23
スチール缶の表面が甘く掌を焼く。コーヒーは飲めないのだと、差し出されたミニボトルに山葉がかぶりを振って応えると、クーリロワは一瞬驚いた様子を見せ、自分のホットココア缶と交換した。彼のような男が甘党なのは、誰にとっても意外らしかった。
山葉は窓側にあるベッドに、クーリロワはドア側のベッドの端にそれぞれ腰を下ろしていた。二人とも外套は着たままだった。
しばらく会話はなかった。
寝室には、いやに寒色が強い小型のテレビが付いていて、クーリロワは両手に包んだコーヒーのボトルには目もくれず、画面を眺めていた。どの番組も統一革命戦線との、差し迫った戦闘について語っていた。複数ある暫定停戦ライン近くの軍事基地には大量のカーゴや人員がピストン輸送され、戦略における重要性から戦闘機の映像はないものの、戦争の準備が着々と進んでいることが窺える。
中央政府としては初となる、大型PMCとの共同軍事作戦だった。そのうちに場面は専門家や知識人の集まるスタジオに戻され、終わりのない討論が火蓋を切るのだった。
戦争が近付いていた。
予言が近付いていた。
状況はひどく手詰まりで、山葉は自らの無力さに押しつぶされそうだった。仮にこの国が炎に呑まれる運命だとして、自分になにができるだろう? 止めるとして、どうやって? 教えるとして、誰が信じる? 誰に言えばいい? 政府に? 政府の誰に? 軍に? 軍の誰に? メールで? 電話で? 匿名で? 実名で? 名も明かせない人間の言葉を誰が信じる? 名を明かした逃亡犯の話を誰が信じる? そうだ、それに少年は? ツォエの“お母さん”はどうする? どうやって治療する? どうやって血清を手に入れる? あと猶予は何日? 三日? 二日? ……それとも、一日?
頭がぐらぐらした。額を擦る。手首の脈をとってみると、運動していないのにも関わらず、心拍が異常に速かった。
「――大丈夫ですか?」
山葉が顔を上げると、クーリロワが心配そうな顔つきでこちらを見ていた。彼は視線を外し、手の中のものへと目を落とした。
「破傷風の死亡率は五割程度だったと思う」
指先に力を入れると、かしっ、とプルタブが小気味よい音と共に開く。甘く、心地よい香りが鼻腔をくすぐった。
「大丈夫かというのが少年のことなら、答えは否定的だ」
「どうするつもりですか?」
「……わからないよ」
山葉は正直に言った。クーリロワはコーヒーのボトルを手で弄びながら、なにか考えている。テレビでは安全なスタジオで、専門家たちが討論を繰り広げている。今更討論がなにを変えるというのだろう。やかましいだけの、専門用語の羅列。
「滑稽ですね」
クーリロワは言った。テレビのことか、と彼は思った。彼女の目線は画面に向けられていた。しかし彼女が言っているのは山葉のことだった。
「ツォエを守り、少年を救う……両方を同時に叶えるなんて不可能だと、最初から知っていたはずです。少年が静かなのは、あなたが彼をツォエと二人きりにする根拠のように、単に衰弱しているからです。回復すればどうなるか、あなたなら想像がつくでしょう。少なくとも、礼を述べたりはしないでしょうね。こんなの、成立していないのです。だからどうしようもなく馬鹿げているし、滑稽なんです」
言い返そうとして、結局彼は黙り込んだ。彼女の言葉は、山葉がずっと腹に抱え込みながら、口に出せないものだったからだ。クーリロワはそんな彼を見つめてため息をつくと、
「これからどうす……いえ、わからないんでしたね」
「俺はただ、」
そこで山葉は急に、ある予感に襲われて口を閉ざした。
クーリロワの水色の瞳を見つめた。
彼女は居心地悪そうに身をよじった。
「あの、山葉……?」
「君はもしかして……自首を促しているのか?」
意表をつかれたように、クーリロワは硬直した。口ごもりながらなにか言葉を紡ぎかけ、しかし山葉の視線が揺らがぬことに気付くと、顔を逸らした。
「状況が手詰まりなのはあなたもわかっているでしょう。それなら残された手段は一つしかありません。私を信じなさい、絶対に悪いようにはしません」
