、まるで打設されたように平らになっていた。

 山葉が固い土に半分埋もれたライターを見つけたのもここだった。普通のオイルライターなら、数週間放っておくだけでオイルが揮発して使えなくなるものだ。埋まっていたことが良かったのかもしれない。あるいは、オレンジではなく緑色の火が示すように、特殊な細工がしてあるのか。炎の色自体はライターの芯に金属のフィラメントをねじ込めば簡単に変えられる。金属の炎色反応を利用するだけだからだ。緑はおそらく銅だったはずだが、いまひとつ自信は持てなかった。

 目覚めたツォエは、山葉の予想に反して泣かなかった。ただ、殴られてところどころ青痣のできた彼の顔をじっと見つめ、そっと身体を預けてきた。彼女は山葉を責めなかったし、これからどうするのかも聞かなかった。まるで恐れているように思えた。刻一刻と選択の幅を狭めていく未来を、拒否したがっているように思えた。

「寒くないか?」

「……大丈夫」

 山葉が聞くと、彼女はかぶりを振った。強がりでもなく、事実、そうなのだろう。彼女の身体は熱く、うっすらと汗ばんでいるほどだ。凍えているのは山葉の方だった。失血し、芯から冷えた身体はなかなか温まらない。寒さは確かに痛みを和らげたが、体力の消費を激しくしていた。

 人は夏の猛暑に汗をかくより、冬の極寒に震える方がエネルギーを使う。山葉は腫れていない左の頬に触れてみた。やはり少しこけていた。考えてみれば最後に食事を摂ったのは二日以上前になるのだ。病院で目覚めてから今までというもの、口にしたのは水とココアだけだ。たった半日。そう、目覚めてからまだ半日しか経っていない。しかし、その短い間にどれだけ多くのことが起きたのか――とても信じ難く、思い返すだけで眩暈を覚えるほどだった。

 小さく息をつき、手の甲で額を擦っていると、腕の中、ツォエが振り返った。目が合う。

「どうかしたか?」

「これ」

 彼女がコートのポケットから取り出したのは、バターミルククッキーが入った小さな袋だった。

「あげる。病院で、女の人からもらったの」

 多分、看護師のことだろうと山葉は察しをつけた。クッキーは一口サイズで、ライターの光加減か、焦がしたのか、全体的に黒っぽく見える。手作りのようだった。

「それはツォエが食べていいんだ。昼からなにも食べていないんだろう?」

「いらない」

 だけど、と言う山葉に、「お腹、空いてないの」とツォエは重ねた。

 数秒の沈黙の後、礼を言い山葉はクッキーを受け取った。赤いリボンを解くと、ふわっと優しい香りが辺りに広がる。大きさは人差し指と親指で作る円よりも少し小さいくらいだ。一枚つまみ、口に放り込む。粉っぽく、甘味もなんだか足りてない。しかし例えようもないくらい美味しく感じた。ゆっくりと、まるで顎の動きを確かめるように咀嚼し、ごくりと飲み込む。栄養が血管に乗り、全身に行きわたる様をイメージする。もう一枚。

 そうやって半分ほどなくなったところで礼を言い、山葉は袋を差し出した。ツェオは全部食べないのか、と言うかのように見返したが、彼は首を振った。

 しかし、受け取ろうとしたところで彼女の手が滑り、袋は口を開いたまま落下した。衝撃で、反骨精神溢れる一枚のバターミルククッキーが冒険の旅に出た。冷たい地面の上を転がり、二人が止める間もなく、まるで狙いすましたかのように、溝に固定していたライターの腹に特攻をかます。かちん、と小さな悲鳴が聞こえ、ライターが倒れた。じゅっと音がして火が消えた。

