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狐たち  作者: nutella
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 頭が痛かった。寒かった。疲れていた。

 いつからなのか、女にもよくわからない。安全地帯に移動すると言われ、狼を背にした羊のように、わたわたと難民キャンプから追い立てられてからというもの、無表情な、迷彩服を着た男たちが振る赤い誘導灯の光を頼りに、ずっと歩き続けていた。冷気はちりちりと産毛を逆立て、霧の刷毛はそこに細かい水滴を撫で付けた。目が霞むのは、霧のせいだけではないようだった。この寒さで病気になったのかもしれない、と女は思った。

 腕が重い。女は歩く。

 もう何日もこうして歩いている気がする。どれだけ高く、この街道を上ってきたのだろう。崖の岩肌を斜めに切り崩して作られた古代の天空回廊の名残。落下防止用の木柵はとっくに腐食していて、もたれかかろうとした老人が、かすれた悲鳴を上げて崖下に落ちていったのはいつのことだったか。最初はうっすらとしていた霧も、今では数メートル先の視界も覚束ないほど深くなっていた。

 歩み続ける難民の列は、乱暴に叩き潰したパン生地のようにへたっていて、長く尾を引いていた。道の先々で誘導灯のスティックを振る男たちに、一歩も歩けなくなった人々が助けを求めてすがりつくシーンが何度かあったが、男たちが完璧な無言と無慈悲を貫くと、それもやがてはなくなるのだった。

 腕が重い。女は歩く。

 濃霧から、斜陽の蜂蜜をぶちまけた雲中へ――もしかすると、雲を掴めるほどの高さまで来たのかもしれない。その考えに、彼女はひび割れた唇を歪め、くすりと笑った。掴めたら、一度でいいから口に入れてみたい。聞いたことがあるのだ。雲は綿のように柔らかくて、甘い味がするのだと。

 また、ずっと昔に誰かから、高いところに行けば行くほど寒くなるらしいとも聞いたことがある。それは別段、不思議ではないように思えた。もともと女が住んでいたのは汚染地帯だった。四方は監獄のように山脈に囲まれているのだが、山頂部にはいつも、砂の入り混じった黄色の雪が見つけられた。

 そのとき女が信じなかったのは、もうひとつの話――高山では寒くなるだけではなく、頭も痛くなるらしい、ということだった。それに加えて、視界がぼやけたり、ものを正しく考えられなくなったり、ひどいときには実際にないものさえ見るようになるというのだ。なにかが薄いから、と聞いたが、よく理解できなかった。女の知らない言葉だった。

 ともあれ、今にして思うと、あれにはいくばくかの真実が含まれていたようだ。頭痛は止まず、それどころか高山街道を進むにつれ、ひどくなっていた。

 それとも、と女は思う。この頭痛すら本当は幻で、目が覚めればもっと暖かな場所、汚染もなく、ふんわりとして、病気も飢えもないところにいるのだろうか。眠たい願望の漂着場。そんな馬鹿らしい想念は、もやがかかった記憶を刺激した。すると急に、なぜか優しい、だけど泣き叫びたいような気持ちになって、女は自分の胸元に視線を落とした。胸の双丘に押し付けるようにして両腕に抱えるのは、黄ばんだぼろきれだった。生臭い臭気が漂っている。水をふんだんに吸った毛布のような重さがあるのだが、どうして自分がこんなものを持っているのか、いったいいつから持っているのか、判然としなかった。

 深く考えようとすると、頭の芯がずきずきと痛んで、それ以上の思考を押し止めてしまった。ちょうど、寄せ返す波が奔放にふるまいつつも、決してある閾値いきちを越えないように。このぼろきれがなにか大事なものなのは、わかるのだ。しかし同時に、もっとも重要な価値を、すでに失ってしまった気もしていた。

 腕が重い。女は歩く。

 彼女自身、もう限界だった。ぎりぎりまで落ち込んだ体力で、すぐにでも決断しなければいけなかった。ぼろきれを抱いたまま歩みを止めるか、ぼろきれを捨てて颯爽と歩み続けるか。簡単な選択だった。どちらが正しいのかなんて考えるまでもなかった。だから投げ捨ててしまえばいいだけなのに、手だけが別の意思によって動かされていて、臭気漂うそれを、しっかりと、愛情深く抱き続けるのだった。

 女が顔を上げ、迷彩服姿の男のひとりと目が合ったのは、そんなときだった。素敵な男性だ、と女は思った。誘導灯を持つ男たちには敵意しかなかったが、この男だけは、無機質な仮面の下、人間味ある感情が滲み出ていた。まるで励まされているような気がした。ありがとう。私、頑張るわ。もう少し歩いてみるから……。

