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狐たち  作者: nutella
18/52

17

 耳を割る、強烈な破砕音。背中でガラスを粉々に割りながら、警備員が外に投げ出された。人工大理石の床にガラスの破片が散乱し、ビー玉のように光を弾いた。開戦のニュースの最中、その衝撃的な光景は人々に恐慌をもたらすには充分だった。

 飲みかけのペットボトル、読みかけの雑誌が投げ出され、点滴袋とスタンドが派手な音を立てて倒れた。ロビーにいた人々が我先にと逃げ出す中、最初に反応したのは小倉だった。怒鳴りながら銃を向け、敵が止まる気配を見せないと知るや、容赦なく発砲した。しかし山葉にはそれが無謀に終わる蛮勇だとわかっていた。

 結局、銃弾は数百キロメートル離れたスタジオにいるアナウンサーの写し身を穿っただけだった。直後には小倉の巨体が宙を舞っていた。数メートル離れた待合用のベンチに直撃し、打ち上げられた鯨のように、ごろりと転がる。遅れて、吹っ飛んだ銃がエレベータの前に落ちる。小倉は白目を剥き、頬の肉をぷるぷると痙攣させ、蛙の卵のような泡を吹いた。腹を殴られたのだ。

 カチェートは目を丸くしている。目の前の光景が信じられないのだ。銃を構えているが、引き金にかけられた指は粘着性の戦慄に絡めとられている。

 殺される、と山葉は思った。このままなにもしなければ二人とも殺される。しかしわからなかった。どうして敵は病院に来たのだろうか。山葉に復讐しに? 前回は不覚を取ったが今回はそうはいかないぞ、とでも? 馬鹿な、遊びではないのだ。そんな眠たい話のはずがない。

 そこではっとする。屋上でのクーリロワの台詞を思い出したのだ。聖女を――ツォエを保護しなければ、と彼女は言っていた。明らかにこういった状況を予想していたのだ。

(くそっ、ツォエはどこに――)

 歯噛みする。八、九階の心療科か、それとも一〇階以上の入院患者用の個室か。駄目だ、探すにはあまりに広すぎる。しかしそんな必要はないのだとすぐに知ることになる。藁にもすがるような気持ちで見回した視界の隅に、黒髪の少女がいた。

「ツォエ……」

 診察室の並びへと続く廊下の影。外出していたのか、服はゆったりとしたスモックではなくて、黒のコートと長袖のワンピース姿。大きなぬいぐるみを左腕に抱き、こちらへ向けてゆっくりと近付いてくる。遅れて、山葉の呟きを聞いたカチェートが無防備な少女の存在に気付く。そして金縛りから解けたように声を張り上げた。

「駄目だ君っ、近寄るんじゃない、早く逃げ――」

 考え込む時間はなかった。山葉は割れたガラス片を拾いながら、走り出していた。カチェートが戸惑いの声を上げ、銃口を向ける。しかし、射線軸上に少女がいることに気付くと、引き金にかけられた指は動きを止めた。弾丸が貫通した場合、少女に当たる可能性があった。止まれ、と叫ぶカチェートを無視して山葉は走った。そして敵に一歩先んじて、ツォエを羽交い絞めにした。

「この子をっ」白磁の首に、ガラス片を押し当てる。「この子を殺すぞ、いいのかっ?」

 手錠の鎖部分で顎を持ち上げるようにして、見せ付けるようにガラス片を持った指先に力を込める。

「き……気でも狂ったんですかっ」

 カチェートの悲鳴のような声に、彼は答えなかった。じっと敵を睨む。フルフェイスシールドは蛍光灯に不気味な反射を投げ返し、中の表情は窺えない。そこだけが夜の暗さをまとっていた。敵は動かなかった。動けないのだと山葉にはわかった。そうして疑念が確信に変わる。やはりそうなのだ。空爆を予言した少女、汚染地帯の聖女、新たな人類精神の萌芽――無思慮に彼女を傷付けられる人間などいないのだ。

「カチェート、動けるか?」敵から目を離さぬまま山葉は言った。「こいつは危険だ、今すぐ拘束するんだ」

「誰があなたの命令などっ。あなたこそ、その女の子を放すんだ。無関係な子供を人質にして、恥ずかしいとは思わないんですかっ」

「お前に対してじゃない、この敵に対して人質を取っているんだ。いいか、クーリロワの言葉を思い出せ。あの事件は麻薬の強奪なんかじゃない、聖女を拉致するために起こされたんだ。こいつがその逃亡した襲撃犯だ。目的はこの子なんだ」

