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狐たち  作者: nutella
3/52

 床を叩くパンプスの堅音が廊下に反響する。クーリロワは急いでいた。足早に狭い通路の一角を曲がりながら、僅かにウェーブする長い金髪を無造作に払う。そうして左耳に手をやり、ヘッドセットの音量を上げる。オフィスで書類と向き合っているときのように静かな状態であれば今のままで充分だったが、オペレーティングルームはそうではない。

 彼女の足が止まったところで、自動ドアが左右に開く。控えめな照明、天井のサーキュレーターの低音、端末を操作する絶え間ないタイプ音……そして、警備員と連絡を取るオペレーターの囁くような声がクーリロワを迎えた。

 五〇平方メートルほどの一室、パーティションで区切られたコンピューターに向かい、六人のオペレーターが作業をしている。男一人に女五人と、女性の比率が高い部署だった。警備員に対する緊急時の行動指揮なら男の方が優れているに決まっている――以前、そんな意見が横行し、八割以上を男性オペレーターが占めていた時期があったが、結果が数値として表れず、そういった主張は霧消した。今はその揺り戻しで割合が反転しており、数年もすればもう少し落ち着くはずだった。

 クーリロワが入室すると、数人のオペレーターが一瞬彼女に視線を向ける。それだけだった。気安い挨拶をする者はいない。

 好きにすればいいわ――そう思う。いつものこと。

 クーリロワは全体を見回す位置にある自分のデスクではなく、唯一の男性オペレーターの背後に進む。オフィスにいた彼女を呼び出したのは彼だった。彼女より年上の、三〇前後の男だ。通常の現場の監視や指揮は個々の担当オペレーターに一任されるのが通例だが、例外もある。彼はまだ日が浅く、もうしばらくはエリアマネージャーであるクーリロワが傍につく必要があった。

 二人の眼前には、視界いっぱいの弧状スクリーンがある。スクリーンには炎と煙を上げる問題の建物が映っている。現在異常事態にあるのは彼の担当する一軒家――海岸線を一望できる高台一帯を占める政治家の豪邸だった。敷地内には本宅の他、《離れ》と呼ばれるパーティ用の建物すらあった。個人で警備保障会社と契約するほどの財力を有するという事実を鑑みるに、さほど不思議なことでもなかった。

 今、異常にあるのは本宅の方だった。監視カメラの映像を、違う角度からのものにいくつか切り替えさせる。火勢はそこまで酷くないようだ。自力での消火は望めないが緊迫性は低いだろう、とクーリロワは思った。

「避難状況はどうなっていますか?」

 背もたれの上部に手をかけ、彼女は問いかけた。緊張した顔つきで新任オペレーターは答える。

「……えぇ、あの、それが、まだ確認中です。PPがS―2とMAを保護したとは連絡が入りましたが……」

 情報伝達の効率化のため、略語、暗語が多く使用される職種だった。PPはプライベート・パピー――警備員の略で、Sは警護対象である当該一家の息子、Dは娘というように示され、続く番号はその性別で何番目の子供かを意味する。S―2なら次男、D―1なら長女となるし、父親のFA、母親のMAは言うに及ばず、祖父母、客人、果てにはペットなどを表す略号もあった。

「火災の原因は?」

「不明です」

 唾を飲み込みながら、新任オペレーターは答える。そして、スクリーン隅に映る航空写真をマウスポインタで示した。

「ただ、建物外壁の三番カメラが火災と同時に壊れたので、出火場所はこの西側付近だと思われます。煙がひどくて近付けないので、はっきりしたことはわかりませんが……」

「火災というよりは爆発事故に近いようね」

 彼女が呟くと、我が意を得たとばかりに男性オペレーターは頷いた。

「はい、ガス爆発の可能性も……」

 クーリロワは頤に手を添えて数秒黙考すると、

「拡大して、建物の間取り情報を重ねてください」

 よくわからない、という表情のまま男性オペレーターは端末を操作する。即座にその画像が表示されると、彼女は南側の一角を指で示した。

「ここがキッチンです。その他給湯設備も爆発箇所とはかけ離れているのがわかるでしょう。ガス配管はここから地下を南に向かって通って、ガレージルームのタンクに直結しているはずです」

