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夜と月と雪と丘と木々と常夜灯と地平線まで続くかという侘しい直線路、その路肩に駐車する、黒の乗用車を最初に発見したのは、懐妊十五週目の、お節介焼きの妊婦だった。彼女は延々と、まるで、ラジオのように絶え間なく愚痴を言い続ける運転中の夫――大半は無駄に時間を食う長ったらしい検問の列や、航空規制により空路で実家に帰れなくなったこと、靴の修理の仕事が下降気味だということに関する愚痴だった――に声をかけ、実はその時点で三〇〇メートルほど通り過ぎていたのだが、「別に止まってくれって合図があったわけじゃないだろう、どうせちょっと休んでいるだけさ」と不乗りな夫に、「路肩といっても単調な夜の直線路では追突の可能性もある、そんな場所で休む人間はいない、動けない状態だったらどうするのか、なにか病気だったらどうするのか」というような旨を、静かな口調で告げ、Uターンさせた。
小男で愚痴っぽく、顔も良いとは言えない――しかし文句を言いながらも、結局は自分の考えを尊重してくれる年上の夫が、彼女は好きだった。
ヘッドライトが周囲を照らす。俺が行く、という夫を制し彼女は車外へ降りる。夫は口下手だった。ぶっきらぼうな物言いで、しばしば慣れていない人を不必要に怖がらせることがあった。ねぇあなた、と声をかける。
「ちょっと、こんなところで停まってどうしたの、大丈夫?」
ウィンドウをノックする。通り過ぎる寸前に見た通り、乗っているのはブロンドの若い女性だった。両手をステアリングに乗せ、その上に突っ伏している。
「もしかして気分悪いの? 病気? 救急車を……」
女性は顔をあげないまま首を振る。
「わかった、ガス欠でしょう? なにか車のトラブルとか」
女性は同じように首を振る。
「……こんな場所に停めてちゃ危ないわよ、いくらテールランプ点けててもさ。こういう道だと前を見ないで運転する人もいるし」
そこで妊婦は気付く。女性の肩が小刻みに震えているのだ。
「あの、ごめんなさい、もしかして、なにか嫌なことあった? おせっかいなのはわかってるけど、もしよかったら私、話を聞くわ。私も《窓》の紛争で叔父を亡くしてるから……」
「大丈夫よ」
そこで初めて、女性が顔を上げて言った。同性でも一瞬見とれてしまうほどの美貌だった。潤んだ目元さえ、引き込まれてしまうような色気を添えていた。しかし不思議なことに、こんな美人の知り合いはいないというのに、どこかで会ったような気がするのだ。
尋ねてみようかと思ったところで、バタンと音がして、妊婦は振り返った。
「あなた」
夫が車から降りていた。喧嘩っ早いという意味ではないが、もともと短気な人だ。待ちきれなくなったのだろう。ヘッドライトに照らされた周囲の地面を見渡しながら、近付いてくる。妊婦が再び視線を戻すと、女は、
「本当になんでもないから」
「だけど、とてもそんな風には見えないわよ」
「気持ちだけ、有難く受け取っておくわ。おせっかいだなんて、思ってないから」
一瞬笑みらしきものを浮かべ、髪をかきあげる。必死で平静を取り繕おうとしているようにしか見えない。しつこいのは承知で、もう一度粘るべきかと思ったときだった。
「わかった」
二人の近くまで来た夫が言った。何故か緊張した声だった。美人の涙を見て動揺したのかと考えると、妊婦は一瞬、激しい嫉妬を感じた。しかし夫の口から続く台詞は、彼女の予想を裏切るものだった。
「あんたがそう言うなら、俺たちは退散するよ。邪魔して悪かったな」
「え? ちょ、ちょっと」
夫はがしっと強い力で妻の手を掴んだ。そのまま、ずるずると引き摺るように彼女を車まで連れて行く。
「まだ話の途中だったじゃないっ、どうしてそう冷たいのよ? 彼女、きっとなにかひどいことがあって……」
半ば強引に車に乗せられた妊婦が不満の声を上げる。しかし夫の目は真剣だった。議論している場合ではない、とその目は言っていた。運転席に乗り込むと、すぐさまハンドブレーキを解除し、車を発進させる。