予感は確信になった。それは言外の肯定だった。もはや彼女は、ツォエを聖女と信じていないのだ――改めて理解すると、どうしようもない虚しさを覚えた。ツォエは健康で、健康すぎて、聖女の大役を授かるには、あまりにも凡人過ぎる。とどのつまりはそういうことだった。しかしクーリロワは理解しているのだろうか? もし予想が外れ、ツォエが本物の聖女だった場合、どのような運命が彼女を待ち受けているのか。遅かれ早かれ、何者かにその身を脅かされるだろう。だからこそクーリロワは最初、ツォエを保護しなければと言ったはずだ。
だが、議論は不毛だった。隣室の聖女を信じないのと同じように、クーリロワは山葉の記憶も信じていなかった。生死を分けた予言も、彼女にとっては電話帳から千切り取られた一ページほどの価値しかないのだった。
チカチカと青い点滅がテレビ画面から放たれた。視線をやると、ちょうど場面が切り替わるところだった。映し出されたのはどこかの軍事施設。巨大なゲートに閉ざされた、基地の正門前らしかった。帯銃した二人の男が、険しい表情で両端に立っている。その正面ではカメラのフラッシュが明滅し、ジャーナリスト達がスーツ姿の男に詰め掛けていた。
その顔を見て山葉は、胸に鈍い痛みを覚えた。
オールバックのプラチナブロンドに、サングラス。端整な、それでいて野生臭さを残す顔立ち。絶えない微笑はカリスマと呼ぶにふさわしい色気を備えていて、ゲート前の単なるスロープさえ、彼のために用意された演壇のようだ。
「クロフス……」
無意識の呟きに、クーリロワが反応する。そして同じように画面に釘付けになる。
男は《タブラ・ラサ》北部支局局長として、悠揚と記者たちの質問に答えていく。
――どれくらいの規模の応援が予定されているのか?
正確な規模は軍事機密のため答えられない。しかし不義と不正、非人道に終焉をもたらせるだけ。
――もし統一革命戦線が要請項目を呑まず開戦となった場合、戦争は長期化するか?
しない。極短期間で降伏に持ち込める。なぜなら、世界有数のPMCとしてこれまで発展させてきた独自のTADIL(戦術データリンク)は、中央政府との共闘のため惜しみなく供与され、最大の効力を以って発揮されるからだ。
――都市が火の海になる可能性は?
ない。中央政府は非常に優れたミサイル防衛システムを備えているし、タブラ・ラサはそれに劣らぬ強力な防空及び制空力を持っている。私たちが勝てないのは“敵”が宇宙人だった場合だろう。
そこで笑いが起こる。クロフスも不敵に笑い返し、一転、真剣な表情に戻る。言う。
――これ以上“敵”の挑発に耐える必要はない。機は熟し、今、真相究明委員会による最終調査報告が提言する通り、私たちは自衛と正義の闘争に身を投じなければならない。勝利は約束されている。かつて不幸にも二つに分かたれたこの国は、時をおかず、統一の夢を果たす。
画面の外、どこからか、拍手。拍手は伝播し、記者たちも混ざって賞賛と敬意の眼差しをクロフスに送る。まるで救国の英雄だ、と山葉は思った。そして事実、そうなのだろう。中央政府と統一革命戦線の争いが長期化しているのは、戦力が拮抗――近年に至ってみればわずかにあちらが優勢――だったからだ。その微妙なパワーバランスをこちらに再び引き寄せているのは間違いなく《タブラ・ラサ》の存在だった。
ぶちん、と前触れもなく映像が切れた。
山葉は振り向く。消したのはクーリロワだった。リモコンを手にしている。彼女は山葉が見たことのない、暗い顔つきをしていた。
「クーリロワ……?」
「あなたはどうして《タブラ・ラサ」を辞めたのですか?」
唐突な問いだった。
「なぜ今更そんなことを聞くんだ?」
言いながら、彼は同じ質問を運転手とスーリヤからされたことを思い出していた。すっかり冷め切ったココアの残りを飲み干す。
「委員会の奴らが、俺を敵の工作員と疑ったからだ。まぁ、どうせ話しても信じてもらえなかっただろうが、あのときはまだ記憶が曖昧で、そう思われても仕方ないと……」
そこで山葉は口を止めた。自分を見つめるクーリロワの顔が、この上なく真剣なことに気付いたのだ。彼女は真実を聞きたがっていた。躊躇いの末、彼は言った。
「……空爆の一件以来、俺自身がもう続けられないと思ったからだ」
「……なぜ?」
彼は天井を見上げた。キュビットほどもある長さのファンが、静かに場の空気を攪拌している。周期的で、規則正しい単調運動。まるで、赤い非常灯を振る動きのような……。
PMCによる難民の救援など、名ばかりだった。元々、汚染地帯から発生した難民だった。病と飢餓に苦しむ彼らが徒歩で高山街道を抜け、安全地帯まで移動するなど、はなから無茶な話だったのだ。