「ではガスではないと?」

 自分で言っておきながらも、確かなことはまだなにもわからない。どこか想定外の経路で漏出した可能性もあるのだ。

「……爆発直前の映像を出してください」

「は、はい」

 男性オペレーターが操作を始める。その間、クーリロワはヘッドセットの発信ボタンに触れながら、警備員と連絡を取る。

「こちらHQ、状況の進捗を報告してください」

「こちらPP―1。現時点での保護完了は、MA、S―1、S―2、D―1、D―3となっている。尚FA、GFは外出中で保護要件には含まれていない」

 野太い声が現状を語った。そこで軽くため息を吐き、

「おそらく、ガス爆発だろうな。破片が飛ぶ可能性もあるから彼らには念のため、《離れ》に避難してもらっている。《離れ》なら、キッチンでもガスは使われていないそうだ」

 やはり現場でも、ガスを想定しているのだった。男性オペレーターが、修正しなくてもいいのかと問うかのように、ちらりとクーリロワを振り返る。彼女は首を振った。

「では、D―2だけが未保護ということですね」

 ああ、と答えかけたところで、数秒の沈黙。

「……いや、たった今、PP―3が発見した。繰り返す。D―2はPP―3が保護した。怪我もないそうだ。……ふぅ、これで全員確保か。簡単だったな」

 彼の口調には安堵が入り混じっている。しかし胸をなでおろすにはまだ早かった。

「ではPP―2は敷地正門、PP―3は裏門で、それぞれ監視についてください。この状態ではセキュリティが甘くなるのは否めません。気を緩めず任務にあたりなさい」

 言いながらクーリロワは、サブモニターに表示されたほぼリアルタイムのGPS情報を目で追った。命令から数秒の間をおいて、ようやく二つのマーカーがマップの上を移動し始める。のろのろとした動きだ。明らかに彼らはこれを、すでに終わった事件と考え始めているのだ。苛立ちに唇を噛むと、彼女は威圧的な声で続けた。

「PP―1は《離れ》の警護を。屋内外に不審物はないか、念のためチェックもしてください」

「不審物……? 単なる事故だろう? 子供もいるんだ、わざわざ彼らの不安を煽るようなまねというのも――」

「命令です」彼女は言った。「チェックを」

 わざとらしい溜息の後、「了解」という返答があった。

 男性オペレーターが振り返ったのはそのときだった。爆発直前の映像が準備できたのだ。

「再生、始めます」

 頷き、クーリロワは気を取り直してスクリーンに集中する。

 映像は三メートルほどの高さから見下ろす角度――おそらく雨樋の下に取り付けられているのだろう――で、広い裏庭を映し出していた。丁度、窓際の高い位置から外を眺めるような形だ。スクリーンに描かれるのは僅か数分前の景色。傾き始めた太陽が、雲に呑まれようとする頃。色の抜け始めた芝生の中央には、二組のテーブルと椅子がある。画面手前では、さわさわと裏庭の花が風に揺れる。花壇は広く、画面を横切って続いている。冬だというのに、穏やかな景色。そこに突然、閃光が弾ける。視界が激しく揺れ、ノイズが走り、画面が黒一色に染まる。確かに爆発があったようだ。

「もう一度、今度はコマ送りで再生してください」

 キーボードが叩かれ、スローモーション再生が始まる。

「……ちょっと、わかりませんね」

 男性オペレーターが呟いたとおり、コマ送りでも変化はなかった。爆発が早すぎて通常のカメラのコマ間隔では捉え切れないのだ。爆発の衝撃波はカメラの下方向から来ているらしい――そのくらいの推測しか得られない。しかしクーリロワが目を付けたのはそれだけではなかった。

「この花壇の花……最近移植されたものね」

「そうなんですか? 僕は花とか詳しくないですけど」

 クーリロワは頷いた。じっと画面を眺め、確信を抱く。この地域の気候で花弁がここまで開くはずがなかった。もう雪の降る頃だ。枯れていないところを見ると、耐寒性には優れているのだろうが、自然に咲くようには思えない。どこか温室で育てたものを、ここ最近、移植したらしい。