 女は微笑んだ。微笑みながら、抱えたぼろきれを捨てた。黄ばんだそれは、くるくると螺旋状に解けながら、深い霧の底に消えていった。男はどうしたわけか、はっと傷付いたような表情を浮かべた。しかしそれも一瞬で、すぐに元の無表情に戻るのだった。なぜか褒めてもらえると思っていた女は、ひどくがっかりした気持ちになりながらも、先を急いだ。日没が近かった。

 腕が軽い。女は歩く。

 しばらく進んだころ、とうとう女は歩けなくなった。膝下の関節が全て凍りついてしまったようだった。ごつごつとした地面に膝を着く。喉が痙攣した。口から意味のない呻きが漏れ出た。少しして、女は、自分がむせび泣いているのだと気付いた。涙がぽろぽろと溢れ、埃まみれの頬に筋を作った。唐突に理解していた。男の驚いた表情の意味。

 腕が軽い。心が重い。

 心が張り裂けそうだった。今では男が憎らしかった。どうして教えてくれなかったのか。どうして助けてくれなかったのか。なにより、なにもしてくれないのなら、どうして同情の眼差しを向けたのか。

 慟哭は爆発して、彼女自身をも焼き尽くそうとしていた。こんなのは幻に決まっていた。悪い夢に違いなかった。なにもかも消えてしまうべきだった。

 願いは叶った。

 唐突に巨大な火の玉が奔り、前触れもなく大地が燃え上がった。

 難民三五一名、安全地帯への誘導のため同行していた民間軍事会社タブラ・ラサの職員四十六名が、瓦礫と炎の海に飲み込まれた。

 生存者は二名とメディアは報じた。



 暗闇の中で目を覚ます。こめかみがどくどくと鳴っていた。

 一瞬、山葉やまはは自分がどこにいるのかわからなかった。

 柔らかな反発を返す背中の感触に、またリビングのソファで眠ってしまったのだと気付く。点けっぱなしのテレビの明かりが目に痛い。テーブルの上、溶けかけた氷の入ったグラスを見つめ、そこで急に寒さを感じる。全身が汗に濡れていた。彼はブランケットを跳ね上げ起きると、グラスを持ってキッチンに向かった。シンクにグラスの中身を捨てると、蛇口から水を注ぎ、一気に飲み干す。

 また、この夢か……。

 グラスをカウンターに叩きつけると、山葉は額を擦り、リビングの型落ちのテレビを見やった。このニュースのせいだ、と思った。夢の中で聞こえていたのだろう。胃に流し込んだ水が、氷塊へと姿を変え、みぞおちを圧迫した。

「……このように、空爆事件の調査のため結成された真相究明委員会ですが、その最終調査報告が近日中に内閣に提出される予定であることが、関係者への取材で明らかとなりました。四〇〇人近い命を奪った悲劇から三ヶ月が経ち、政府の公式調査として一体どのような発表がなされるのか、大変、注目を集めています。しかし、既に多くの国民が確信しているように、この空爆は統一革命戦線による、罪なき難民を狙った卑劣な奇襲攻撃であるという認識を裏付けるものである可能性が高く……」

 老け顔の男性キャスターが、回りくどい喋りで語り続ける。

 全ての発端は暫定国境線付近で起きた衝突だった。

 それ自体はいつものことだった。休戦協定を結びながらも、中央政府と、中央政府からの独立を求める統一革命戦線の間では、しばしば小競り合いが行われていたからだ。ただし、今回問題となったのは、その小競り合いで発生した難民をどうするかということだった。人道的見地に立つならば、速やかに安全地帯まで移動させる必要があった。

 しかし、難民キャンプにいる人々の大部分が、単なる貧困層ではなく、汚染地帯の住民であるという事実が問題をややこしくしていた。その事実が明らかになると、当初同情的だった世論は一斉に掌を返し、自国の兵士が派遣されることに対して、批判的な論調を強めていった。汚染地帯のいなごのため、危険に晒す命はないと人々は考えた。

 代役が必要だった。

「……と、このような“人道上”の理由から、我が国は世界最大級の民間軍事会社タブラ・ラサに難民の救援を要請しました。そして彼らは中立の立場による支援を掲げ、四十七名に及ぶ、異例の現地派遣を決定しました。この決定は、軍事の枠に囚われない、PMC(民間軍事会社)の新たな一面を示す活動として、世界中で賞賛を浴びました。しかし救援活動を突如として襲った空爆により数多くの“尊い”人命が失われ、この人道支援は悲劇という形で幕を下ろすことに……」

 ブラックアウト。

 山葉が電源を切ったのだ。

「人道支援だと?」

 リモコンを手にしたまま、テレビの前に立ち尽くした。

(あれが人道支援なら――)

 ぎゅっと目をつむる。

(空爆は神の鉄槌だ)

 瞼の奥には、女の微笑みがちらついていた。

 どうして覚えているのはそんな記憶なのだろう、と彼は思った。



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