「アンフェタミン系の化合物を配給の食糧に混ぜたらどうか――そんな案もあった」
「アンフェ……?」
「覚醒作用のある薬物だよ、苦痛にも強くなる。結局、実行には移されなかったはずだがな。体力がなかろうと、どうしても彼らには自力で安全地帯まで移動してもらわなければならなかった。停戦ライン間際で、武装した敵の哨戒機が飛び交っている空域だ。移送機を使うのは危険が大きすぎた」
彼は手にしていた缶を、細い木の枝を編んで作られたゴミ箱に向かって投げた。弧を描き、軽やかな音が鳴る。
「別に方法論についてとやかく言いたいわけじゃない。アンフェタミンは戦闘機のパイロットだって服用が義務付けられている。つまり、薬物を使うのは非人道的だ、とかそんなこと言いたいんじゃないんだ。結果のために必要なら、きっと何だってやるべきだ。だけど空爆がなくたって、彼らの半数は行き倒れになっただろう。最初からあれは救援なんかじゃなかった。対岸の人間に向けたパフォーマンスだった。本当に救援と言うのなら、彼らの命を彼ら自身の体力と運に賭けない、もっとうまいやり方があったはずだ。ある女は疲労と高山病でおかしくなって、赤子を谷底に捨てた。ある男は誘導灯のスティックを振りながらそれを黙って見過ごした。なにもかもまともじゃなかった。男が気付かなかっただけで、最初からまともなものなんてなかったのかもしれない」
クーリロワはベッドから腰を上げ、山葉の傍に立つ。手を伸ばし、彼のうなじに触れた。
「悪夢を見るのね」
彼は窓を眺めた。暗いガラスの水面に二つの影が反射している。
「あの頃から、ずっとわからないんだ。どうしたらよかったのか、どうするべきだったのか。そして今も同じように迷っている。教えてくれ、クーリロワ。俺はどうしたらいい? 俺は本当に最善を尽くしたのか?」
答えを求めるように見上げると、彼女はなぜか辛そうな顔をした。するとそのとき、
ジリリリリリ、と呼び出し音が鳴った。
ベッド脇、ナイトテーブル上の電話からだった。コールは鳴り止まない。山葉はクーリロワから視線を外し、そろそろと立ち上がった。そしてゆっくりと手を伸ばし、受話器を持ち上げた。
(何だ……?)
無音なのだ。彼は耳を離し、受話器を確かめた。異常はない。コードも確かに繋がっている。電話機本体の黄色いのランプの点滅が知らせるところによれば、呼び出しはフロントからだ。おかしいと思った途端、ぷつんと通話が切れる。山葉は受話器を握ったまま顔をしかめる。フロントからかけておいて、無言で切るなんてことは考えられない。普通、謝罪の一言くらいあるだろう。間違い電話というより、これではまるで――
やられた。
直感した。これは確認の電話だ。突入対象が在室かどうか、最終確認のための電話。無音の最後通牒。舌打ちをして、彼はクーリロワに振り返った。
「出るぞクーリロワ、警察だ。パブの乱闘で嗅ぎつけられたんだ、今すぐここから……」
動きかけ、山葉は踏み止まった。クーリロワの表情は無風の湖面のようだった。事態の異常さに気付いているはずなのに、まるで動揺がない。
「もしかして」と彼は言った。「君が、呼んだのか……?」
温かい飲み物を買いに行くと、ひとりフロントへ向かったとき。山葉は覚えている。フロントとエレベータの間の通路には、二台の電話機があった。今時液晶パネルもない、時代遅れの電話。深色を基調とした内装から際立った、どぎつい緑の電話。
「あなたは、本当に勘がいいですね」
疲れた笑みを浮かべてクーリロワは言った。パブの事件がきっかけと山葉が考えることを、彼女は望んでいるようだった。しかし同時にまた、彼が真実を見抜くであろうことも、知っているようであった。彼らがそれ以上なにか言うより早く、がんがん、とドアが叩かれた。寝室のドアではない。入り口のドアだ。くそっ、と山葉は寝室を飛び出し、リビングに出た。ツォエはソファで眠る少年の傍らに跪いたまま、頭を垂れている。
「ツォエッ、どうした? 大丈夫か?」
「あぅ……」
彼女は寝惚け眼だった。山葉の呼びかけに顔を上げるも、どうにも反応が鈍い。疲れているのはわかる。だが激しくドアが叩かれているというのに、その反応は解せなかった。すぐに山葉の目はテーブルの上、ホットミルクティのボトルに留まった。半分ほど減っている。クーリロワが買ってきたものだ。