「ね、ねぇあなた、いったいなにがそんなに――」
「後ろを確認するんだ、あの車、ついて来てないな?」
雰囲気に気圧され、妊婦は言い返すでもなくリアウィンドウを振り返る。
「来てないけど」
「携帯は――ああ、くそ、繋がらないのか。いや待てよ、そういえばトンネル内に電話があったよな? あのオレンジ色のSOSって書いてあったやつ」
いよいよ理解できない。妊婦は当惑の声を上げた。
「いったい何の話? 電話? どうして?」
「お前、もしかして気付いてないのか?」
「なにがよ?」
「あの女性だ。さっき検問で写真見せられただろう? 覚えてないか?」
その瞬間、記憶が蘇る。さっき見覚えがあると感じたのはそういうことだったのだ。そして思い出したと同時、彼女は鋭い非難の眼差しを夫に送る。
「確かロリコン警備員に、女の子と一緒に誘拐されたって話でしょう? だったらなおさらどうして置いていくのよ、今すぐ戻ってでも連れて行かないと」
「その変態が近くにいたらどうする?」
「やめてよそんな。彼女、一人だったじゃない」
「お前は気付かなかったみたいだけどな、車の周囲に足跡があった」
バックミラーと前方を神経質に見やりながら夫は言う。
「足跡は女のものじゃない、男のだ。積もった雪で半分埋もれかけていたが間違いない、俺は靴屋だからな。それに結構大きめだった。警備員っていうのとも符号する」
「じゃ……じゃあ、近くで私たちを隠れて見ていたってこと? 彼女が泣いていたのは脅されていたからで」
そこまで考えた途端、背筋が寒くなって、妊婦は無意識に夫の腕に触れた。
「お前、車内はっきりと見たか?」
ふるふる、と彼女はかぶりを振る。
「そりゃよかった」
充分に距離を稼いだと思ったのか、夫は少しだけ表情を緩めて、妻の手を握った。
「映画なんかだと、見ちゃいけないものを見た主人公は血も涙もない殺人鬼に地の果てまで追いかけられるからな。下手に首を突っ込んでいたら今頃厄介なことになっていたかもしれん」
「ねぇ、怖がらせないで」
「すまん、だけど所詮作り物の話さ。現実は違う。俺らは決定的ななにかを見たわけじゃないし、これから警察に電話して、それで事件は解決だ。あの人は助かる。女の子もな。無節操なロリコン野郎には天罰を下してやらなきゃならん」
「ええ、だけど……」
「気持ちはわかるよ。俺を軽蔑したか?」
驚いた様子を見せる妻に、夫は声を和らげて言った。
「さっさと逃げたからさ。お前のことだ、あの女性をなんとかして引っ張り込めばよかったって思っているんだろう」
事実だった。妊婦は何と言っていいかわからず、逃げるように視線をさ迷わせた。
「俺も出来ることならそうしたかったからさ。だけど見てわかるだろう、俺はチビの靴屋だ。喧嘩の強い男じゃない。なにかあったとき守れないのが怖いんだ。なぁ、俺はお前のおせっかいなところが好きだ。そこに惚れて結婚しようと思ったし、後悔なんてしてない。だけど、俺が本当に大事なのはお前だけなんだ。お前と、お腹の子だ。だから、たとえ何と思われようと、俺はやるべきと思ったことをやるよ」
妊婦は心が温かい気持ちで満たされるのを感じた。この人は本当に私を愛してくれているんだ……。そんな確信が、じんわりと染みこんでくるような幸福感に繋がる。
「ん、ありがとう」
彼女は精一杯さりげない調子を装って言うと、照れ隠しに、にやっと笑った。そして、握り拳から小指と親指だけ伸ばした受話器のジェスチャーを作って、自分の耳元で振った。
「それじゃあ、ロリコンに天罰、ね?」
夫も笑った。自分たちはこの先もずっと大丈夫だ。そう二人は思った。
コールを五回数えたところで応答があった。
「あの、今ですね、二一号線を走っているんですが、そこで誘拐されたという人にそっくりの女性を見つけたんです。……ええ、クーリロワって名前の人だと思います。黒のセダンに乗っていて……あ、いえ、夫も一緒です。夫が先に気付いたんです。ああ、それから、車の周りに男性のものらしい足跡があって、もしかしたら誘拐犯が近くにいるんじゃないかって――」




