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冬の太陽が眼の水晶体を貫いて、脳を直接焼いていた。たとえ今カメラを持っていても、それは撮りたい景色ではなかった。なにか美しいものを探してみても、屋上のフェンス越しに広がる街の景色は灰色に潰れている。コンクリートで塗り固めること。それが唯一汚染された大地を浄化する道だと、人々は信じているようだった。快晴にも関わらず、美しいのは空を見上げたときだけだ。さながらこの病院は、地上の人々の愚かしさを見通すための監視塔だ。医療施設としては異例の三八階立てという造り自体、それをほのめかしているのかもしれない。もちろん全ての階が直接的な医療のためにあるわけではなくて、上階の一部は製薬会社の研究機関、治験用の施設などになっている。
南に面したフェンスの前に立って左に目をやると、海が見える。海と、それを縁取る人工湾。煉瓦色の倉庫から運び出されたカーゴは湾岸まで乗り付けたモノレールに積み込まれ、運ばれた先でばらばらに解体されるのを、じっと待っている。カーゴのいくつかは、この病院の足元にあるモノレール線ホームに運び込まれ、長距離輸送の列車に移し変えられることになる。噛み飽きたチューインガムのように味気ない、単調な眺め。そんな眺望のせいか、屋上にいる人は少ない。ぱっと目に入るのは、給水塔の影、ベンチに腰掛ける男女の姿くらいだった。
風がびゅうっと吹き付け、クーリロワは目を細めた。天気はいいが、春のように暖かいというわけではない。指先はかじかみ、肩は震え始めている。しかし彼女は動かなかった。やがて背後に気配を感じた。なぜだか、振り返る前からそれが誰かわかっていた。指の腹を噛みかけ、そこに絆創膏が張られていることに気付くと、彼女は手を下ろした。きゅっと一度目を瞑る。息を吐き、目を開ける。するとそこには、人々がそうあれかしと望む彼女がいた。クーリロワは振り向いた。
山葉は真正面から向き合っている。初めて目にする彼女の容姿。改めて彼は、《氷の女王》という二つ名が広まった理由がわかった気がした。彼女の造形は彫り抜かれた氷だった。触ることがはばかれるほど鋭利だった。ひどく冷たいにもかかわらず、美しかった。
「花を」と山葉は言った。「花をくれたのは君か?」
「ええ」と女性は頷いた。肩より少し長めの金髪が、北風に踊っている。グレイのトレンチコートにサーモンピンクのフレアスカート、黒のロングブーツという出で立ち。
「君がクーリロワか」
「ええ」
彼女はにこりともしなかった。今度は彼女から口を開く。
「顔色が優れませんね。もう歩いて平気なのですか?」
「問題ない」
「そうは見えませんが」
「……そんなこと、どうでもいいだろう」
「私はあなたを心配して――」
山葉は笑った。
「言い直せよ。“広告として利用価値のまだありそうな部下”を心配して、だろう?」
彼女の顔に陰が差す。傷付いたような色。しかし人間味を感じられたのは一瞬のことで、すぐに彼女は氷の仮面を被り直す。
「利用価値という言葉が“有能な”という表現で置き換えられるのなら、そうです」
飽くまで冷静なその言いに、山葉は苛立ちを覚える。
「言葉遊びをするつもりはない」
「私も同じです」
がしゃん、と彼はフェンスを叩いた。
「ならはっきりさせようじゃないか。俺をかばったのは何故だ?」
「かばった?」彼女は首を傾げた。「何のことかわかりませんが」
「とぼけないでくれ。どうして“あのこと”が記事になっていない? 指揮を執ったのは君だ。最初から最後まで見ていたはずだ――あの、一部始終を。知らないとは言わせない」
「……肩を貸します。病室まで戻りましょう。本当はまだ、」
「近寄るな」
手負いの動物のような様子で山葉が言うと、クーリロワは足を止めた。
「――まだ、安静にしていなければいけないはずです。顔色、真っ青よ」
彼は顔を拭った。拭った指先を見ると、びっしょりと冷たい汗がついていた。
