22
しばらくの間、立ち尽くしていた。立ち尽くしたまま少年を眺め、眺めながらツォエのことを考えた。途切れ途切れの嗚咽が聞こえてくる。この世の終わりを思わせるような激しさは薄れ、泣き声は、大雨の後に屋根から滴り落ちる水滴のようになっていた。一滴ずつ彼の心の膜に波紋を作った。
やがて彼は、のろのろとした動作で寝室へ向かった。ドアの前で立ち止まり、声をかけようとした。しかし口を開こうとして躊躇った。自分がなにを言おうとしているのかわからなかった。なにを言うべきなのかわからなかった。クーリロワは気が立っていただけ? 本気ではなかった? 憎んでいるわけじゃないから気にするな……?
どれもが安っぽく、無意味に思えた。諍いの本質ではなかった。言うべき言葉は別にあった。言えない言葉が別にあった。彼は壁に背を当て、力なくうなだれた。
疲れていた。
オーク材の扉一枚を隔てたすすり泣きが誘うまま、その場に寝転んでしまいたかった。肩の傷はじくじくと痛み、また出血しているのかどうか、確かめる気力もない。擦り切れた神経を引き摺るのは老いぼれた農耕馬。二日酔いの重く傾いだ頭で、よろよろと泥地を這い進む。農耕馬は思うのだ。肩に食い込む積荷を放り出して、自分一匹だけになれたら、どんなに気楽だろうかと。そして同時に、こうも思うはずだ。右へ左へ、引き返しても進んでもいい。そんな自由は、放逸な選択は、きっと恐ろしいだろうと。
どれくらいそうしていたのだろうか。木板越し、二人の呼吸が混じり合い、みぞれのように、ごく自然な現象に感じ始められたころ、先に口を開いたのはツォエだった。
ぐすぐすと鼻を啜りながら、「もしも」と言った。
「私がいなくなれば、お母さんのこと、もっと大事にしてくれる……?」
山葉は息を呑んだ。彼女の台詞は、彼が予想だにしないものだった。
この子は、本気で言っているんだ……。
少年のためなら、自分を投げ出せるほど。不思議はないはずなのだ。それくらいわかっていたはずなのだ。これまでの、彼女の一貫した態度を見れば。しかし山葉は心のどこかで、所詮子供の戯言だと――そう、病んだままごとだと思っていた。そう信じたかったのだ。だが現実は違った、彼女には一種、崇高な覚悟さえあった。ここまで狂わせた原因は全て自分にあるのだ。そう考えると、足元が消えてしまうような感覚が襲い、山葉はその場にうずくまった。両手で顔を覆った。囁くような声で、すまない、と言った。
沈黙。
少しして、蝶番の軋む音がした。山葉の顔を寝室の明かりが照らす。顔を起こすと、ツォエが傍に立っていた。彼女の顔には涙の跡がくっきりと残っていた。どうして謝るのか――そう聞きたかったのだろう。
リビングの方から、なにかがぶつかる物音がしたのはそのときだ。山葉は反応しなかった。何の音だかわかっていた。ツォエは不安そうな視線を一度彼によこすと、ワンピースの裾でごしごしと目を擦り、リビングへ向かった。そこで彼女が見たのは、えびぞりに痙攣してソファから転げ落ちる“お母さん”だった。
「なに、これ……」
口に手を当てて戸惑ったのは一瞬だった。彼女はすぐに駆け寄る。そして痙攣が収まった少年を抱き起こそうとし、しかし自分の力ではソファに戻せないことを知ると、山葉に助けを呼ぼうとした。しかし彼は動かない。立ち上がろうにも、全身の感覚が座り込んだ尻から床を伝い、溶けているようだった。
山葉が役に立たないと悟ると、彼女はその場を発った。《変な生き物》を脇に抱えたまま、窓際のデスクへ向かった。紙袋を漁り、中から赤い十字マークが付いた緊急治療キットを取り出す。プラスチック製のボックス上部のハンドルを握り、中身ががらがらと鳴るのも構わず振り回し、少年の元へと駆け戻る。ソファの上でボックスを開けて、中の痛み止めや風邪薬、包帯、消毒液などを勢いよく取り出していくのだが、自信に満ちたその動きが緩慢になるのに、そう時間はかからなかった。やがて、消毒液のスプレーボトルを手にしながら、完全に動きが止まる。
救いを求めるように、ツォエは山葉を振り返った。ラベルの字が読めないのだ。しかし仮に読めたとしても、ここでは何の意味もなかった。彼はのろのろと首を振った。
「ツォエ、無理だ」
「じゃあこの瓶は? いっぱい薬が入っているし、これならきっと――」
「無理なんだ」
ツォエはボックスを探る手を止め、納得できない様子で言った。
「どうしてよ? どういうこと?」
「ここではもう、俺たちに出来ることはない」
「そんなのおかしいじゃない」
「ツォエ……」
