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狐たち  作者: nutella
16/52

15

 殴られた頬より肩の傷が熱を持っていた。薄れ始めた鎮痛剤の効果の影、薄い痛みが姿を覗かせている。

「お前が先だ」小倉が言い、山葉の背中を乱暴に押す。

 ふらつきながら、彼は屋上のエレベータに足を踏み入れる。

「まったく困ったお嬢さんだ」 厭味ったらしい口調で小倉が言った。「妄想と現実の区別もつかないときてる。下手に賢いものだから、余計性質が悪い」

「聖女の件ですか?」《ロビー》と表示されたパネルに触れながらカチェートが言う。

「ああ、もう何年前の話だろうな。長官も相当こたえたようだ。弱みを握られれば現事務補佐官をはじめとした、反対勢力を勢いづかせる結果になる。一粒種の愛娘に分裂病の疑いがあると知られては、どのように利用されるかもわからんからな。“あの件”を揉み消すのに躍起だったよ」

 三人を乗せた鉄の箱は、静かに降下を始めた。

「小倉さん、自分には彼女がおかしいようには……。確かに幾つかの言動は、合理性に欠いているようでしたが」

 小倉は見る者を苛立たせる笑みを顔に張り付かせ、芝居じみた動作で首を振った。

「お前は転属してまだ三年にもならなかったな。実際巻き込まれてないからそういう台詞が出るんだ。あの“元ジャーナリスト”のお嬢さんは本来、閉鎖病棟にいるべき人間さ。まぁ、今は昔の話だ」

「しかし、自分は」

 再びクーリロワを擁護しようとするカチェートを、小倉は眉を上げて眺めた。どこか面白がるような色があった。

「随分肩を持つな。お前、あの女に篭絡されたのか? 確かに容姿はずば抜けてるから、わからんでもないが」

 カチェートは目を逸らした。小倉はその様子を検分すると、静かに言った。

「――妄想は伝染する」

「え?」

「覚えておけ、カチェート。よく練り上げられた妄想は強力なウィルスと同じだ。言葉は病原体で、触れたものを感染させようとする。それを全体意識などと崇めるようになったら病巣が脳の中枢を蝕み始めたということだ」

「……肝に銘じます」

 ゆっくりとGがかかり、エレベータが止まる。

「出ろ」

 山葉は襟を捕まれながら、待合室も兼ねた吹き抜けのロビーに足を踏み出した。数歩進み、周囲を窺う。好奇の視線を覚悟する。刑事に両脇を固められ、スリッパを履いた手錠と検診着姿の男が現れるのだ。しかし、エレベータホールから離れ、広い間口の受付や、その前に並んだブルーの待合用ベンチとソファ、ガラス張りの正面入り口など、全てが見回せる位置に着いたところで、山葉は雰囲気がおかしいことに気付いた。

 人はいる、大勢だ。しかし音がない。正確には、病院や図書館特有のひっそりとした喧騒がない。空気は張り詰めていて、横幅広く、十列近くもあるロビーの待合椅子は、まるで演奏を待つ小さなコンサートホールのようだった。そして演奏はすでに行われていた。来客も患者も医療スタッフたちもみな、壁に取り付けられた大型のスクリーンに釘付けになっていた。女性アナウンサーの声だけが響き渡る。

 流しているのはニュースだった。内容を聞いて、全身が凍てつくのを感じた。

(おい、嘘だろう……?)

「何だ、なにがあった?」

 異変に気付いた小倉が、背後からぬっと首を伸ばす。山葉に向けた問いではなかった。しかし、たとえ彼に聞いたものだとしても、答えられなかっただろう。原稿を読み上げる真紅の唇から発せられる台詞のひとつひとつが、落雷の衝撃を持って響いていた。

「――もう一度繰り返します。たった今、緊急ニュースが入りました。実に九十一日間にも及んだ空爆事件に関する調査が本日をもって終了し、中央政府はこの最終調査報告を受け、統一革命戦線に対し、侵攻作戦の実施を決定しました。官邸では現在、臨時の記者会見が開かれており……」

(まさか、今頃になって)

「また、大型民間軍事会社タブラ・ラサも、中央政府への本格支援と、統一革命戦線に対する戦闘許可を明記した“甲二十一号要綱”を正式発表しました。中央政府は、これを容認する見込みです。これにより、共同軍事作戦の可能性が現実味を帯び始め……」

(そんな馬鹿な)

「繰り返します。中央政府は、非常事態宣言を発令し、統一革命戦線《不退転の戦士》に対し、制圧作戦を決定しました。これにより、七二時間後――東部標準時間十二月二五日十五時までに次の要請が満たされない場合、地上侵攻に踏み切ることになります。読み上げます。要請事項、第一項目より……」

 ニュースは、開戦を伝えていた。

「地上侵攻だと? このタイミングでか? 信じられん……」

 小倉が上擦った声を出す。動揺を隠せないでいる。それもそのはずだった。開戦はありえないと、そう囁かれ続けてきたからだ。そして山葉もそう信じてきた。例え意志決定までの経緯が妥当なものであろうと、受け入れることは難しかった。これから殺し合いが始まる――アナウンサーの台詞を極限まで削ぎ落とせば、そうなるのだから。

 人々が金縛りから解かれたのは、一人の中年女性の叫びのためだった。

「うそよっ、うそっ、戦争なんてあたしは信じないわっ!」

 それはロビーにいる全員の心情を代弁していた。呼応するように、人々が思い思いの言葉をぶちまけ始める。ざわめきがうねりだす。ロビー入り口にいた、紺色の制帽を被った大柄な警備員が走りより、「落ち着け、落ち着くんだ」と取り乱した様子で両手を振り回している。

「おい、カチェート、確認だ。本部と署に連絡しろ」

 騒然となった周囲に負けぬよう、小倉が唾を飛ばしながら言う。カチェートは顔をしかめ、かぶりを振る。

「基地局の回線がパンクしたようです。繋がりません」

「ありえん、こんなすぐにか? ちっ、だったら無線だ、なにをのんきに」

「それも駄目です。黄砂雲が電離層に異常対流しているため、HF帯では交信できません。VHFも、この状況では軍の許可がなければ……」

「くそっ」小倉の視線が山葉に留まる。ほとんど言いがかりのように怒鳴りつける。「お前、動くなと言ったろう。なにを見ているっ」

 しかし山葉にその野太い声は届かなかった。泣き喚くような人々の騒ぎ声さえ、意識の外だった。彼の視線は警備が消えた、ガラス張りのエントランスに釘付けになっていた。フルフェイスシールド、強化服、小柄な体躯。

 敵がいた。

 


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