「質問に答えてくれ。あの記事は誰が書いた? 誰が情報を提供した? 俺がヒーローで、職務を忠実にこなしただなんて……」
「公表されている内容が全てです」風に浮く髪を抑えながら、彼女は言った。エメラルドのピアスが、白い太陽に燃える輝きを投げ返す。「記事にあなたが職務に忠実だったと書いてあるのならば、或いは勇猛で恐れ知らずだったと書いてあるのなら、それらは全て正しいのです。山葉、あなたは勇敢でした。どんな男でも怖気づくところ、私の指示に従い、戦った。不幸にもクライアント夫婦はあなたが突入した時点で、すでに手遅れでした。ですが結果的に――想定外とはいえ――ひとりの少女を救うことができた。それが真実です。あの夜、あの屋敷で起きたことの全てです」
氷色の瞳が山葉を射抜く。そこに込められた強い意志は、敵を見るような彼の視線にも揺らがない。瞳は雄弁に語る。これ以外の解釈は認めない、と。そういうことか――ゆっくりと理解が染み渡り、彼は拳を握った。
「……神輿に担いだ広告塔が“不必要な”返り血で汚れているなんて、認めるわけにはいかないもんな。俺を守るのが社の方針か。きっと転送した映像も消去したんだろうな。はっ、君も大変だなクーリロワ。同情するよ」
クーリロワは無言だった。無表情は座して語らず。なにを考えているのか読めない。
気に入らない、と山葉は思った。まるで高みから見下ろされているようだった。それが思い込みなのは、彼にもわかっていた。しかし、極度の美は時に鏡となって、見る者の心を映す。彼が怖れているのなら、彼女は見下していた。彼が怯えているのなら、彼女は軽蔑しているのだった。
「君はなぜ……なぜツォエが警護対象に入っていなかったか、知っているか?」
自分がなにを言おうとしているのかもわからないまま、彼は口を開いた。
「いいえ。ですがおそらく彼女が養子という事実に関係があるのでしょう。山葉、この件について考えるのはもうやめなさい。終わったことで――」
「俺は理由を知っている」
ぴくっ、とクーリロワの表情が一瞬揺れる。それでいい、と思った。氷の仮面に少しでもひびを入れたい一心で、彼は続けた。
「あの夫婦はツォエが特別だと知っていた。だから、警護対象の申請という些細なことですら、人目にさらしたくなかったんだ。ツォエは汚染地帯出身だ。考えてみれば汚染地帯もある意味、人目から逃れた場所じゃないか? 神聖な存在は、古くから秘匿と共にあった」
「神聖な存在? ツォエのことを言っているのですか?」
唇を舐め、山葉は言葉を探す。そうして思い出されたのは、夢現の世界で聞いた言葉。社会人類学者が言っていた言葉。
「ツォエは《聖女》と呼ばれるべき存在だ」
さぁ笑え。そう彼は思った。突然目の前の男が妄想めいた、オカルト話を始めたのだから。頭を殴られたか、出血がひどすぎたか、ストレスに耐え切れなかったか……そう、山葉という男は狂ってしまったのだ。
「あの事件、俺にはただの強盗とは思えない。始めから、犯人の狙いはツォエだったんじゃないのか?」
或いは侮蔑。それでもいいと思った。その仮面を剥ぎ取れるのなら。
しかし、そのどちらもクーリロワは見せなかった。彼女は息を止めたまま、目を大きく見開いていた。まるで、なにかに怯えているようにも見えた。
「聖女と……誰から聞いたんですか?」近寄るなという先の警告も、すでに彼女の意識になかった。無遠慮に山葉との距離を詰める。「聖女と言ったんですね?」
彼女の様子には、ただならぬものがあった。
「お、おい、クーリロ――」
「ああ、そんな、また……いえ、じゃあこの事件の目的は……」信じられない、とでもいうかのように彼女はぎゅっと目を閉じ、薄紅色の唇を噛んだ。「――すぐに保護しないと」
「どうした……、あっ、おい、待てっ」
話についていけない。走り出そうとしたクーリロワの肩を咄嗟に掴む。
「放しなさいっ」
振りほどこうとした彼女の手が胸の傷に当たり、山葉は呻いた。
