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狐たち  作者: nutella
27/52

26

 瞼を開くと、いつかのように、山葉の隣にはクーリロワがいた。彼女はまっすぐに前方を見つめている。すぐに、運転中の車にいるのだと彼は気付いた。気を失っていたのは、そう長い時間ではないようだ。

 ヘッドライトが闇を切り裂く。バックミラーに映っているのは鉄骨を満載した大型トラックだけである。吹雪はいつの間にか弱まっていた。雲の合間、月がかすかに見える。

 ジャケットは脱がされ、山葉の腕には包帯が巻かれていた。包帯には血が滲んでいたが、出血は止まっているようだ。意識の覚醒と共に、全身の感覚が戻ってくる。彼は汗をかいていた。それは冷たい汗だった。

「本当は病院に行くつもりでした」

 前を見据えたまま、クーリロワは言った。

 そうだろうな、と芯の通わぬ声で彼は返した。

「どうしてそうしなかったんだ?」

「そうして欲しかったんですか?」

 彼は口を閉ざした。後部座席では、取り戻した《変な生き物》を胸に抱き、ツォエが横になっている。クーリロワは山葉の視線に気付くと、

「過呼吸では死にません。彼女、あなたの怪我を見てパニックになって、気を失ったんです。今は睡眠薬も効いているんでしょう」

「子供には少し、衝撃的だったかもしれないな」

「大人でも、よ」

 静かな口調だったが、はっきりとした怒気がこもっていた。

「すまない」

「……こんなはずじゃ、なかったんです」

「それくらい、わかってるよ」

「わかってないわ。そんな反応ができるのはきっと、他人になにも期待してないからなのよ」

 彼女はきつくステアリングを握った。

「いっそ責めてくれればいいのに。なにもかも私のせいだって。クーリロワ、お前を許せないって」

「……誰かを恨んで生きるのは、辛いんだ」

 しかしその返答は、彼女の気に召さなかった。

「馬鹿みたい、なにかっこつけてるのよ。恨んでいるかって前に私が聞いたとき、あなた、答えられなかったじゃない」

 山葉は言い返せなかった。

 彼女は桜色の唇を引き結んだ。そして、ぽつりと言う。

「あなたみたいな人間……大嫌いよ」



 車はやがて、山すそに広がる丘陵地帯に差し掛かった。移り気な景色がしばしの間、丘の上、一本の大木、雪原を掃く風の穂、揺り篭に黒雲を抱く下弦の月へと姿を変える。地平線まで続く直線路を走るのは、彼らの車だけだった。

 しばらくして、山葉は車を停めるよう言った。クーリロワは不審そうな顔をしたが、なにも言わず徐行し、路肩に停車した。

 ドアを開けると、途端に冬の匂いが車内に吹き込む。凍える身体を鞭打ち、車外へ一歩、踏み出す。寒さは痛みを少しだけ和らげた。

「……なにをするつもりですか」

 彼は後部ドアを開けると、眠るツォエの身体を起こし、シートに寄りかからせた。ダッフルコートのポケットから彼女の毛糸の手袋を取り出して嵌めてやる。 クーリロワも車を降りる。その表情は、山葉がどうするのかもう悟っているようだった。

「待ちなさい。こんなの、いきなりすぎます」

「ラジオのスイッチを点けてくれ。たぶん、九〇、三でいいと思う」

 わからない、という顔をしている彼女に、再度促すと、彼女は従った。車内のスイッチを操作し、ラジオの音量を上げる。すぐに、彼女の顔に理解の色が浮かぶ。

「……わかっただろう? さっきから対向車が少ないのも、検問が理由なんだ。このままではいずれ発見される。事件は派手になり過ぎた。俺がヒーロー扱いされたせいもある。だけど実質これは、クーリロワ……君のための捜索だ。君の父は本気だ。今度は逃げ切ろうにも、これまでのようにはうまくいかない。特にヘリの場合、開けた場所で見つかったらそれで終わりだ。空中からの追尾を巻くことは絶対にできないからな」

