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しかし時間はどうしようもなく待ってくれないし、空模様だって人の采配を越えている。視界を遮る、叩きつけるような風雪のせいで、彼らがホテルに着いたのはそれから二時間以上も後のこと、日暮れを迎える頃だった。少年が鎮静剤を注射されてから、実に四時間近くが経過していた。
ホテルは三階建ての、年季の入った頑丈な造りの建物だった。あてがわれたのは三階、駐車場に面した西端の一室だった。ゆったりとした大きさのカウチソファが開けた部屋の中央、L字型に配置されていて、奥の窓からは融雪剤を撒かれた駐車場と、かつて見ものだったという耐寒ラベンダーの跡地が一面に見渡せる。品の良い調度品、重そうな家具、木枠組の窓、窓際のデスク、モノトーンの薔薇をあしらった壁紙――内装は外観と同じように古かったが、同時に前時代的な、どこか親しみ易い趣を漂わせていた。対照的に、バスルーム横のドアで隔てられた寝室には、小さな絵画と小さなテレビ、二つのベッドがあるだけだった。
「――どきなさい」
そう言ってツォエの前に立つのはクーリロワだった。彼女の手には黒光りするなめし皮のハンドサックが握られていた。両手をくっつけたボクシングのグローブといった形で、手首にはバックルが付いている。手錠と違って鍵はなく、そのバックルを締めて拘束するようになっていた。手首の間には二個つづりのD字型リングが取り付けられていて、“愛好家”たちはそれを鎖と繋いだりするのだろう。
「ぜったい、どかない」
ツォエは噛み付くように応じる。ベージュのカウチソファには少年が横たわり、彼女は雛を守る親鳥のように、立ちはだかっていた。少年は食いしばった歯の間から呼吸していて、容態は先ほどより悪化しているように見えた。それでいながら全身の筋肉は硬く強張り、噛み締めた顎の筋肉には汗の玉が浮いている。それが風邪のせいなのか、目覚めの予兆なのか、これ以上悩める状況でないのは、誰の目にも明らかだった。決断のときはいよいよ迫り、山葉が選んだ“後回し”という消極的選択は、すでに黒インクで大きくバツを書かれていた。
しかし、それがわかっていても尚、山葉はこう思うのだった。
(こんなの、悪趣味じゃないか)
高圧的に命令する大人の女と、怯えを必死で隠しながら対峙する幼い少女。それこそ、下手をすれば母と子ほど年齢差のある二人が真剣に向き合う様子は、ひどくアンバランスで、思わず目を背けたくなるような滑稽さを孕んでいた。少なくとも、拘束する際はツォエを寝室で待たせるべきだと山葉は先に言った。ツォエがこうやって反発することは目に見えていたのだから。なにより、こんなやり方はクーリロワらしくない気がした。どこか無理をしているようで、まるで、悪辣に振舞うことで、色も彫りも足りない版画絵から、彼女だけが見える全体像を透かし見ているようだった。
思考の波打ち際から、彼を引き上げたのは、山葉、と呼びかける冷たい声だった。クーリロワがこちらを見ていた。彼女は言った。
「仕方ありません、ツォエを抑えていてください」
「クロワ……」
少年を、ではなかった。ツォエを連れて行け、でもなかった。彼女はあくまでも、ツォエがここにいて、“お母さん”が拘束される状況に立ち会うことを望んでいるようだった。
「山葉、聞こえていますか?」
「ああ、だけど」
山葉の視線はツォエに向けられた。彼女はすがるような目で山葉を見返していた。灰色の瞳は語っていた。あなたはどちらの味方なの? ねぇ、お母さんと私を守ってくれるんじゃ――今度こそ守ってくれるんじゃないの?