「あ、私……、ご、ごめんなさ……」
クーリロワは山葉の身体に触れようとしたが、すぐに手を引っ込める。取り乱したその様子は、山葉が聞いた彼女のイメージからかけ離れていた。山葉は包帯越し、そっと手を当て、かぶりを振った。鎮痛剤は効いている。まだ痛みは感じない。山葉は後ずさりしたクーリロワの腕を掴み、
「それより教えてくれ。今の反応……君はツォエについてなにか知っているのか? それに保護というのはどういう――」
「彼女から離れろっ」
低い声が響きわたった。話に気を取られ、気付かなかった。いつの間にか彼らの近くに、スーツ姿の男二人が立っていた。一人はでっぷりと突き出た腹の肉をスラックスに押し込んだ、背の低い中年の男。その隣、もう一人は若く、切れ長の目が印象的だ。小麦色の肌とあいまって、色男と言って差し支えない容姿をしていた。そして山葉にとって、問題なのは後者だった。銃を構えている。照準は山葉に向けられていた。彼は両手を上げながら、ゆっくりと向き直る。
「さぁ、こちらへ」
若い男は銃を構えたまま、クーリロワに手招きした。
「カチェートさん、銃を下ろして下さい。彼はただの――」
「さっさとしろ、カチェート」
それまで黙っていた脂顔の男が始めて口を開く。苛立った様子だった。カチェートと呼ばれた男は、一歩大きく前に出ると、クーリロワの腕を引っ張った。
「きゃっ」
「乱暴な真似はよせっ。何のつもりだ」
反射的に動こうとした山葉は、向けられた銃口が狙いを絞るのを感じ、怯んだ。そこへ、背の低い中年男が悠々と歩み寄りながら声をかける。
「“危険人物”から保護してるんだよ、わからんか?」
男はにぃっと笑う。厚い唇、厚い髪、厚い瞼――脂性の肌特有の、毛穴がぶつぶつと開いた鼻を挟む両眼は若干離れ気味で、腫れっぽい瞼とあいまいって、人に化けた蛙を想像させる。
「小倉さんっ、やめてください。彼はなにもしていないわ、どうして急に――」
「クーリロワ君、少しの間静かにしてもらえるかね」
小倉と呼ばれた男が言うと、彼女は黙り込んだ。もう一度なにか言おうとするも、小倉がじろりと目をやると、気圧されたように俯く。まるで気弱な子供のようだった。
(クーリロワ……?)
小倉は山葉の腕を掴むと、自分の胸元からなにかを取り出した。それは警察手帳だった。「お前を強盗殺人の疑いで逮捕する」
「な……」
がしゃ、と彼の手首に手錠が嵌められる。被疑者の権利が読み上げられるのも耳に入らなかった。強盗という言葉が、壊れたレコードのように、彼の脳内で繰り返される。
「不服そうだな、山葉」
「お……俺は強盗なんかしては……」
「ああそうだった、すまんな。強奪は未遂と言ったところか? だがつまらん、もうちょっとうまい言い訳を期待していたんだがな。なかなか面白い、手の込んだ策だったんだ」
小倉の喋り方には隠しきれない侮蔑が混じっていた。呆然としたままの山葉に向かい、おもむろに懐から一枚の写真を取り出す。それは銃だった。真っ二つに切断されたPBA。プラズマ加速装置を備えた銃。枠端の余白には赤インクで、《二次証拠品/測定済み》と書き込まれている。
「警察の科学捜査を舐めすぎだな。わからないとでも思ったか? ふっ、ずいぶんと甘く見られたものだ。涙ぐましい努力をしたようだが、その場の思いつきで殺人を誤魔化せる時代じゃないんだよ」
言い返すこともできず、彼は下を向いた。調子に乗ったように小倉の弁舌は熱を増す。
「本当に、お前のような屑には感心するよ。警備員という職務を利用して、仲間に襲撃させる機会を伺っていたとはな。スーリヤというお前のパートナーも共犯なんだろう? あいつの経歴も調べたが、《窓》にいた頃に、何とも香ばしい事件が起きてるなぁ?」
「な……何の話かわからない……俺に、共犯なんていない」
「麻薬の話だよ。お前に縁の深い話だ」
山葉の目の色が変わる。
「お、俺が麻薬強盗したと言いたいのか? なにかの間違いだ、俺はやってないっ」
