28
吐き出す息が冷厳の夜気に混じり、白い霧になる。吹き出た汗は溶けた雪と混じり、髪を固める結晶になる。踏み出す足取りは重く、沢の細い水流を跳ね散らす。沢の水源を辿るように、山葉はひたすら道なき道を上り続ける。木々の群れに踏み込んでいくほど冬の匂いが濃くなっていった。ぴんと伸びた灰色の枝は、降り積もった雪を払うかのように風に揺れていた。
背後を振り返る。
目を細め、長い傾斜を見下ろす。懐中電灯の灯りは見えない。途中、足跡を何度か偽装して、別方向を目指しているように見せたが、うまくいったのかもしれない。わざわざ上流へ向かって沢を進んでいるのも、捜索隊に足跡を辿らせないためだ。クーリロワが通報したのか、それともなにか別の要因があったのか――今となってはどうでもいいことだった。たとえ彼女が呼んだのだとしても、山葉にはそれを責める資格も、責める気もなかった。本心からそう思っていることには、なぜか安堵を覚えた。みっともなくやせ細り、喉の奥でぴりぴりと痺れる安堵だったが、少なくとも自分の選択の正当性を保証してくれているように感じられた。
喉が渇いたので 一度足を止める。木の幹に張り付いた雪を手袋をはめた手で掬って口に放り込んだ。さぁっと舌の上で溶け、pHの関係か黄砂の関係か、奇妙な風味のする液体をごくりと飲み込む。
顔を上げて再び歩き出してみると、闇夜の森へ消える上流の向こうには、降雪に霞み連峰が見えた。積雪は鏡のようで、月光をよく反射した。十年前に、この峰の合間を縫うようにして中腹まで登れば、蜂蜜色の雪を被った世界最大級の一枚岩を、一番美しい角度から見渡せたことだろう。ALBM(空中発射弾道ミサイル)が粉々に砕くまで、その触れ込みに多くの観光客が足を運んだものだ。
ツォエは眠ったままだった。山葉の背中に身を預け、静かな寝息を立てている。小さな身体は揺られるがまま、フードをかぶった頭で山葉の耳をくすぐる。目を覚ます気配はない。目を覚ましたくないのかもしれない、と山葉は思った。少年はいない。彼女にしてみれば母親を失ったのと同じことだった。
最悪を想定し、最善を願う。泥をすすり、命を賭ける。本気だった。しかし自身の無力さは、そんな思いを裏切るようだ。結局のところ、彼は失敗してしまったのだ。最善を尽くすと言いながら、死に体で奪取したのは《変な生き物》だけ。ただのぬいぐるみ。それは彼女を本質的な意味で救わない。どんなに思い入れても、所詮は物に過ぎないのだ。
起きたら泣くだろうか、と彼は思った。
泣くだろうな、と思った。
狂った聖女――しかし望みは普通の少女となんら変わりなかった。ツォエをただの子供と断じたクーリロワは、もしかすると正しかったのかもしれない。
「予言、か」
裂けた唇を動かさず、山葉は呟いた。
「そんなもの、最初からなかったのかな……」
クーリロワの言葉は、ずっと頭の中で渦巻いていた。指摘は正しかった。どこまでも正論だった。予言というものは、起こるまで実証出来ないのだ。それを泥と垢に汚れた難民の少女が言ったとして、どうしてあのときの山葉が信じられたのか。
カチェートは、山葉の考えを狂った妄想と言った。そして、危険だとも。ひょっとすると、それが唯一の真実なのかもしれない。彼は熱に浮かされ、幻覚に翻弄される病人のように、正気を失っていたのかもしれない。まるで三半規管を傷付けた獣。どこにもたどり着けず、ぐるぐるとその場を廻り続け……。
息切れがして、彼は足を止めた。休む頻度が増えていた。これではよくないとわかっていても、腿が上がらないのだ。
「くそ……」
口に出してみた罵りは、自分でもぎょっとするほどしわがれていた。睫毛にかかる雪を、まばたきで払う。息を吸い、歩こうとする。しかし数歩進んだところで彼はつまずく。沢に埋もれた石に足を取られる。バランスを立て直そうとするも、背中のツォエがずり落ち、彼は咄嗟に抱きかかえながら、地面の方へ倒れようとする。
パウダースノウが舞った。
怪我した肋骨に、激しい痛みが走った。
しかし、呻きながら倒れていたのは十秒ほどのことだった。彼はのろのろと起き上がると、ツォエの背に手を差し入れ、上体を起こしてやった。幸い、水には触れていないようだ。黒髪についた雪を払ってやる。そうしているうちに、彼はあることに気付いた。
ツォエのコートの胸元にすっぽりと穴が開いていた。あるべきものがない。慌てて、視線を周囲に走らせる。背中にぬいぐるみが当たる感触に気をつけながら歩いていたので、道程で落としたのではないと確信していた。そして確信通り、すぐに彼はぬいぐるみを発見した。小川の流れに脚を一本浸しながら、岩の陰に落ちていた。