山葉、と呼びかける背後からの声に、彼は振り向いた。クーリロワはゆっくりと首を振り、言った。
「あなたはよくやりました。これ以上、傷付く必要なんてありません」
「睡眠薬を入れたな」
コーヒーは飲めない、そう伝えたときの彼女の表情。あれは彼の好みに驚いたのではないのだった。思惑が外れ、動揺したのだ。交換したコーヒーのボトルに、思い返せば彼女は一度も口をつけなかった。治療キットをひっくり返せば、睡眠薬の錠剤が減っていることを知るだろう。しかし、確認は無意味だった。彼女は無言で、それが答えだった。
「クーリロワ君、ここを開けたまえっ、手間をかけさせるな、予定と違うじゃないかっ」
聞き覚えのある声。小倉の声だった。反応がないことに業を煮やしたのだ。やがて振動の種類が変わる。体当たりか、でなければ破城槌を使い始めたのだろう。
山葉は血走った眼で室内を見回した。そしてすぐに目的のものを見つけた。入り口横の、合板仕立てのクローゼット。近くで見ると、壁に直接嵌めこまれているわけではないことがわかった。動かせるのだ。腰を落とし、思い切り持ち上げる。重かった。僅かに浮かすと、そのまま引き摺り、ドアを塞いだ。数分でも時間稼ぎになるだろうと思った。クーリロワとツォエがいることから、ショットガンや、爆薬を使用するブリーチングチャージといった荒っぽい方法は使えないはずだった。
しかし衝撃は凄まじい。部屋全体に振動が伝わった。吊られた照明が揺れ、きぃきぃと錆びた音を立てた。ともすれば野暮ったい、厚く頑丈な建付けと、時代遅れの家具だけが頼みの綱だった。
次は、どうする……?
そう考えながら、山葉はその場にうずくまった。無理に力を入れたせいで、胸の傷にひどい痛みが走っていた。少しの間動けなかった。荒い息をつきながら顔を上げると、クーリロワが彼を見つめていた。
「さっき、『どうすればいいか教えてくれ』って聞いたでしょう? だから教えてあげるわ。もう諦めなさい。ここまでよく頑張ったわ。誰よりも私が見ていたからわかります。あなたは最善を尽くしたのよ」
馬鹿にするな、見くびるな。そう言い返すはずだったのだ。
なのに口をつく言葉は、意に反して惨めったらしいものだった。
「俺は本当に、最善を……?」
「ええ、ええ、そうよ」
クーリロワは何度も頷く。まるで、自分自身にも言い聞かせているようだった。
「だからもういいのよ、もう戦わなくていいんです。だから自分を責めるのはやめて。後は私がうまくやるから。ツォエのことだって心配ないわ、養父母の親族に引き取られて、今度はもっと、ちゃんとした生活を……」
それは甘い囁きだった。甘い誘惑だった。気力が尽きかけた心に、砂漠に垂らした水のよう、染み渡っていく。
本当にもう、いいのだろうか……?
全て投げ出してしまう――そんな選択肢が初めて現実味を帯びた瞬間、山葉は、大声で叫び回りたい衝動に襲われた。この傷の痛むまま、くらくらと揺れる視界のまま、なにもかも放り出し、自分のせいじゃない、自分は関係ない、これ以上動けない、と言いたかった。傷が痛いんだ、助けてくれ、鎮痛剤をくれ、そうだ、俺はもう充分にやった、そもそも、どうしてこんな辛い思いをしなきゃならない? 助けられない少年と、救いようのない妄想と、逃れようのない状況と、どうしてこれ以上付き合わなければいけない? 俺は戦ったんだ、勇敢に戦った。全力を尽くし、最善を願った。それはクーリロワも知っている。だって彼女もそう言ったんだ、だから、もう――
「山葉、あなた……」
クーリロワが驚いた表情で彼の顔を見つめていた。
頬に冷たいものを感じ、彼は気付いた。涙が流れていた。
「……うわっ」
気恥ずかしさより動揺を覚えながら、手の甲でごしごしと拭う。どうして俺は泣いているだろうと思った。クーリロワの言うとおり、ここで諦めれば楽になれるのに。後のことはなにもかも彼女に任せてしまえばいいだけなのに。一度も逃げなかった、命をかけて戦った、逃亡犯のリスクを背負ってでもツォエを病院から連れ出した、少女の望むまま、その妄想に付き合った、パブでは銃を持った相手からクロワを助けたし、その後だってツォエを気遣った、無事にホテルには着いたけれど、少年は破傷風で、クロワはツォエを疑っていて、だから、もうどうしようもなくて、仕方なくて、
(本当か?)