反射的に、姉の姿が脳裏に浮かぶ。
(そうだ、盗んだのは俺じゃないだろう、盗んだのは姉さんで……)
「屋敷の地下から、大量の薬物が発見されました」黙っていたカチェートが口を開く。「種類も様々です。合計すれば末端価格で、金一二〇キログラムと同等の価格がつくそうです。これでも少なく見積もった値で、捜査が進めばもっと増えるでしょう」
「なんだって……?」
「白々しい演技ですね。あなたが一番よくわかっているでしょうに。あの家は薬物の一時保管庫のようなものです。防犯対策の物々しさを考えても、なにか重要なものを隠していることはわかります。死んだ襲撃者たちの身元もすでに判明しています。彼らは皆、ドラッグ売買と女衒を主な収入源としている新興マフィアです。警察のブラックリストと照合できました。屋敷に保管した薬物の引渡し先もそのマフィアだと考えるのが妥当でしょうね。おそらく、保管料や契約コンディションなどを巡っていざこざが起きたのでしょう。事件の前に脅迫があったことはこちらでも確認しています」
「し、新聞にはそんなこと書いて――」
口にした後で山葉は自分がどれだけ馬鹿なことを言っているのか気付いた。カチェートは息を吐いて首を振り、本当に馬鹿げた発言を聞いたとき自然とそうなるように、哀れむような視線を送った。
「もちろん、書いていないでしょうね。そのようにしましたから。メディアに与えたのは嘘ではないが真実でもない情報です。警備会社側の発表にはあえて口出しをしませんでした。そうすればあなたは安心して、万が一にも脱走するという可能性を防げるでしょう? いつ起きるかわからない人間をずっと見張っているのも大変ですよ。その反応を見るに、こうしておいて正解だったようですね。小倉さんの慧眼には頭が下がります。たぶん報道クラブの方々も、明日のネタが増えて満足でしょう。ヒーローから一転、加害者へ――ドラマティックですが、ちょっとできすぎですね」
最初から二重構造だったのだ。警備会社が山葉を利用したように、警察は警備会社の発表を利用した。結局自分は、警察の掌で遊ばれていたというわけだ。
(ちくしょう……)
その怒りが自分に対してなのか、あるいは目の前の男に対してなのか山葉にもわからなかった。思いつく精一杯を山葉は言う。
「俺が……俺が襲撃の手引きをしたと言うのなら、どうして仲間同士で殺し合いをする? おかしいじゃないか」
「そこに至る過程をこれからあなたに問うのですよ。おおかた、想像はつきますがね。土壇場で取り分を巡り、仲間割れが起こった――ええ、“こんなの”よくあることですよ。そして重傷を負ったあなたは強奪を諦め、その代わり、偶然生き残った少女を救ったヒーローという隠れ蓑を得ることにした」陳腐な小説のプロットを説明するかのような口調で、カチェートは言った。「……と、こんなところじゃないですか?」
「ち、違う、俺は関与していない。そうだ、一人いるだろう、俺が捕まえた犯人が。どうしてそいつに聞かない? 違う証言をするはず――」
「死にましたよ」
「なに……?」
「直接の死因は窒息ですがね――吐しゃ物による窒息。ESGの被弾ショックで身体の自由が利かない状態に加え、後ろ手に拘束されて、どうにもならなかったんでしょう。ですがまぁ、嘔吐するのも当然ですよね、あれだけ同じ箇所に撃たれたんですから。うまく偶然を装ってますが、無力化武器で殺すなんて普通、殺意がなければできないですよ」
「なにを言っている、あいつらは殺す気で来たんだぞ? どうやってあんな装備で手加減しながら――」
(無駄だ)
喋っている途中で山葉は気付いた。このやり取りに意味など無いのだ。警察はもうすでに結論を出している。カチェートが語った陳腐なプロット――それが結論なのだ。陳腐でいて、実に理解しやすいシナリオ。穴だらけなのは彼らも気付いているのかもしれない。そもそも山葉は自分で選んだのではなく、警備会社から派遣されてあの屋敷にいたのだし、そのうえ、事件の日が初日だったのだ。クライアントについて知る時間もなければ強盗を手引きする余裕もない。しかし穴があれば塞ぐだけだ。結論ありきで推論を展開するのなら、こじつけるのはそう難しいことではない。