「聖女ですって……?」銃口が一瞬、山葉と敵の間で揺れる。「馬鹿な、ふざけないでください。そんな与太話信じられるわけないでしょう。あなたはクーリロワさんの妄想とその少女を利用して、逃げようとしているだけだ。他人のように言ってますが、そもそもあなたたちは襲撃を企てた共犯じゃないですか」

「このっ、」わからず屋め――そう言いかけたときだった。

 それまで動きを見せなかったツォエが山葉の腕の中、唐突に振り返った。手を引く間もない、押し当てた水晶の先端が、すぅっと喉元の皮膚を薄く裂いた。

「……お、おいっ」

 緩やかな弧を描いて切れた傷口から、幾筋か血が滴った。コートの襟元からワンピースの白き処女性に吸い込まれ、獣的な薔薇が咲く。にもかかわらず、少女はまるで痛みを感じた様子はない。恋人のような無遠慮さで山葉を見つめ、透明な剃刀を思わせる、ぞくりとするような笑みを浮かべた。そして、囁くように言った。

「ずっと、待ってた」

(待っていた……? 誰を? 俺を?)

 睫毛が触れるほどの距離。そこで山葉は初めて、彼女の瞳が灰色なのだと知った。精妙な紙粘土細工のような彼女の耳に口を寄せて、言った。

「ツォエ、乱暴にしてすまない。必ず助けるから、少しだけ我慢して――」

「お母さんが来てくれた」

 彼は硬直した。ツォエは微笑みを絶やさぬまま前を向き、敵を見つめ、うっとりと言う。

「やっと、お母さんが来てくれた」

 弱々しく、彼はかぶりを振った。

「ち……違う、そうじゃないんだ、君の母親は……」

 狂った妄想――入間に聞いて、事前に知っていたはずだった。それでも間近で目にする彼女の様子は、口調は、熱に浮かされたような瞳は、山葉の心を抉った。空白の精神は隙を生んだ。カチェートはじりじりと横に移動していて、射線軸から少女を外していた。

 気付いたときには遅かった。銃声と同時に弾丸が山葉の太腿を掠った。万が一、少女の安全を考えての狙いだろう。ガラス片が落ちる、拘束が緩む、カチェートが叫ぶ。

「君、走れっ。その男から逃げるんだっ」

 ツォエが抜け出した。山葉は手を伸ばした。苦し紛れだったが、ぎりぎりで手首を掴むことに成功する。直後、細い手首を握り締めながら山葉は目を剥いた。数メートル先には前傾姿勢の敵。しかし、彼が見ているのは更にその後方だった。粉々になった正面入り口の奥に、複数の人影があった。カチェートは彼らの到着に気付いていたのだ。

 四人組のユニット――彼らはマズルが上下に二つ並んだ特殊な小銃を構えていた。

 山葉は咄嗟にツォエの両脚を払うと、抱きとめながら床に伏せた。ぬいぐるみが二人の間でクッションのように形を変える。硬い感触。直後、きゅぽん、という筒から圧縮空気が抜けるような音が鳴り、敵が横向きに吹っ飛ばされた。小柄な身体が磨き抜かれた床を滑り、受付横の観葉植物の鉢をなぎ倒す。そのまま白塗りのカウンターに叩きつけられると、壁にフルフェイスシールドをごりごりと擦りながら、力なく腰を落とした。強化服の胸部が大きく凹んでいるのが見えた。じゃりじゃりとガラスの破片を踏みながら、四人組が入ってくる。全員がフルフェイスシールドを被り、カーキ色のアサルトスーツに身を包んでいた。

「ここは中央政府司法当局が制圧したっ、全員動くな、そのままでいろっ、怪我人のチェックはこちらでするっ」

 先頭の隊員がスピーカで拡張された声で呼びかける。そして他には目もくれず、一糸乱れぬ動きで敵を取り囲んだ。ひとりの隊員が屈み、左手を伸ばした。フルフェイスシールドの頚部連結を解除する。慎重な動作で脱がせていく。山葉はツォエをきつく抱いたまま、目を逸らせない。