本当だ。嘘じゃない。誓ったっていい。最善を尽くしたんだ、やれることはみんなやった。だから、思い残したことはないはずだ。やり残したことだって――
衝撃に揺れ、天井からぱらぱらと塗料の破片が落ちる。
山葉は部屋を見渡した。ツォエと目が合った。その瞬間、「ああ」と声が漏れた。彼は気が付いた。ひとつだけ、やり残したことがあった。
(俺はまだ、この子に伝えていない)
一番大事なことを、なにより最初に言わねばならなかったことを、まだ伝えていない。伝えない限り、これまでの挺身など何の意味も持たなかった。そして伝えるためになら泥をすすり、文字通り命をかけなければならなかった。
「お願いよ、そんな顔しないで」とクーリロワは苦しそうに言う。「私はただ、あなたにもう、辛い思いをして欲しくなかったんです。小倉さんには私が話します。ですから」
「どうして施錠したんだ?」
山葉の問いにクーリロワが目をしばたかせる。彼は言った。
「この部屋に最後に入ったのは君だ。眠らせることに失敗しても、鍵を開けておけば簡単に終わったはずだ。きっと俺も気付かなかっただろう」
クーリロワは口を開き、言いよどみ、沈黙に身を伏せた。まるで言いたいことが千とあるのに、どれも言葉にするには軽過ぎると感じているようだった。
「君は無意識にでも、俺に選択の余地を与えた。なぜなら君は迷っているからだ。どうするべきか、自分の判断に自信が持てないでいる」
ぎしぎしと部屋が鳴り、隣室の宿泊客の、くぐもった悲鳴が聞こえる。
「ありがとうクロワ、少しの猶予をくれて。どうするか、俺は決めたよ。だからもう少しだけ、悪あがきさせて欲しい」
「山葉……」
彼は壁によりかかりながら立ち上がった。ベルトにくくりつけたシースから微細振動ナイフを抜く。ツォエの視線を感じながら、ソファと窓際のデスクの中間地点まで移動し、跪いた。ナイフのグリップを一度、強く握る。規定圧を認識するとストッパーが解除され、微細振動が空気を震わせる。クーリロワが息を呑む。彼女は山葉の狙いに気付いたようだった。そして自分がそのナイフについて、何と語ったかも。
山葉は思い切り刃先を床に立てた。
分子結合を力任せに引き裂く野蛮な振動が響く。床を抉り、粉になった木屑が舞い、焼け焦げた甘ったるい臭いが鼻をつく。刃の軌跡が、人ひとり通れるほどの正方形を描き、床板をくり貫いた。絨毯ごと床板を持ち上げると、その下には吸音材やスポンジ質の断熱材などがあった。ナイフの刃先でそれらをほじくり返していく。
振動が部屋を揺らした。今度のものは、鈍い破砕音を伴っていた。時間はいよいよ迫り、防塁は長く持ちそうになかった。
断熱材のシートを剥がし取ったところで、手が止まった。彼の目は、突如現れた一本のパイプに釘付けになっていた。錆の浮いた、太い金属製の配管。普通はこんな経路を通らない。増築を繰り返した、古いホテルだった。建築基準が違った時代なのだろう。それでもこのナイフなら、パイプくらいわけなく切断できる。しかし彼はそうしようとしない。液体配管か、気体配管か――もしガスなら、微細振動の火花で爆発する可能性があった。
男たちの怒号は激しさを増し、それとともに、ドアをこじ開ける、生木を剥ぐような音が響く。ドア上部の蝶番はすでに壊れているようだった。つっかえ棒代わりのクローゼットが、ドア越しの激しい衝撃を受けてぐらぐらと揺れる。突入まで時間にして数十秒しか残されていないだろう。もう一から新しく穴を開ける時間はない。ここは三階で、窓から飛び降りることもできない。
静かな絶望が忍び寄っているのが感じられた。人々の心に退廃を呼び起こす、古くからの獣。だが諦めるつもりはなかった。あのころ受け取れなかったナイフは今、手の中にある。
過去をやり直すチャンスが初めて与えられたような、そんな気がした。