 闇。

 まず山葉が考えたのはツォエのことだった。彼女が怖がるかもしれないと思ったのだ。そうして身体をずらし、記憶にあるライターの位置へ手を伸ばそうとしたところで、

「――わかったからちょっと待ってくれよ」

 聞こえたのは男の声だった。

 完全な不意打ち。全身の血管がきゅうっと収縮する。心臓で魚が跳ね、緊張が走る。

 声は驚くほど近くからしていた。洞窟の入り口付近に誰かいるのだ。正体について、考える必要などなかった。捜索隊に決まっている。

 山葉は片膝立ちでツォエを抱き寄せ、口を塞いだ。

「静かに」と耳元で囁く。

 ツォエは抵抗しない。人形のように山葉に身体を預けた。

「あれ、何か光ってたような気がしたんだけど……ライトの反射かなぁ?」

 懐中電灯の明かりが、いやいやをするようにぶんぶん動き、回折した光が白色の百足むかでの如く洞穴内に忍び寄ろうとしている。

 じっと山葉は息を殺す。喉がからからに渇いた。舌が膨れ、呼吸さえ苦しい。左手をベルトにくくりつけたシースにやった。ナイフのグリップを緩く握る。握る手に汗が滲む。

 できることならしたくない。

 気配は迫る。ひたひたと距離を詰め、雪を踏む音は今や、真横から聞こえているように感じられる。

 だが、もしそれしかないのなら……。

 ナイフを引き抜こうとしたときだった。

「――いいから早くしろって」

 遠くから、別の男の声がした。

「さっきからお前、どんだけションベンに時間かけんだ」

「だけどなあ、何かおかしくないか? ここら辺、雪の積もり方が不自然っていうかさ」

「吹き溜まりが崩れたんだろ。時間帯で風向きが変わる場所ならよくある。それより、」

 パートナーらしき声は苛立った様子で続ける。

「ほら、あっちからぐるっと回ったらもう戻ろうぜ。どうせ本命はこっちじゃないだろ。だいたいこんな吹雪の中じゃ、俺らが遭難しちまう。田舎の分署だからって、NV(暗視装置)やらHMDやらは最前線の”特殊作戦従事軍”様に接収されるしよ、こんな状態で深夜の捜索なんて、はなっから無理があるんだよ」

 逡巡を表すかのように、山葉の目と鼻の先で光線が動いた。やがてそれは、放尿後の滴を切るようにいじらしく揺れると、ゆっくりと引き返していった。声は語り合う。

「実は俺さぁ、スキットルにウィスキー入れて持ってきてんだよ」

「だからトイレばっかり行ってたのかよ。仕事中になに考えてんだ。後で班長に報告するからな」

「お前も飲むか?」

「今度は買収ってか? 信じられない野郎だな」

「飲まないのか?」

「はあ? 飲むに決まってるだろ」

「だよな」

「ああ」

 無害な汚職となぁなぁの空気を振りまきながら、声は遠くなっていく。

 それからしばらくして、完全に気配が去ったことを知ると、山葉はほっと力を抜いた。そこでようやく、ツォエをきつく抱き締めていることに気付き、慌てて手を離した。すまない、と謝ると、いいの、とツォエは応じた。

「あなたは他の人と違うから」

 山葉の胸をついたのは、罪悪感と優越感が一緒くたになった、奇妙な感情だった。

 唐突に、今なら言える気がした。彼は内ポケットに入れたままの壊れた銃身に触れた。獰猛な冬の景色。静かな二人きりの空間。そうだ、きっと言うなら今がいい。たった今身を思い知ってわかったように、次の機会はないのかもしれない。これ以上の機会は得られないかもしれない。

 唾をごくりと飲み下し、山葉は彼女の名前を呼んだ。

「なに?」

 ツォエはうっすらと目を開き、熱い吐息、吹雪の向こう側を眺めている。向こう側のもっと向こう側、バターミルククッキーよりも甘い、自分だけに見える景色をまばたきで咀嚼している。むしゃむしゃ、ごくん、ぱちぱち。

「ツォエ、聞いて欲しいことがあるんだ。ずっと言えなかったことなんだ。襲撃の事件のとき、俺は」

 言葉は尻切れになった。オクターブの跳躍は失敗し、湿度のない雪粒のように、空中でほどけた。彼は気付いたのだ。

 

 むしゃむしゃ、ごくん、ぱちぱち。

 ツォエはバターミルククッキーよりももっと甘い、自分だけに見える景色をまばたきで咀嚼する……。


 薄ら笑いのような、泣き笑いのようなため息が漏れた。

 どうして気付かなかったのだろう。とどのつまり、ここは孤独の穴ぐらだったのだ。ツォエには寒さも、空腹も、動揺もなかった。それというのも当然だった。彼女の心はここになかった。優しい世界に閉じこもり、軽やかな幻に耽溺していた。曖昧な眠りに浸る限り、彼女はどんな罪も赦すのだろう。まるで文字通りの聖女がそうするように。

 確かに言うなら“今”がいい。

 山葉は首を振った。最初からなにも聞いていない少女の耳元で、「やっぱり、後にするよ」と言った。

 曖昧な意思の疎通がこうして終わると、二人にできるのは静かに身を寄せ合うことだけだった。

 ツォエが夢を見られるのは今夜が最後だった。

 その後どうなるか、彼はよく知っていた。

 ゆっくりと目を閉じた。

 疲労に身を委ねた。

 色のない夢を見た。

 


 翌朝、山葉はツォエの呻き声で目を覚ました。

 ゆっくりと時間をかけ、正午には悲鳴になった。

 外は晴れていた。まるで春の始まりのような、美しい日だった。

  


打設だせつ……コンクリートを流し込むこと


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