 ツォエのワンピースには、赤と白のチェック柄のフードが付いていて、山葉はそれを、頭まで被せてやった。コートの前もしっかりと留めてやるが、思い直し、一番上のボタンだけ外した。そうして、その間に《変な生き物》を入れてやった。ちょうど、狐の顔だけが、ツォエの首元から覗く形になる。

「唯一の幸運は、監視衛星が第七デブリ群の回避軌道上にあるということだ。小さな幸運でしかないが……。少なくとも、完全に負けたわけじゃない」

「負けたわけじゃないって」

 信じられない、というようにクーリロワは顔を歪めた。

「こんな場所で降りて、正気ですか? 街まで、一晩で着く距離じゃないんですよ」

「だから意味があるんだ」と彼は言った。「正気の人間には、予想できない経路を選ばなければ」

 それに、これより過酷な行軍を何度も体験したのだ。苦痛は時間と共に慣れ、擦り切れた踵のように身体の一部になるものだと、彼は経験的に知っている。

「ここの山は知っている。たとえ吹雪でも、迷子になって遭難するような地形じゃない。演習で一度、来たことがあるんだ。滞在したのは一週間ほどだったが、地図の一点を学ぶのには、充分な時間だろう? 山の中腹から、迂回する形で街の方に抜ける道があるんだ。昔はハイキングコースにも使われていたらしい」

 肋骨がずきずきと痛む。彼は一度動きを止め、動悸が収まるのを待った。

 大きな音を立てて、クーリロワが車体を叩いたのは、そんなときだった。

「山葉の、ばかっ」

 およそ彼女らしくない、幼稚な罵倒。

 山葉は驚いて、振り返った。彼女は両拳を握り締め、燃える瞳を投げかけていた。

「自分は正気じゃないって? そうよ、その通りよ。そんなこと、私にはわかっていたわ。今更としか思わないわよ」

「クロワ……」

「パブで私に言ったこと、覚えていますか? 三ヶ月前の事件のとき、ツォエが空爆を予言したとか何とか……あんなの、どう考えたっておかしいのよ」

 彼は顔をしかめ、彼女に真正面から向き直った。

「いい加減にしてくれ。まさか君もカチェートと同じで、空爆が自演だとか――」

「そんなことじゃないわっ」

 何もわかっていないと言うように、彼女は首を大きく振った。

「子供の言うことなのに、どうしてまだ”起きてない”出来事を信じられたのよっ」

「それは――」

 反論しかけ、そこでふと、彼は気付いた。

(それは……確かに、そうだ……)

 いかなる予言があったとしても、あの時点ではまだなにも起きていなかった。合成開口レーダーでも探知出来ず、一切の兆候さえなかった。

 確かにクーリロワは正しい。予言というのは、起きるまで実証できないのだ。ならば名も知らぬ難民の少女の言葉を、あのときの山葉がどうして信じられたのか。

「私、何度も伝えようとしたのに。あなたは取り合ってもくれなかった。あの少年も、ツォエもおかしくて、その上、山葉まで変なこと言い出して……。だったら、あなたを助けられるのは、私しかいないじゃない」

 彼女はなにかを投げつけた。それは彼の目の前で、雪化粧を舞い上げて転がった。

「これは……」

 彼は屈み、注意深く拾い上げた。

「あのときの銃、か?」

 間違いようがなかった。分断された二つの破片。彼が隠そうとした、殺人の証拠だった。軽いのは弾倉が取り外されているためだった。警察が証拠物を保管しておく特殊なプラスチックバッグに入っていた。唐突に理解していた。倒れたカチェートが、最後になにを言おうとしていたのか。