「ですがマネージャー、それとこれ、何か関係があるんですか?」

「わかりません」

 そう言いながらも、クーリロワはなにか引っかかるものを感じていた。

「ここ一ヶ月で出入りした業者を全てサブモニターにリストアップしてください」

「は、はい」

 男性オペレーターは右手の回転収納式モニターを起こし、キーボードを叩いた。すると太枠で区切られた細かな文字列が画面いっぱいに並んだ。

 目的の情報はすぐに見つかった。およそ二週間前に植木業者が来ている。午後五時と、比較的遅い時間だ。補足のタグにカーソルを当てると、詳細がポップアップした。それを読んで理由がわかった。どうやら翌日が夫婦の結婚記念日のため、夫が妻を当日の朝に驚かせようと依頼したらしい。少なくとも、セックスレスでないのは確かね――そんな思考がちらりとよぎる。

「この業者の映像を」

 男性オペレーターは頷いた。十三日前の映像データを検索にかけ、表示させた。プログレスバーをクリックし、目的の時刻に再生時間を合わせる。

「少しだけ明度を上げてください」

 クーリロワは身を乗り出した。画面を見つめる。薄暗かった映像が、多少のノイズと共に明るくなる。それと同時に、台車を押した三人の男が時間差で画面左側から現れる。花の移植に来た業者だ。グレイの作業着と帽子という、とりたて特徴のない姿だった。スコップやシャベルだけでなく、クーリロワには使用用途のよくわからないレーザー測定器や、プラスチックの小型ハンマーなども持っている。

「特に、異常ないように見えますが……」

 おずおずと男性オペレーターは言う。

 同感だった。作業員はリーダーらしき一人の指示に従いながら、黙々と移植を進めている。不審な動きは見られない。再生速度を上げると、見る見るうちに、乾燥した表土を覗かせていた花壇は黒々とした土と、細くしなやかな茎と色彩豊かな花びらに装飾されていく。

 見当違いだったのだろうか……。

 そんな疑念が脳裏をよぎる。一家全員の安全は確保できたとはいえ、これ以上時間を浪費するよりは、火災の注視や、警備員との交信に集中するべきだった。再生速度を落とさせる。息を吐き、彼女は瞼を軽く揉んだ。

「そのようですね、映像を閉じてくだ――」

 言いかけて硬直する。

 視線は画面中央、ひとりの作業員に留まっていた。その男が監視カメラの存在に気付いたのだ。とはいえ、それ自体はさほど不思議ではない。小型でかつ、保護色で塗装されているとはいえ、“絶対に見つからないよう”設置されているわけでもないからだ。男が不自然だったのは、カメラの存在に気付いた瞬間、さっと顔を逸らしたことだった。続く映像ではそのような動きはもう見られない。カメラを目にしても憮然とした様子で作業を続けている。

 しかしクーリロワが確信するには充分だった。

(事故じゃない……)

 無意識の反射。後ろ暗い人々の本能。

 全ての暗示がそこにあった。

「あの、マネージャー? どうかしたんですか?」

 クーリロワは反応しない。自分の考えに没頭していた。爆発が事故でないということは、人為的なものということだ。そして人為的な爆発といえば、爆弾を考えるのが妥当だ。移植の際、土かなにかと偽装して、花壇に爆弾を埋め込んだのではないか――家屋まで多少距離があったとしても、爆発に指向性を持たせれば充分な威力を発揮できる。

(だけど……)

 そこまではいいとして、しかし、まだなにか釈然としなかった。この目的がわからないのだ。スクリーンに映る炎と煙に目をやる。消防隊が到着すれば、あっという間に鎮火されるだろう。その程度の火災だ。死者はおろか、怪我人さえでなかった。それは単なる幸運で片付けていいものなのだろうか?

(政治絡みの脅し? お前ならいつでも殺せるという? それにしてもわざわざこんなやり方をする必要があるの……?)