 現れたのは少年だった。

 十六、七歳といったところだろうか。黒髪は耳にかかる程度の長さ、幼くもなく、だが成熟し切ってもいないその顔立ちは、どこか猫科の動物を思わせた。“お母さん”どころか、そもそも女性ですらない。山葉は緊張が緩むのを感じた。

(くそ、当然じゃないか……馬鹿らしい、俺はなにを怯えて……)

 屈んだ隊員の背後から、太めのシリンダを持つ小型の注射器が手渡される。鎮静剤だった。連結固定具の隙間、少年の首に突き立てると、ガス圧で薬液が注入された。

「抵抗はするなよ」いつの間にか近くに来た隊員が、山葉を見下ろしながら言った。「起きなくていい、そのままゆっくりと手を上げて、少女を解放しろ」

 二連バレルは山葉の脳天にぴたりと狙いを定めていた。放たれる弾丸が殺傷用か制圧用か、確かめる気にはなれない。フルフェイスシールド越しでは相手の表情が見えず、考えがまったく読めない。駆け引きの要素を排除する目的があることは知っていたが、改めて対峙すると過剰なくらい威圧的で、恐ろしいものだった。

「大丈夫か君? もう安全だからな」

 山葉の腕から抜け出したツォエの肩を、隊員が抱こうとする。しかしその手が触れた途端、ツォエはびくりと身体を震わせて、

 直後だった。

 少年のフルフェイスシールドを脱がせた隊員が、天井まで吹っ飛んだ。強化樹脂の破片と折れた歯が、きらきらと舞う。即効性の鎮静剤を注射した――その考えが、一流であるはずの彼らの反応に、僅かな瑕疵かしを生んでいた。事態に気付いて銃を向けようとする頃には、少年は次の動作に移っていた。勢いにまかせて跳躍し、傍らの隊員の顎を膝で打ち抜く。着地と同時にもうひとりの隊員に足払いをかける、計算したかのように、転んだその顔面が膝に吸い込まれた。爆砕音。強靭な金属外骨格の押しを受け、HMDが粉砕された。

 それらは一呼吸の出来事だった。気付けば残りはツォエの肩を抱いた隊員ひとりだけだった。恐怖のためか、その隊員の肩は大きく上下している。ツォエを背後に隠し、小銃を構える。だが引き金を引く時間さえ、少年は与えなかった。微細振動ナイフを腰のシースから引き抜くと、横に飛んで狙いを外す。エイミングより速く距離を詰め、すれ違い、転がりながらナイフを振った。微細振動するセレーションがアサルトスーツごと力任せに引き裂き、腋下えきか動脈を切断する。風船が割れるような音と共に選択止血帯が張られる。隊員は戦意を失わない。振り向きざま、血の零れる腋の下から少年に銃口を向けた。初弾がブレードの腹に直撃し、ナイフが宙を舞う。

 しかし、次弾が発射される前に少年は隊員の膝裏を蹴っていた。続く連射は大きく狙いを逸らす。弧を描いて銃弾が床と壁を穿ち、跳弾した。少年が回し蹴りを放つ。それはバランスを崩し、低くなった隊員の頭部に命中した。人形のように壁に叩きつけられ、シールドが僅かに変形する。脳震盪を起こしかけているのだ、よろよろとたたらを踏む。

「おいっ、後ろだっ」

 山葉が言うも、手遅れだった。少年が後ろから組み付く。頭部に腕を巻きつけると、歪んだシールドの凹凸に指を引っ掛け、左に捻った。頸部の捻転ストッパーのギアが過負荷に悲鳴を上げる。隊員は手首を曲げ、必死で銃口を背後に向けようとして――

 ばきんっ。

 派手な音がしてギアが弾け飛んだ。最後の隊員は両腕を垂らし、力を失った。沈黙が降りた。山葉は目の前の光景が信じられなかった。自分がこんな化け物と戦って、まがりなりにも勝利したとは、とても信じられなかった。

 横目にカチェートを見る。彼も似たような心境らしかった。銃を構えることも、ツォエを保護することも忘れ、呆然としていた。

 少年は膝立ちのまま動かない。荒い息をしている。やがて、始まりと同じくらい唐突に、彼は崩れ落ちた。床に額が当たり、鈍い音が響く。四肢は力なく投げ出されていた。鎮静剤が完全に効いたのだ。

