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知らない間にできた手の甲の擦り傷に大げさな包帯を巻かれて診察室から出ると、暗い廊下でクーリロワを待っていたのはパリッとしたスーツを着た五十代の男だった。
「――パパ」
彼女と目が合った途端、男の凛々しい顔立ちは一瞬にして崩れる。よく通る声で彼女の名を叫ぶと、駆け寄り、抱擁する。
「ねぇ、ちょっと痛いわ」
「クロワッ、心配したぞっ、二度と戻ってこないかと」
父の声に混じった涙の気配に気付き、クーリロワは罪悪感でいっぱいになった。嗅ぎなれたオーデコロンの甘い香りに浸りながら、そっと広い背中に手を回す。
「私は大丈夫よ。ごめんなさい、パパ」
「いいんだ。お前が無事ならそれで」
父は名残惜しむかのようにもう一度ぎゅっと抱き締めると、身体を離す。そしてクーリロワの頬を両手で挟みながら言う。
「怖かっただろう、ひどい目にあったな。だけどもう大丈夫だからな、パパがついてる。さっ、家に帰ろう。ママも心配して待ってる。お腹は空いてるか? ママ、クロワの大好きなごちそう用意して待ってるぞ」
「うん」
……うん?
クーリロワは激しい戸惑いを感じる。気持ちの落差に自分自身、ついていけないようだった。まるで今までの時間が幻で、最初から存在しなかったようにさえ思えた。山葉――誰? ツォエ――誰? 少年――ますます誰? 聖女――いったい何の冗談?
そうして過去を置き去りにして、綿菓子のような繭にくるまれて夢を見る。パパと一緒にママが待つ家に帰り、みんなでごはんを食べる。食後は暖炉の前のラグの上、両脚を伸ばしてくつろぎ、ママと二人でワインを飲む。アルコールが駄目なパパはそれでも話に入りたくて、ロッキングチェアに座って本かテレビを観る振りをしながらさりげなく話題を振ろうとする。もちろんママはそんなのお見通し。苦笑いして、女の内緒話は怖いのよ、とパパをおどかす。茶目っ気たっぷりの冗談に、寒い夜の最高の贅沢、大粒のチョコレートチップがたっぷり入ったクリームチーズのアイスクリーム、ちょっとくどいくらいが素敵で、それから裏表のない両親の笑顔に、心をとろかす愛情。満ち足りた気持ちに涙さえ出てくるでしょう……。
恐ろしいのは繭の中に浮かぶこの生活が、夢ではないことだった。望めば叶うのだ、すぐにでも。父の言うとおりにすれば全てなかったことにできる。“前”とまったく同じように。そうして以前の生活に戻るのだ。またオペレーターとして? 今度は少しの思いやりと共感を覚えながら? あるいは父のコネを頼りに、もっと高給でもっと楽な仕事に?
まさか。
彼女にはわかった。このまま家に帰れば、二度と自分の力で立ち上がれなくなる。意志の力を失い、人生は緩やかな自殺になる。
「クロワ、本当に大丈夫か?」
不意に黙り込んだ娘に、心配そうな眼差しで父が言う。
「やっぱり無理しているんだな? 変態にさらわれて怖かっただろう。そういうときは甘えていいんだ。繊細なくせに、お前は昔から強がりだったもんな。それから、明日にでもちゃんとしたカウンセリングの先生を見つけよう。ママとパパが代わりになれないのは悔しいが、餅は餅屋って言うからな」
カウンセリング。
その単語を口の中で繰り返す。すると脳の片隅から片隅へ、記憶が紫電を描いて繋がった。彼女が思い出したのは、一度だけ聞いた名前だった。
「……どうした、心配してるのか? 前の先生とはあまりうまくいかなかったもんな。好きじゃなかったんだろう? 悪かったな、考えてみればあれはパパの失敗だ。経験があるというから年寄りの先生に頼んだが、離れすぎているのもよくなかったんだ。大丈夫だ、今度は若い人を探してやる。やっぱり同性がいいだろうな、同じ歳くらいで。その方がずっと話しやすいだろうとパパは思っ――」
「入間先生」
考える前に彼女は言った。
「パパ、私、入間先生がいいわ」
父は戸惑った表情を浮かべた。彼女からリクエストが出るとは予想していなかったのだ。
「誰なんだ、その人は?」
「この病院の精神科医よ。カウンセラーなんかじゃなくて、ちゃんと医師免許のある先生。一度だけ会ったことがあるの。感じが良くて、話しやすそうだった。それに、とっても優秀だって聞いた。私、その人がいい」
父は俯いた。沈黙。
不安になって彼女が呼びかけようとしたところで、「ようやく」と父は呟いた。クーリロワは首をかしげる。
「ようやくお前もわかってくれたんだな?」
その表情は泣き出さんばかりの感激に満ちていた。
「パパは嬉しいよ、クロワがこういうことの重要性をわかってくれて。そうだな、自分で選ぶのが一番だよな? 入間先生だな、パパに任せておけ。明日にでも予約を入れておこう。ああ、やっぱり嬉しいものだな、娘が成長した姿を見るっていうのは」
心中も知らずに喜ぶ父の姿を見ると胸が痛んだが、クーリロワは続けた。
「それと私、今日は帰らないわ。病院に泊まりたいの」
「泊まりたい? この病院にか? ベッドくらいならすぐに借りてやれるが……」
どうしてだ? と父の瞳は言っていた。今は帰りたくないとは言えない。もっともらしい言い訳をクーリロワは返す。
