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狐たち  作者: nutella
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 まぁ、悪くはないんだけど、と看護婦は思う。気遣いはできるし顔だってまずまずといったところ。その上、話だって面白い。助手席にいた冴えない感じのする同僚にも、ちゃんと気配りできていたっていうのも重要なポイントだ。あの放埓ほうらつそうな感じと配送センターでの配達員という仕事柄、将来性に過大な期待を抱くのは間違いだろうが、それだったら彼女の安定した職業でずいぶんと補える――もしデート以上を最終的に見据えているのなら、ということだが。

「ほら、ツォエ。冷えすぎてもいけないし、入りましょ?」

 彼女は台車が擦れた跡のある資材搬入用の裏口を開け、少女を招き入れた。ツォエは無言のまま、こちらを振り返ると、不釣合いなくらい大きな尻尾を持ったぬいぐるみに頬を当てながら、しずしずと中に入る。

「ツェオもちょっとは気分転換になったでしょ?」

 会話に相手の名前を繰り返し挿入する、安っぽい印象操作。しかしこちらの胸の内を見通しているかのように、彼女の反応は薄い。もともと無口なのかもしれない。それでも、こんな陰気な怨念篭る空間に何日も閉じこもっていたら、きっとその方が病気になってしまうだろう。レクリエーションルームだとか視聴覚室だとか、そういった普通の子供が好きそうなものに、ツォエが何の興味も抱いてないことは一日目から明らかだった。

「あら、ちょっと泥ついちゃったわね」

 いやに静かな廊下を歩きながら、看護婦は視線を落とした。ツォエの着ているダブルボタンのダッフルコートの裾に、一点染みがついていた。屈みながらポケットからハンカチを取り出し、軽く拭ってやる。コートの色が黒なのでそう目立つことはなさそうだ。ついでにフード付きワンピースの裾や黒のタイツ、スエード調のキャメルのブーツにも汚れがないかチェックする。そうしながらふと、さながら主にかしずく召使のようにツォエを見上げる。少女の視線は夢妄の彼方、迷妄の逆さ返し、巨大な緑色の月と、赤茶けた大地が延々と続く世界に向けられている。看護婦は手を止める。じっとその灰色の瞳に見入る。すると一瞬、馬鹿らしい想念が脳裏をよぎった。

 この子は、”私たち”とは違う……。

 突拍子もない思考に、自分でぎくりとする。保護する立場にある者が、なにを考えているのか。これこそまさに、病的というものだ。考えを振り払うかのように看護婦はすっくと立ち上がった。ツォエの背に手を当て、努めて明るい声を出す。

「――そうだ、私ね、今日夜勤の友達にあげようと思ってクッキー持ってきたのよ。よかったら一緒に食べない? ツォエだって病院食だけじゃ飽きちゃうでしょ? 食事制限だってないんだからさ、ね? ああ、友達のことだったらいいのよ」

 ツォエは答えない。いいわ、結構。予想通り。看護婦はぎこちない笑顔のままひとり頷くと、ツォエにドアの前で待つように言い残し、通路の右手、ロッカールームに入った。自分の名前が書かれたロッカーを開ける。上段の棚に無造作に置いたバッグを取り出し、中をまさぐる。あった。リボン付きの透明な包装。中のバターミルククッキーは黒ずんでいて、少々焼きすぎた感がある。だが程度で言えば、これでも前回よりはましなのだ。それにオーブンを使うのが人生で三回目ということを考えれば、きっと及第点だろう。一枚も割れていないことに気を良くしながら手に取り、ロッカーを閉め、そこでふと思った。

 ――そういえば、どうしてこんなに静かなのだろう?

 周囲を見渡せば制汗剤の匂い、汚れたナースシューズと伝染したストッキングが突っ込まれたくず入れ、悪趣味なピンク色のベンチ、あちこちに無造作に放られた古い雑誌……だけどシフト交代の時間なのに、誰もいない。廊下だって、ロビーからそれほど離れていないのに、奇妙なくらい静まり返っていた。この時間帯に誰ともすれ違わないなんて、なにか変じゃないだろうか? ツォエを気にするあまり運が良かったとしか考えなかったが、こんなこと、今まであっただろうか……?