 最初に動いたのはツォエだった。躊躇なく歩み寄り、少年の傍らに膝をつく。彼女はじっと少年の顔を見つめた。血の気の無い乾ききった唇はところどころ切れており、睫毛には血の粉がこびりついている。微動だにしないツォエの背後から、山葉は言った。

「……これでわかっただろう。彼は男だ。君の母親ではないんだ。何らかの目的で君を狙っている。そう認めるのは難しいだろうし、ショックなのはわかる。だけど、」そこで言いよどみ、言葉を探し、「なぁ、どうしてこの少年がお母さんだと思ったんだ?」

「思った?」彼女は肩越しに振り返った。「それは違うわ」

 彼はたじろいだ。子供の目つきではない。どこか見覚えのある、疲れ果てたまどろみ。無意識に一歩引いた彼に向かい、ツォエはとどめを刺す。

「――私は“思っている”の」

「あ……」

 言葉が出なかった。彼の脳裏に、入間の声が響いていた。


『――生まれ変わったと、彼女はそう言っていたよ』


「ねぇ見て、お母さん。このぬいぐるみ、ちゃんと大事にしているよ。面白い名前だって思いついたんだから。《変な生き物》っていうの。いいでしょ……?」


『――そう、馬鹿げている。だけどツォエにとって現実との整合性なんて目じゃないんだ』


 歯を食いしばる。ツォエはそっと少年の頬を撫でていた。愛情がなければできない仕草だった。たまらない気持ちに襲われ、山葉はぐい、とツォエを振り向かせた。

「なぜわからないっ」気が付くと彼はそう叫んでいた。「しっかりしろツォエッ。君のお母さんはもう死んだんだ。結果的に君が傷付けられなかったとしても、こいつは襲撃犯なんだぞ? どうしてよりによってこいつを……」

 彼女から手を放せっ。気を取り戻したカチェートが、そう言っている。しかし彼の耳に入らなかった。

「痛いよ」

 肩を掴んだ山葉の手を眺め、ツォエは静かに言った。

「お、俺はただ」手を離し、喘ぐように山葉は言った。「君を守りたかったんだ」

 ツォエは笑った。

 わかってる、と言っているようだった。私を守ろうとして、お母さんを殺したんでしょう? 事故だったら仕方ないわよね。交通事故で毎日人が死ぬ世界だもの、そういうことでしょ? ええ、仕方ない。それに考えてみれば、物語の中の神様だって、願い事に代償を欲しがるものだし、だとするとお母さん“だけ”で済んだのはいい取引だったって思うべきなのよね。だけど、あれ、そういえば“お父さん”も死んじゃったけれど、まさか、あなたが殺したんじゃ、ないわよね……?

 山葉は視線を逸らした。逸らした先にはカチェートがいた。しかし彼はもう、山葉を狙ってはいなかった。銃を捨て、両手を上げていた。

 カチェートの背後、エレベータの前に立っているのはクーリロワだった。小倉の落とした自動拳銃を両手に握っていた。

 こうして、道を阻むものはなくなった。

 袖を引かれ、山葉はツォエに向き直った。彼女はなにも言わない。ただじっと見つめ返す。それでも沈黙に秘められた言葉がなにか、山葉にはわかっていた。従えば、彼が共犯だという主張を裏付けることになるだろう。逃げ場はなくなる、言い訳の余地もなくなる。背後ではクーリロワとカチェートが声を荒げている。一方は主張する。聖女であるツォエを助けたければ、今すぐ彼女を連れて駐車場に行き、ここから脱出しなければならない。もう一方は説得を試みる。こんな男のためにまた同じあやまちを繰り返すなんて愚かだ、小倉は見ていない、今なら取り返しがつくはずだ。

 しかしなにより彼の意識を占めるのは、ツォエのまどろんだ瞳。起きながらにして夢を泳ぐ眼窩の双球。懐かしい匂い。古い影。

 選択肢など、最初からなかったのだ。

 彼は落ちていた微細振動ナイフを手に取り、手錠を切った。

 ツェオは神経質に笑った。その笑顔の裏で、どんな感情を自分に向けているのか、山葉は聞きたい。誰が君をそんな風にしてしまったのか――それを知っているのか聞きたい。しかし本当に聞く勇気が、山葉にはない。





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