「もしかして君が、カチェートに……」

「持って行きなさい。ツォエに伝えるも伝えないも、あなたの自由よ」

「どうしてだ。君がここまでする理由なんて、なかったじゃないか」

 彼女は笑った。本当にわかりませんか、と問う。自虐的な笑みだった。

「それはね、あなたが泣いていたからよ。あの夜、救出するはずだったこの子の“お母さん”を殺してしまったことに気付いた後、子供みたいにめそめそ泣いていたから。……それで、ねぇ、あの映像を消したのが会社の方針だって? そんなわけないじゃない、私がやったのよ。どこの会社が警察に怪しまれるのをわかっていて、そんな真似するのよ?」

「クーリロワ……」

「警備員なんて臆病者ばかりで情けないって。自分だけが大事な卑怯者ばかりだって。そう思っていたのに、あのとき私わかったの。ああ、私がこの人の人生を変えてしまったんだって。私が自分の中の憤りを、八つ当たりみたいにぶつけたせいで、この人は判断を誤って、一生苦しんで生きなきゃいけないんだって。過去は消せない、いつまでもついて回るわ。私はそれを知っているから……」

 しばらくの間、山葉は黙っていた。黙っていると、クーリロワが抱きついた。

「行かないで。何でもするわ。だからお願い、私の傍に……」

 吐息の距離で見つめ合う。美しい女性だった。柔らかな金髪の束に、指を差し入れる。その美しさに溺れたいと思った。彼女の願い通り、ここに留まりたいと思った。山葉を殺人で立件するための重要証拠品は紛失し、刑を軽くするため、クーリロワなら父の権限を利用することさえ可能なのだろう。彼女なら躊躇わずそうするはずだ。そして、かつて氷の女王と呼ばれたこの優しい女性は、自分を見捨てることなく、どんな結果が待ち受けていても、寄り添っていてくれるだろう。

 山葉は、そっとクーリロワの肩を掴んだ。わかってくれたのね。そんな、ほっとした表情を浮かべかけた彼女を、彼は引き離した。

「――ツォエがどうなるか、考えたことはあるか?」

 彼女は一瞬、戸惑った表情を浮かべた。

「あ……あります。彼女は聖女じゃないわ。だから誰かに狙われることはなくて……。そう、まずはきっと、養父母の親族に引き取られるでしょう。財産目当てだとしても、ひとりきりになるなんてことは、」

「その財産がどうやって築かれたものか、覚えてないか?」

 聡明な女性だった。彼女の表情が、硬くなる。

「間違いなく口座は凍結される。今、政府に必要なのは、侵攻に向けた財源の確保と補填だ。うってつけなんだ、わかるだろう。養父母の親族は、養育権を放棄するよ。家名を重んじるのはいつも、裕福な家柄だ。今回の事件は公になりすぎた。ツォエには汚名がついて回る」

「もしそうだとしても福祉施設があるじゃないですか。身寄りのない子供を育てるための」

「正確には“汚染地域出身ではない”身寄りのない子供だ。ツォエは受け入れられない。出自を隠して入所させても、必ず誰かが気付く。ちょうど、君が首の痣で見分けたように」

「私は、誰がどこの出身だろうと……」

 弱々しい反論に、山葉は疲れた笑みを漏らした。

「なぁ、小倉は俺を何と呼んだ? あいつは俺をクズと言った。そういうものなんだ。たいていの人々は汚染された人間を同等に扱えない。俺は汚染も軽度で済んだ。目立つ痣もなかった。だから人並みの人生を、運良く送ることができた。だけど、重元素の体内暴露がトリプルBを超えた人たちはどうだ? 首筋や、二の腕や、うなじに、はっきりと赤痣を持った人たちは?」