 背筋が寒くなった。

 これまで好んできたホラー映画やシュールレアリスム的物語展開が、突如として彼女に牙を剥いたようだった。そのどぎつい本性は、カウチに寝そべってスナック片手に楽しむものではなくて、真っ暗闇の中、シーツに包まって部屋の隅で震えているのがお似合いだとでも言うかのような。たとえば朝、目を覚ましたらみんないなくなっていた。たとえばエレベーターから降りるとそこは内臓を裏返したようなおぞましい色彩の世界だった。たとえば下水道での仕事を終えてマンホールから地上に出てみると、まるで見知らぬ乾いた大地、赤茶けていて、荒涼として、酸の風が吹きつけ、見上げれば地上を覆い隠すほど大きな緑色の月がぎょろりと見下ろしていて――

 ばさり。

 ロッカーの上に詰まれていた雑誌が崩れ落ちた。彼女は飛び上がり、半ばつんのめりながらロッカールームを出る。廊下に立つ陰気な少女を見つけたとき、深い安堵を覚えた。ああ、私は少なくともひとりぼっちじゃなかった……。それは我に返れば馬鹿らしい恐怖心。精一杯すまし顔を取り繕いながら、彼女はツォエにクッキーを渡す。渡すといってもコートのポケットに入れてやっただけで、ツォエはずっと、ロビー方向に続く廊下を見ていた。

「ねぇ、どうかした?」やめてよ、と思う。先ほどの恐怖がぶり返すのを感じながら、看護婦は言う。「あっちになにか、ある……?」

 答えを期待していたわけではない。しかし予想に反し、少女は前方を指差した。看護婦は同じようにロビーの方向を見やる。

 すると突然、耳障りなブザー音が響いた。玄関の危険物持ち込みのブザーだ。続いて、ガラスが割れる音。更に続いて、人々の悲鳴。

「え、えっ……?」

 わけがわからないまま立ち尽くしていると、廊下の奥から人の群れが走ってくる。彼らの目は一様に恐怖と逃走本能にぎらぎらと光っていた。

「や、奴らだっ」群発頭痛に悩む背広姿の若い男が叫ぶ。「統一革命戦線の兵士が攻めてきたぞっ」

 脳髄に落雷。ありえないとわかっていても、じぃんと指先まで痺れて動けない。敵の兵士がここを攻めてくるなんて、そんな馬鹿な話があるはずないのだ。仮に彼女の知らない間に開戦したのだとしても、真っ先に狙うべきは軍事基地とか発電所だし、そもそも医療施設を攻撃するのは条約違反ではないか。

 思考の泥沼にはまっているうちに、どうしようもないほど群集との距離は縮まっていた。その痩せ細った姿からは想像もつかないような俊敏さで走るヘルニアの老人。二型糖尿病で透析を受けに来ていた中年の男性。交通事故に遭った弟との面会を待っていた若い女性。受付に勤務交代を告げに来ていた看護師……がむしゃらに駆ける人々に、理性の兆しは見られない。舵を取るのは怒号と悲鳴。彼らは捕食者を前にした野生動物だった。

 いけない――咄嗟にツォエを廊下の角に突き飛ばしながら、彼女は突進に巻き込まれた。この状況で転ぶのはまずい。しかしナースシューズを履いた足は絶望的にもつれ、彼女は転倒した。途端に走り行く靴に踏まれ、もみくちゃにされる。本能のまま、必死で身体を丸める。腕の隙間から入り込んだつま先に鼻が蹴られ、反射的に顔を押さえる。すると、がら空きになった頭部に、鉄板入りの作業靴が直撃する。がぁんと視界が振動した。水中にいるかのように、全ての音が二重に響いた。薄らいだ意識の中、彼女は重い首を上げた。ツォエは彼女に背を向け、ふらふらと歩き出していた。どこ行くの、と言おうとする。駄目よ、そっちも反対側からロビーに出るわ。なにが起きてるかわからないけど、危険よ。いい、あの人たちを追いかけちゃ駄目。混乱してるから、逆に危ないの。ただ来た道を引き返しなさい、今入ってきたところよ、資材搬入用の薄汚れた裏口。覚えているでしょ? さあ、わかったら早く……。

 声は出ない。喉をつくのは首を締め上げられた鶏の悲しみ。しかし声なき声が伝わったとでも言うのか、ツォエは振り返った。目が合う。ツォエは小さく口を動かした。声は狂騒に紛れて聞こえない。だが彼女には、『お母さん』と言ったように思えた。どういう意味だろう、と思った。ツォエは再び背を向け、歩き出す。ぐらぐらと揺れ、螺旋に呑み込まれていく意識の中、看護婦はそのとき初めて、ツォエが大事そうに持つぬいぐるみが、狐ではないかと思った。彼女は失神した。



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