「ちゃんと先生のカウンセリングを受けて、心にしこりを残さない状態でママに会いたいの。それにホテルで私を助けるために来てくれた小倉さんとカチェートさんが心配だわ。怪我したって聞いたし……」
二人の背後から野太い声が話しかけてきたのは、そのときだった。
「なんの。名誉の負傷ですよ」
振り向くと、右目に包帯、首に頚椎カラーを巻いた小太りの男が立っていた。
「小倉か」
父が言う。娘との時間を邪魔されて明らかに苛立っていた。打って変わって低い声で応じた。
「今回の件はご苦労だったな」
「いえ、面目ありません」
大げさな調子で小倉は首を振ろうとする。固定されて動かないと気付くと、上半身を動かして首を振る。その様子がクーリロワにはまるで、いやいやをしている子供のように映った。
「とにかく私らとしては情けない話です、結局“お嬢さん”が自分の力で助かったのですから」
流石長官の娘ですな、と笑う。クーリロワを一瞥することもなければ、明らかに山葉に加担していたことにも触れようとしない。身の振り方をわかっているのだった。
「ふん、当然だ。捜索はどうなっている?」
「それが、天候が荒れ始めて難航しているそうです。汚染地域出身にはゴキブリのようにしぶとい奴もいますからね。まさか山越えしてまで街に移動するつもりではないと思いますが……」
山越えとは何だろう。それに、汚染地域出身というのは……。
途端にクーリロワは焦燥に駆られ、
「ねぇパパ、何の話? 捜索って?」
「いや、クロワは聞きたくもないと思うんだが」
「失礼ながら長官、例の共犯者である少年が意識不明である今、お嬢さんからもっと“詳しい”話を聞かせていただければ捜査も進むと思うのですが」
あくまで粛然とした口調の小倉の発言に、父は表情を一変させて噛み付く。
「黙っていろ小倉、あんな粗雑な連中が私の娘に詰問するなど許さんぞっ。この子がどれだけ傷付いたのかわからんのか? よくも図々しく――」
「パパ」と再度クーリロワが呼びかけると、父は言葉を止めた。
尚も彼女がじっと見つめると、溜息をついて言う。
「お前をひどい目に遭わせた誘拐犯のことだよ。山葉という名前だったな、忘れもしない。山麓で足跡が見つかったんだ。おそらく、誘拐された少女も一緒だろう。捜索班が今追っている。開戦を間近に控えたタイミングで、本当に厄介な男だよ。チンピラどもが各地で強盗と空き巣を繰り返しているんだ。あまり人手も時間もかけられん上、この天候じゃヘリも出せん」
それを聞き、クーリロワは動揺する。山葉の行方に関する情報はほとんど話していない。“ショック状態でよく覚えていない”など適当な理由を捜査員に伝えた後に父の名を出せば、彼らが無理に聞き出せないことは知っていたからだ。
もしかしたら、と思う。
人の良さそうな妊婦のことが脳裏をよぎった。あの後、すぐにその場を離れたが、なにか感付かれていたのかもしれない……。
悔やんでも後の祭りだった。顔を上げると、父と話しながらもさりげない調子で小倉が見ているのがわかった。目が合うと彼は内出血で紫色に腫れあがった唇を歪め、笑った。
とめないのか?
まるでそう言っているようだった。捜索をやめて欲しいと父に頼むなら、クーリロワはどうしても山葉との関係を説明せざるを得なくなる。もし説明すれば父は深く傷付くだろう。娘の妄想がまるで治癒していなかったと知って。それどころか今度は犯罪者を幇助したと知って。そこで彼女は顔がかぁっと熱くなるのを感じた。
(私、今何て考えたの? 犯罪者って?)
無理をさせたのは自分なのだ。ことの始まり、原因を作ったのは自分なのだ。にもかかわらず、考えているのは保身だけだった。それも『父を失望させたくない』と、もっともらしい理由をこしらえて。恥ずかしかった。保身を考えているのはつまるところ、無意識にでも家に帰った後の世界を考えているからだった。
ツォエと山葉は、もうどこにも帰れないというのに。吐き気がするほどの自己嫌悪。その感情から逃れたくて、父になにもかもぶちまけてしまおうかと思ったときだった。
「――クーリロワさんのような賢くて“分別のある”お嬢さんが娘さんで本当にうらやましいですよ」
小倉が言う。どういった話の続きかわからない。
しかしクーリロワにはわかった。それは警告だった。
私、馬鹿だ。
冷静になる。今やらなければならないことは自滅ではなかった。自分はいつもそうだ、と彼女は思う。ひとりではなにもできない。いつも最後には他人の――多くは父の力に頼ってしまう。そしてふと疑問に思う。山葉はどうなのだろう?
“彼”と言っていた。“彼”が予言したと。望みを叶えてもらうのだと。
何故だかそのことについて考えると、クーリロワはひどく不安な気持ちになるのだ。どうしても確かめなければならないと思うのだ。ホテルでテレビを点けたとき、画面に現れた男に釘付けになっていた、あの横顔を思い出す。真剣な眼差し。同時に、羨望のような色を黒の瞳に交えて。
そんなまさか。
あの悪魔に憧れるだなんてそんな。
あの狂人を頼るだなんてそんな。
なにもかもまともじゃなかったと言っていたではないか。
そんなはずがないと、悪い予感を必死で打ち消す。
だけど、と一方でクーリロワは思うのだ。
帰る家がなくなったとき、人はどうするのだろう?