 浄化主義者はそれを、《罪人の刻印》と呼んだ。平明素朴な”人民”と、原罪の”蝗”を見分けるため、神が与えた導きのしるしであると。

 驚いたことに、そんな暴言を支持するのは原理主義者だけではなかった。汚染の脅威が人類種の存続に関わる現実の問題として理解され始めた頃、暴露強度のカテゴリーを定義した著名な医師たちがいた。支持グループの中には、彼らの名があった。理由を問われ、出生児の畸形確率に関する答弁を与えると、人々はこぞってそれに飛びつくようになった。差別を正当化するために、強力な論理が欲しかったのである。

 だからクーリロワには答えられなかった。

 俯いたままだった。

 ジャーナリストとして汚染地帯を歩き回った彼女は、問題の本質とその根深さを、おそらく山葉以上に理解していた。そして山葉が語るのはとどのつまり、彼女が理解していたことの、実体験による追認だった。客観も主観も、示す事実は同じだった。そうなると、これ以上脊髄反射的な抵抗が許されないこともまた、明白なのであった。

 彼女が絆創膏の上から指の腹を噛むと、布のパレットに、じんわりと赤が広がった。

 放棄された耕作地から、雪を巻き上げる風の音が聞こえた。ラジオから、戦時国債が経済に及ぼす影響を説く女性の声が聞こえた。どこかの空から、落雷の遠鳴りが響いた。

「もう、行くよ」

「……ツォエを、どうするつもりですか」

「ある男の予言を思い出したんだ」

 静かな声で、彼は言った。クーリロワの顔に浮かんだ表情を見取ると薄く笑い、

「そう警戒しなくていいさ、ただの賭けみたいなものだ。だけど今になってみると、まるでこうなることがわかっていたみたいだな。言われたんだ、俺はまた彼の元に戻るだろうって。そのとき俺の望みが叶うだろうとも。望みってなんだろうって、ずっと考えていた。ずっとわからなかった。だけど、ツォエのおかげで答えが出たよ」

「答え……?」

「聖女かどうかなんて、もうこの際、関係ないんだ。俺はただ、この子には姉さんと同じ道を辿らせたくない。また手遅れになるのも」

 彼はツォエを背負い、車から離れた。クーリロワはその背に追いすがろうとする。

「ねぇ、待ってよ、なにをするつもり? 姉さんと同じ道ってなに? どうして私から逃げるのよ、私なら何だってしてあげられるわ。そうだ、私からパパに頼んで、ツォエにちゃんとしたところを……いえ、なんだったら私のところで引き取ったって」

「なにも返せないまま、これ以上頼りたくないんだ」

「なによ、それ……? かっこつけてる場合じゃないでしょう。ねぇ、話を聞いてよ」

「ちっぽけで、ちゃちなプライドだって、それくらい、わかってるんだ」

 山葉は振り向いた。その瞳に潜んだ意志の強さに気が付くと、びくっとしてクーリロワは伸ばしかけた手を引っ込めた。

「もしかして、私のせい……? 私があなたの人生を狂わせてしまったから?」

 のろのろと言う。ひどく傷付いた声色だった。

「ねぇ、彼女は違うのよ。ツォエは聖女じゃない。ただの子供よ。他人の子供のために、あなたが命をかける理由なんてないわ」

 あるよ、と彼は言った。

「君もわかっているだろう」

 彼女はなにか言いかけ、硬直した。

 息を呑むと同時、虚ろな音が鳴ったようだった。はずみ車は止まり、会話を紡いできた糸は紡錘形の切れ間に呑み込また。

 背を向け、山葉は歩き出した。

 慎重にしたつもりでも、二の腕の凝固しかけた銃創がわずかに裂ける。二人分の重みが、厚い積雪に深い足跡をつけた。頼りない両脚を慣らすように、ゆっくりと踏みしめていく。車道を外れ、人の目を逃れ、深い闇を抱いた雪の丘を上っていく。その先にはまばらな樹林が広がっていた。

 空を見上げた。数日前と同じ、不思議な空だった。黒雲の天蓋の合間から、月が真昼の太陽のようにくっきりと浮かび上がり、道先を照らしている。それなのに、雪が止む様子はない。



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