「HQ、こちらPP―1、《離れ》の中を“ざっと”チェックしているが、特に異常はないようだ。可燃性の気体を使った設備がないのも確かだ」

 クーリロワは喋らない。無言のまま、男性オペレーターを促す。

「あ、えっと……、はい、了解です。もう一度確認しますが、負傷者はいないんですよね?」

 相手がクーリロワでないことに気付くと、途端に警備員の声色は軽くなった。

「ああ、大丈夫だ。強いて言えばS―2の膝に擦り傷があるが――昨日転んでできたものだそうだ。運が良かったよ」

「ええ、本当に。消防はもう一〇分ほどで到着するそうです。そのまま《離れ》に待機してください。お疲れ様です」

「まぁ、今回は大したことじゃないさ」

 ねぎらいに気を良くしたように応じる。

「D―2から礼を言われて花まで貰ったよ。いい子だ。疲れも吹き飛ぶさ」

 クーリロワの心拍数が一気に跳ね上がる。

「花? 花と言いましたか?」

「あ、ああ」

 突然の割り込みに、警戒するような声でPP―1は答える。

「だが、それがなんだと……? 規則は守ってるぞ。金銭じゃないなら問題ないはずだ。だいたい、子供が表の鉢植えから引っこ抜いた、ただの花が――」

「映像を切り替えてっ」

 クーリロワは逼迫した様子で男性オペレーターに言った。

「《離れ》の映像よ、はやくっ」

 すぐにスクリーンに映っていた火災の映像が、《離れ》付近の監視カメラに切り替わる。

 やられた……。

 建物を取り囲むように整然と並ぶ、季節はずれの色彩。

 血の気が引く。

(避難なら、敷地外にするべきだった。仕掛けた爆弾が一つだけなんて、こっちの勝手な思い込みなのに……。この状況、全員《離れ》に集められている)

「PP―1、今すぐ全員をそこから退避させなさい、質問は認めない」

「だ、だが、たった今ここに待機と――」

「いいから早くっ。火災の原因は花壇に設置された爆弾よ。そこも爆発する可能性があるわ。パニックにならないよう、今すぐ……」

 しかし爆弾、という単語で彼は平静を失ったようだった。すぐさま叫び出す。

「に、逃げろっ……、ここも爆発するぞ、逃げろ、逃げろっ」

「なっ……、落ち着きなさい。あなたがパニックになってどうす――」

 返答はPP―1のフルフェイスシールドの集音マイクが拾う子供の悲鳴だった。

 正面出口付近の監視カメラがまず捉えたのは、泣きながら走る男の子だった。次に警備員、その後に少女を抱えた母親が続いた。

 クーリロワはデスクを叩く。スクリーンを凝視したまま動けない。

 更に子供が二人。

 その直後だった。スクリーンが発光し、ヘッドセットに轟音が響いた。音量を高めに設定していたクーリロワは小さな悲鳴を上げると耳からむしりとった。今度の爆発は桁違いだった。比較的離れた位置の木に設置された一台が、唯一、《離れ》の全景を捉えていた。耐火構造にも関わらず、ごうごうと火の手が上がっている。ガラス張りだったリビングルームには、割れたガラス片が害意を持って飛散し、建物の一部はまるで巨大な彫刻刀で大きく抉り取られたようになっていた。その惨状に、担当外のオペレーターさえ振り返り、目を丸くしている。

 それでもいち早く平静を取り戻したのはクーリロワだった。再びヘッドセットを装着すると、失神している場合を考えて大声で、

「PP―1、PP―1、聞こえますか? 現状報告を。全員無事ですか?」

 呼吸は聞こえる。しかし返答がない。クーリロワは質問を繰り返した。やがて擦れた声が応じた。

「こ、こちらPP―1……うぅ、くそ……現状は……」

 数秒の沈黙。

「MAが……足を怪我している。し、しかし他は全員無事に見えるが……」

 そこで女性の金切り声があたりをつんざく。錯乱しているらしく、雑音も混じってクーリロワには理解できない。かろうじて、『あの子が』という言葉を聞き取る。

「どういうことですか? 本当に全員脱出して――」

「あぁ、なんてことだ。ちくしょう。……ひとり足りない。女の子、D―2だ。D―2がいない。逃げ遅れたんだ。ああ、くそ、神様。なんでこんな……」

「PP―1、今すぐ戻って中を調べなさい。今ならまだ間に合います。急いで」

 呆然としていた男性オペレーターが、我に返ったように振り返る。

「マネージャー、無茶ですよこんな状況じゃ。爆発の大きさ見なかったんですか? 逆に彼が危険にさらされることに――」

「それを前提とした仕事でしょうっ」

 クーリロワが声を荒げると、彼は初めて不服そうな表情を浮かべた。

 炎はますます勢いを増している。クーリロワは身を乗り出すと片手を伸ばし、自らキーボードを叩いた。いかがわしい店のように、右の胸が男性オペレーターの首筋に形を変えるくらいくっついているが、気にしている場合ではない。映像が赤外線モニターに切り替わる。