彼はそろそろと屈み、胴体を掴んだ。持ち上げ、顔を近づけた。月明かりを頼りに目を凝らすと、首の根元の破れ目が大きくなっているような気がした。戦闘に巻き込まれたせいかもしれない。白い綿が、少しだけ飛び出していた。ぼろぼろだ、と思いながら右手の手袋を外し、人差し指で中に押し戻してやる。すると綿とは明らかに違う感触に指先が触れて、彼は不思議に思った。もう一度指を深く差し入れて確かめてみると、かじかんだ指先でもわかった。異物が入っているのだ。
なぜだか心音が大きくなった。息が逸った。
胸騒ぎがしていた。心のどこかで、それ以上はやめておけという声がしていた。見たくないものからは目を逸らしておくべきだと。
懐かしい匂い、姉の影……。
山葉は指先に触れるものを引き出した。出てきたのは小さなプラスチックのケースだった。中には一枚の紙幣と何かのカード、それから半分に折った耳かきが収められていた。見ているものがどこか、遠い世界の出来事に思えた。なにに使われる必要な道具か、彼は知っていた。手が勝手に動き、ケースの底をさぐる。次に引き出したのは、一辺二センチメートルどの、透明な袋だった。張り合わせの留め口がある。
袋の中には、白い粉が入っていた。
(違ったんだ)
ため息が漏れた。
君は、聖女ではなかった……。
もはや信じるべき最後の理由も潰えたのだ。融けた雪が睫毛にかかり、彼は濡れた目を瞬いた。空を見上げながら、道中で聞いた予言を思い出していた。人気のないパブの駐車場――あのとき、ツォエは何と言っていたか。空が燃えている。燃えながら、落ちて来る。そう言っていた。彼女は嘘を言っていたわけではなかった。確かに彼女には見えていた。火の気はあったのだ。ほんのりと黄色く色付いた雪、肥大した瞳孔と、水のプリズムを通して、空は火の粉を放っていた。月の光に輝き、はらはらと、燃えながら落ちていた。
掌の上、一式の道具を見つめながら、彼は膝立ちのまま、氷柱になっていた。こんなもの、捨ててしまえばいい。なのに彼の手は動かない。白い粉は、そのほとんどが袋の内側にこびりついた“かす”みたいなもので、全てこそぎとっても、あと一回分くらいしか残っていないのだろう。なくなれば、彼女は嫌でも過酷な現実に立ち向かわなくてはならなくなる。あるいはそれが、彼女が目を覚まさない理由なのかもしれなかった。
どれくらいそうしていただろうか。長い時間ではなかった。山葉の視界の端に、光がちらついた。はっと我に返り、後方へ目を凝らした。すると数キロ先、なだらかな斜面をずっと下った地点に、か細い光点が見えた。懐中電灯の明かりだ。追っ手をまいたのではなかった。ただ、地形の影になって、今まで見えなかっただけなのだ。それはゆらゆらと動きながら、少しずつ距離を縮めていた。数は二つ、前に見たときには五つだったことを考えると、二手に分かれたのだろう。
山葉は立ち上がると、ツォエの前で跪いた。そして、彼女の顔を、花びらのような瞼を見つめた。かじかんだ指で頬を撫でた。ゆっくりしている時間がないことを知りながらも、彼は少しの間、そうしていた。やがて彼の顔に、真一文字の唇が示す、決意の色が浮かんだ。
山葉は中身を元通りにした《変な生き物》を、ツォエのコートの隙間に挟んでやった。
彼女を背負い、立ち上がった。一度休んだ身体は、ぎしぎしと悲鳴を上げた。深夜の森に、獣の遠吠えが響いた。彼は燃える雪の空を見上げた。
結局、なにも変わらないのだ。
先に待ち構えているものが何であれ、進むしかなかったし、後ろから追い立てるものが何であれ、やはり進むしかなかった。不帰着点などとっくに過ぎていたし、そもそもの始まりから、山葉はこうなることを知っていたのかもしれない。同じような月夜の暗がりで少女を抱え上げたときから、物語がこうまでグロテスクになることを。姉とツォエが持つ奇妙な相似はますます分かち難く、それはまるで、過去をやり直すチャンスが今一度、与えられたようにさえ感じられるのであった。勝ち目が少ないのはわかっていた。それでもやり遂げなければならない。ちっぽけで、ちゃちなプライドをもってして。
最悪を想定し、最善を祈る。
泥をすすり、命を賭ける。
最後にはツォエに恨まれるかもしれない。それでも伝えるべきことを伝えられないでいるよりは、そんな終わり方が自分にはふさわしいと、自嘲でも、ヒロイズムからでもなく、素直な気持ちで、今なら思えるのだった。