とどのつまり、彼はどっちつかずの蝙蝠だった。聖女に従うべきだと思いながら、このまま放っておいて少年が自由なまま目覚めるのを恐れている。ツォエを泣かせたくないと思いながら、クーリロワの主張に効果的な反論を見出せないでいる。都合が悪くなれば一方に付き、また、そちらの具合が悪いと思えばもう一方に戻るのだ。シーソーの如くゆらゆらと揺れながら、結局、やっていることは単純で、自分を悪人にしたくないだけ。最大化を目指すは自己利益と自己保身。まったく晴れ晴れしいほどのダブルスタンダード。
「だけど、何ですか? また、“お母さんが可哀そう”ですか?」
山葉とツォエを順繰りに眺め、クーリロワは豊かな金髪をかきあげた。そして大きな、どこかわざとらしい溜息をついた。
「じゃあどうしますか、このまま放置しますか? 少年の為すがままに、私たちを殺してもらいましょうか?」
「お母さんはそんなことしないもの」
「ええツォエ、あなたにはね。私しか知らないと思いますが、三週間前に起きた爆破事件で、似たような目撃情報があります。そこであなたと同じ年頃の少女が何者かに助けられています。おそらくこの少年でしょう。理由はわかりませんが、誰かを探している」
ツォエは突破口を見出したかのような表情で、「私を探していたのよ」と言い、クーリロワは「なるほど」と無感動に頷く。
「では教えてください、私たちはどうなるんですか? 病院で司法機関の部隊がどうなったか、見たのでしょう?」
「あ、あれは……」
内容が何であれ、ツォエが台詞を言い切ることはなかった。ぎりぎり、と柔らかい金属を擦り合わせたような音が響いた。三人の視線が一斉にソファに向けられた。それは少年の歯軋りだった。頬の筋肉が、ぴくぴくと震えている。クーリロワは会話を打ち切ると、ツォエをどかし、少年の元に跪いた。邪魔をしようにも、所詮は小柄な子供の力だった。クーリロワはハンドサックを片手に、少年の手首を持ち上げた。
しかしどういうわけか、そこで彼女の動きはぴたりと止まった。少年の左手を掴んだまま、目を見開いて固まっている。ツォエはその隙を見逃さなかった。横からハンドサックを掠め取ると、窓際へと走った。そして、蜜色の雪が薄闇を斜めに切り裂く空間に、それを投げ捨てた。
奇妙な沈黙が流れた。
ツォエは知らなかった。窓際の彼女の目の前、大きなマホガニー製のデスクには、モールで購入した固形食糧と緊急医療キットを入れた紙袋が置いてあった。その底にはもうひとつ、手錠があるのだった。にもかかわらず、クーリロワは動かなかった。じっと少年を見下ろし、なにか考え込んでいた。その表情はあまりに深刻で、山葉もツォエも、思わず息をひそめたほどだ。深刻な無表情はやがて、叩き割られた貝殻のような、歪で、せせこましく、卑屈で、打ちのめされた薄ら笑いに変わった。《氷の女王》には、まったく似つかわしくないそれは、自嘲であった。そして、ぞっとするような彼女の自嘲が、プールに垂らされた一滴の毒薬のように、極限まで希釈され、もとの表情へと回帰していくと、まずクーリロワが口にしたのは、とても彼女からとは信じられないような、痛烈な一言だった。
「――甘ったれの、クソガキ」
「え……?」
ツォエは間の抜けた声を上げた。自分の耳が信じられなかったのだろう。それは山葉も同じだった。そんな反応をよそに、クーリロワは顔を上げた、続けた。
「お母さん、お母さん、お母さん……聞き飽きましたよ。いい加減にしてください。まだ乳離れできませんか? この少年はあなたの母親じゃない。どうしてこんな簡単なことがわからないのですか。ねぇツォエ、あなたにはなにが見えているの? ここに寝ているのはただの少年でしょう? 四〇代の金髪の女性が見えますか?」
「何の話よ、生まれ変わったの。お母さんは生まれ変わったんだ」
恐怖と戸惑いに唇を震わせ、ツォエは言う。対してクーリロワは、哀れみさえ含んだ表情で、
「それがあなたの信仰ですか? でも私の信仰はこうです。『人は生まれ変わらない、輪廻転生はない』――それでも尚生まれ変わったと言い続けたいのなら、私を納得させる証拠を見せなさい」
「このぬいぐるみよ」とツォエは左手で《変な生き物》を突きつけた。「お母さんと一緒に作ったの。これが証拠よっ。どう? わかってくれ――」
「なら私が着ているこのグレイのトレンチコートは動物の幽霊が夜な夜な裁断機と釣り針を使って織ってくれたものです。……どうです、証拠になりますか? 信じますか?」そして芝居じみた仕草で首を振る。「証拠の意味がわからないのですね。学がないのは承知していますが、そのくらいのこともあなたの“お母さん”は教えてくれませんでしたか?」