「PP―1、聞きなさい。いいですか、延焼は最高部でもまだ五〇〇℃程度です。フラッシュオーバーの危険性も低いわ。上部の煙層や炎に直接巻かれなければ一八〇℃以下――これは短時間なら強化服の耐熱層で充分耐えられる温度です。ただ、このまま突入しても熱風で肺を焼かれる可能性があります。ですから――」

「お、俺には無理だ……。それに、こんな中飛び込んでも死ぬだけだろ」

「ですから手順を教えます。やり方は簡単です。シールドの吸気フィルターをカットしてください。それだけです。それだけで自動的に圧縮酸素の内部循環に切り替わります。マージンを取っても、二五〇秒ほどなら安全に――」

「無理だって!」

 警備員が大声を出す。爆発前の威勢は爆風と共に消し飛んでいた。

「落ち着いてください。安全は保証します」

「安全……? あんた、アタマ本当におかしいんだな。あんたの言う安全を信じてる奴なんてどこにもいねぇよ」

「…………」

「だ、大体、強化服を着てなきゃ入れない場所で、どうやって生身のガキが助かる?」

 間があった。

 静かな声で、クーリロワは言った。

「……花をくれた子なんでしょう? どうしてそう簡単に諦めるんですか?」

「はっ、安全圏にいる奴の台詞だな。……もういい。俺は降りる。自殺しろって命令なら、他の奴で試してみればいい」

「ま、待ちなさ――」

 ぷちっ、と通信が途切れる。シールドを脱いだのだ。

 クーリロワは震える息を吐いた。

「PP―2、PP―3、オープンチャンネルです、今の通信は聞いていましたね? 時間がありません。代わりにお願いします。大まかですが、観測できた熱源分布情報をそちらに送ります。危険を避ける目安にはなるはずです。それからさきほども言ったように、突入の前にはフルフェイスシールドの吸気孔を……」

 そこで彼女は言葉を止めた。反応がないのだ。通信に問題はない。サブモニターにも、二人はオンラインと表示されている。

(私を、無視してるの……?)

 拳を握り締める。

「あなたがたはっ」

「マネージャー」

 そのとき、背後から声がかかった。新任の男のものではない。クーリロワは振り返る。一回り年上の、ベテランの女性オペレーターが席から立ち上がっていた。

「何ですか、あなたは自分の担当に……」

 噛み付くように言いかけ、クーリロワは口を閉ざす。室内を見渡した。

 他のオペレーターも皆、自分を見つめている。無言の眼差しに込められた色合い、それは共通していて、見事なまでに一色だった。

 咎めの色。

(ああ、これは……)

 全身がさぁっと冷えていく。興奮状態にあった精神が、一気に冷えていく。

(いつものこと、ね)

 自分の言葉が共感を得られない。他人の気持ちから乖離して、誰もついて来られない。

 逃げるように顔を逸らす。スクリーンを見つめる。燃える建造物を見つめる。支柱が折れ、二階の一部が崩落する。

 そう、いつものこと――彼女は思う。しかしどういうわけか、今回は冷え切った心の奥で、叫ぶ声があった。

 安全圏? 私が安全な場所に隠れているだけだと? 偉そうに命令しているだけだと? ――ちがう、ちがうわ。私もやったのよ。私は、自分の手まで汚したのよっ。こんなちっぽけな警備会社からずっと遠いところで、私は“世界”を救おうとしていたのよ!

 それが言葉になることはない。



 ほどなくして、D―2――六歳の次女は無事であったことが確認された。爆発の際、ソファの厚い背もたれが、奇跡的に彼女を熱風と破片から守ったのだ。小柄だったことも幸運の一つだった。階段前の廊下付近までソファごと吹き飛ばされたとき、少女の左耳の鼓膜は破れていたが、命に別状はなかった。彼女はそのまま近くのバスルームの窓から脱出した。

 その報告を受けると、クーリロワは自分のオフィスに向かった。中に入りドアを閉める。人目を惹く彼女の外見とは反対に、殺風景な部屋だった。彼女は窓際のデスクに歩み寄る。雑多な書類を収めた水色のバインダを手に取る。

 誰も死ななかった。

 誰もひどい怪我はしなかった。

 良くはないが、最悪でもない。得られた教訓は明日に繋げればいい。

 めでたしめでたし。

「…………っっ!」

 彼女はバインダを振り上げると、思い切りデスクに叩きつけた。留め具が外れ、紙が舞った。



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