「薬箱があるのよっ、これ、薬箱でしょう? だったら治せるはずじゃないっ、無理だなんて嘘よ、信じるわけ……」
その台詞で、山葉は理解した。薬箱があれば治せると、皮肉で言っているのではない。本気で信じているのだ。母の安否を病的に気にかけるくせに、なぜ今の今まで治療を急かさなかったのか。なぜ傷付いた“お母さん”を目の当たりにしながら、動揺した様子を見せなかったのか。
この子は知らないんだ、と彼は思った。
彼女は医療の根本を理解していなかった。知識の幅があまりに狭い――そう入間が言っていたと、今頃になって思い出す。彼女は難民キャンプにいた。その前は、汚染地帯にいた。たった数ヶ月の文明的な生活では、彼女のこれまでの世界観を変えることなど不可能だった。《薬箱》という彼らには手に入らない道具は、ツォエには魔法の秘術のように思えていたはずだ。傷は一晩で治るはずだった。熱も、意味のわからない痙攣の発作も、小瓶から掬い上げたタブレットひとつで収まるはずだった。
そんなわけがなかった。
愚かな、白紙の心。
彼は小さく笑った。クーリロワの自嘲が、時間を越えて、彼にも伝染したようだった。そうだ、俺も昔、こうだったんだ。薬さえあれば何だって治ると思っていた。瓶を一振り、ぽん、と丸くて白い小粒を口に放り込めば、さんざん俺を苦しめた吃音ともおさらばできると思っていた。しっかり喋れるようになれば、祖父に殴られなくなると思っていた。姉からもっと愛されると思っていた。手に入らないものに過大な期待を抱き、向こう側の暮らしに理想を見た。純真で、脅迫症的で、臆病で――
「無知なんだ」
ツォエはわなわなと全身を震わせると、持っていた痛み止めの瓶を放り出し、山葉に詰め寄った。胸倉を掴み、揺する。
「何とかしてっ、お母さんを助けてよ」
その激しい動きにつられて、彼女が腋に挟んでいる《変な生き物》の脚も、まるで駄々をこねるようにばたばたと揺れた。それを見て山葉は思うのだった。もし信念について語るならば、少年に対する母の幻想と、綿の肉を詰めた狐だけがツォエの信仰だった。だけどそれなら、この子が生き延びた意味は何なのだろう?
初めて会ったとき、彼女は難民だった。貧しく、弱く、惨めだった。二度目に会ったとき、彼女は深窓の姫君だった。美しく、可憐で、不幸だった。空爆から生き延び、襲撃から生き延びた。しかし全てが終わったとき、傍には誰もいなかった。クーリロワの態度は端的に、聖女でもない汚染地域出身の無学な少女がどのような扱いを受けるのかという表れでもあった。
やがてツォエの身体から力が抜け、拳は追い風を失った旗のように、ぶらりと垂れた。そんな彼女を見上げ、山葉は言った。
「このままじゃ、お母さんは助からない」
ツォエの青白い顔が、くしゃりと歪んだ。憤りのまま、なにか言い返そうとした。だがそんな言葉はもうとっくに使い切ってしまったのだと、彼女も知っていた。そうして残ったのは、鋏でぎざぎざに切り取られた沈黙だけ。不均等で、みだらで、陰鬱な静けさ。
ドアが開く音がした。入ってきたのはクーリロワだった。両手にミニサイズのペットボトルを持っている。彼女は数秒視線を室内の状況に走らせた後、何も言わず少年の元に歩み寄った。抱え上げ、ソファに戻す。その様子を、ツォエは目をごしごしと擦りながら見ている。クーリロワは二人に近寄った。なにがあったのか聞こうとはしない。ただ、手にしていたホットミルクティのボトルをツォエに差し出し、
「温まるわよ」
ツォエは受け取ろうとしなかった。クーリロワはボトルキャップを開けてやると彼女の手を取り、握らせた。まるで取引のようだった。ツォエは一度だけボトルに口をつけ、言った。
「お母さんと二人きりにして」
クーリロワは数秒ツォエを見下ろした後、山葉に向き直った。
「寝室へ行きましょう。立てますか?」
手を引かれ、彼は身を起こす。そして、クーリロワに続き寝室のドアに差し掛かったときだった。ほとんど聞き取れないほどの音量でツォエが呟いた。
「わたし、死ぬべきだったのかな……」
山葉はその呟きに胸を打たれ、なにか言わなければいけないとわかっていながら、なにも言ってやれなかった。慰撫の言葉、叱咤の言葉、支えの言葉……。ああ、こういうことなのだ、と彼は理解した。ツォエだって、お母さんが助からないと言われて、拳を握り、黙りこくるしかできなかった。きっと、不意にそんな場面に遭遇したとき、不意に心を揺さぶられたとき、人の喉を震わせるのは、嗚咽を堪える息だけなのだろう。