少女の顔に朱が差す。
「あなたなんかに、なにがわかるって……」
「お母さんはあなたの母で、あなたはお母さんの娘です。その薄汚い狐のぬいぐるみの名前は《変な生き物》で、あなたがお母さんと一緒に作りました。あなたは片時も手放せず、今では悲しいことに、お母さんの形見です」
「形見じゃない」
「形見です」
「形見じゃない」
「形見です」
「だから形見じゃないっ、ちがうっ」
「甘ったれの上に嘘つきだなんて、最低ね」
それ以上やり返す語彙も気力も、ツォエにはなかった。彼女は制御できない激情に、全身を震わせていた。クーリロワは冷然と視線を受け止め、少女を見下ろした。先に場を立ったのは、やはりツォエだった。《変な生き物》を引き連れ、寝室へ駆け込む。数秒後、泣き声が響く。
クーリロワは少しの間寝室のドアを見つめていたが、やがて目を離すと、窓際のデスクに歩み寄った。そして、置いていたビニール袋の中をしばし探り、
「冷たいものしかありませんね。フロントの売店でなにか温かい飲み物をもらってきます」と持ってきたポシェットを肩にかける。「今日はきっとルームサービスどころではないでしょうから」
「どうしてだ?」低い声で山葉は聞いた。「なにがそこまで気に入らない?」
「なにも。ただ彼女が現実と向き合えるよう、事実を指摘しただけです」
見つめ合う。そうしているうちに、山葉は先ほど浮かんだ疑念の答えを見つけた。ホテルに着いてからの、大げさで、演技じみた所作。
踵を返した彼女の背に、山葉は言った。
「――わざと言ったんだな」
ドアに手をかけたところで、クーリロワは足を止めた。
「ツォエが聖女と呼ばれるのにふさわしくないと確認するためか。そして俺にも見せ付けたかったんだ。あの子が聖女として、不完全過ぎると」
「あなたは勘がいいですね」
ゆっくりと振り返ると、驚いた様子もなく、彼女は言った。
「ですが、ひとつ間違っています」
「なに?」
「逆ですよ。ツォエは聖女として完璧過ぎるのです」
「完璧すぎ……?」
わからない、という顔をしている山葉に彼女は続けた。
「ツォエの表情を見たでしょう、あの反応を? 彼女には羞恥がある、怒りがある、悲しみがある、笑うことだってできる。これらの意味するところは、彼女は健康だという事実です。言語の認識、発話能力は完璧で、しかも感情は多彩です。学は確かにないでしょうが、適切な教育を受けさせれば、同年代の平均は超えるでしょう。ただ、良いことに聞こえるかもしれませんが、これらは聖女として異常です」
意味がわからなかった。山葉は首を振った。
「どういうことだ」
「聖女は言語に何らかの障害を抱えています――必ず、です。山葉、彼らが重度汚染地帯でのみ発見される、と私が言ったのは覚えているでしょう」
「……ああ」
「あなたの言うように、ツォエが汚染地域に住んでいたというのは間違いありません。彼女のうなじには重金属水の摂取による、特徴的な発疹がありましたから。ですが非常に軽微なものです。聖女にしては健康過ぎるのです」
「クロワ、君が言ってることは無茶苦茶だぞ。それなら言語に問題があるというのはどういう意味だ。汚染が必ず言語障害を引き起こすとでも言う気か?」
その程度の説明で、納得できるはずがない。クーリロワは少しの間、言葉を選ぶように思案していた。
「《粒子の思考》と呼ばれています」
「粒子……?」
「ええ、《粒子の思考》です。聖女は思考の際、言語を用いません。何京、何垓、あるいはそれ以上の、常人では想像することさえできない数の粒子群を想像して、それらの回転や収束、加速や減速、衝突や反発で私達が呼ぶところの“思考”という行為を行うのです」
「そんなことが――」
出来るわけない、と思った。なにか考えるのに、言葉を使わずに、どうやってやれというのか。
「ですがその代わり、普通の人にとっては最も容易な、言語によるコミュニケーションが彼らにとっては困難なのです。ですがあなたも知っての通り、ツォエは感情が豊かで、こちらの言葉を全て正確に理解し、話すことさえできます。だから私は完璧過ぎると言ったのです」
「だ、だが……」
山葉は思い出していた。パブの駐車場に着いて、初めてツォエが口を開いたときの、クーリロワの反応。ひどく動揺して、彼はそれを、ツォエの妄想のためだと思った。少年を母と思い込む様子に、ショックを受けたのだと。しかし実際は違ったのだ。彼女はツォエがまったく普通の少女のように、普通に振舞い、普通に話した――その事実にショックを受けていたのだ。
「だけど、何にだって必ず例外はある」
「ありません。これに限っては絶対に。なぜなら粒子の思考と言語障害は不可分の関係ですし、そして粒子の思考こそ、聖女を聖女たらしめている根拠だからです」
山葉は押し黙った。納得したと思ったのだろう、クーリロワは若干声の緊張を緩め、
「ですから山葉、これは最初からなにかの間違いだったんです。残念に思う気持ちはわかります。ですが、彼女はあなたの思っているような――」
「そんなことを言うためにツォエを泣かせたのか?」
顔を上げ、彼は言った。部屋にはツォエのくぐもった泣き声が響いている。
「半分わかっていることを確かめ、わざわざ俺に見せ付けるために?」
「それは……」
「君の言ったことは全て噂じゃないか。それに通訳を介した情報も多いはずだ。全部が全部、絶対に正しいと言い切れるのか? 忘れるなよクーリロワ、君は聖女に会ったことがないんだ。なら、ツォエが異常だとどうして言い切れる?」
言い返す言葉もないように、クーリロワは俯いた。
「はっ、俺に記憶障害があったと聞いて、疑っているんだろうな。彼女の予言は俺の記憶違いかなにかだって。だけどな、あの記憶は作り物でも思い込みでもなんでもない。ツォエは確かに空爆を予言したんだ。ちょうど、この道中でしたように」
「山葉、聞いて下さい。それならどうして彼女が予言したとき、あなたは――」
がんっ。
山葉が壁を殴った音だった。
「あ……」
「もう行ってくれ、飲み物を買いに行くんだろう。どんな理由があっても、君がツォエに言ったことは許せない」
彼女は顔を伏せ、しばらくの間立ちすくんでいたが、やがてドアに向かい、踵を返した。その様子を眺めながら、山葉はすでに、淡い後悔を覚え始めていた。公平に見て、彼女はよくやってくれていたのだ。不甲斐ないのは、言ってみれば、彼自身だった。うじうじして、決断しきれず、決断を後回しにして、責任の所在を曖昧にしようとした。であるならば、クーリロワの攻撃性に、彼に対する苛立ちが混じっていなかったとは、どうして言い切れよう。
再び、少年の歯軋り。
これ以上逃げてはいられなかった。最初から、自分でやらなければならなかったのだ。しかし、紙袋に入った手錠を取ろうと、デスクに向かおうとした山葉を止めたのは、他でもないクーリロワだった。彼女は厚いドアの前で振り向いた。一言、言った。
「必要ありませんよ」
「なに?」
「拘束具です。もう必要ありません。さっき少年にハンドサックを嵌めようとしたとき、手に触れましたよね。それで私、わかったんです」
「何の話だ? なにがわかったって――」
「少年の病状ですよ。小さな頃に読んだ、ある冒険小説を思い出したんです。大昔の探検家の話。大人向けでしたけど、私は好きだった」
懐かしむような、悲しいような声色で彼女は語った。
「主人公とその仲間は、新大陸の森を探検しているんです。そしてあるとき仲間の一人が転んで、腕を怪我します。怪我といっても、擦りむいただけの浅い傷。大したことじゃない。血が少し出ただけで、ちょっと唾をつけて放っておけば充分。だけどそれから一週間後、彼は探検の途中で倒れてしまう。キャンプの中で寝込んで、やがて文字通り動けなくなる。その状態が、今の少年と同じなんです。熱が出て、そんな癖はなかったのに、歯軋りをするようになる。口を開くことができなくなる。それだけじゃない、痙攣が始まり、全身の筋肉も徐々に硬直してきて――」
山葉は少年に目を落とす。クーリロワの言葉を考える。
そしてわかった。
「まさか」
「私はさっき、少年の頬が引き攣ったから、そろそろ目を覚ますんだと思いました。だから急いで拘束しようと思った。でも違った。歯軋りも、顔の筋肉の痙攣も、病状のひとつだった」
発熱、歯軋り、痙攣、開口障害、筋硬直。
山葉は思い出していた。少年の症状はPMC職員の時代、基礎医療講習で聞いた内容を正確になぞっていた。それは嫌気性の菌で、芽胞の状態でたいていの土壌に存在し、浅い擦り傷程度でも発症する可能性があり――
(破傷風だ)
狂犬病と共に幼い頃、山葉の生活を脅かしたもの。偏在する悪意。山葉は声に出さなかった。しかし、彼が理解したことをクーリロワは鋭敏に感じ取っていた。すっ、と背を向け、サムターンを回し、チェーンを外し、ノブを握り、回し、ドアを開けた。
「……すぐ、戻ってきます」
きぃ、と蝶番がきしんだ。その探検家が最後にどうなるのか、彼女は言わなかった。