(そして、俺は確かに無実じゃない――)
黙り込んだ山葉を見て、完膚なきに言い負かされたと思ったのだろう、気を良くした様子で小倉が言った。
「金が欲しかったんだよな? 浅ましいというか惨めというか。生活に困窮していたんなら、それは同情するよ。お前のことは調べさせてもらったし、身近にどんな“悪例”があったのかも知っている。だがひとつ言わせてもらうぞ。お前は姉と同じ末路を辿りたいのか?」
きっ、と山葉は顔を上げた。頬の筋肉がぴくぴくと痙攣する。
「黙れ」
その形相に小倉はますます攻撃欲を高められたようだった。亀のような、厚ぼったい小倉の瞳が爛々と光る。
「貴様、被疑者の身分でよくもそんな台詞が吐けるものだな。反社会的な姿勢はお前の生まれから来ているのか? いや、やはり遺伝か。お前の家族を見れば――」
それ以上我慢できなかった。しかし、彼の拳が小倉に届くことはなかった。怒りのまま掴みかかろうとした瞬間、背後からカチェートに肩を引かれた。同時に膝の裏を蹴られ、両手を手錠で繋がれている山葉はバランスを崩して膝を着き、
「邪魔をっ」
振り返ると同時、真横から小倉の拳が振り下ろされる。頬に衝撃が走った。転びかけ、支えに出そうとした手が手錠に引かれ、顔から無様に倒れる。クーリロワの悲鳴が遠くに聞こえる。頭の中で鈍い反響音がしていた。頬の内側が切れ、血の臭気が鼻の奥に漂った。
「ふんっ、手間をかけさせる」付け過ぎた整髪剤のせいで、てかてかと光る厚い黒髪を頭皮に撫で付けながら、小倉は吐き捨てた。下から睨み付ける山葉と目が合うと、「何だその眼はっ」と躊躇することなく腹を蹴り上げる。
「や、やりすぎよっ。やめて――」
駆け寄ろうとしたクーリロワを、カチェートが抑える。小倉は視線を移すと、なおも暴れる彼女に対し、心から不思議そうな表情を見せた。
「わからんな。どうしてだ? どうして君のように賢い女性がこんな屑をかばおうとする? もしかして、知らないのかね? だったら覚えておくといい。こいつは汚染地帯で育った三等市民だぞ。貨幣の価値を知っているのが逆に不思議なくらいだ」
「そんなの関係ないでしょう」血相を変え、彼女は言う。「それに小倉さん、貴方は間違っています。今回の事件は強盗なんかじゃないわ。そんなものより、もっと重大な――」
「重大な、何だね?」
言わんとしていることは聞き飽きた――小倉がそんな様子を見せると、クーリロワはあからさまに怯んだ。目を伏せ、力なく言う。
「ま、麻薬強盗とか、そういったものではないのです。犯人は、聖女を拉致しようと……」
「聖女ね」また始まったとでも言うかのように、ふぅっ、と小倉が大げさに溜息をつく。
「小倉さん聞いてください、本当なんです。彼の証言もあります。だから」
「クーリロワ君、ひとつ教えてやろう。大変ためになる話だ。君が懸命に弁護しようとしている人間が、どんな種類の人間かという話だ」そして彼はじろっと山葉を一瞥する。その顔は勝ち誇っていた。「この男の家系は遺伝的に犯罪者なんだ」
「聞くな」山葉は言った。
「君がずいぶんとこの男を買っていることはわかった。だがな、調べればすぐにわかる。こいつを育てた祖父は長いこと捜査から逃れてきた戦争犯罪人だったんだ。わかるか。こいつはろくな生まれじゃない。劣悪な汚染地域で犯罪者に育てられた人間の末路など、どれも似たようなものだ」
「聞くな、クーリロワ」
彼女は、立ち尽くしたまま、山葉を見つめていた。
その反応に小倉は大満足だった。ぷりぷりとした厚い唇を舌で湿らすと、話を続けた。
「傑作なのはこいつの姉さ。ろくでもない家系の見本みたいなものだ。なぁ山葉、そうだろう?」
「それ以上言ったら、」
彼の警告を、小倉はまるで聞いていなかった。
「はっ、山葉、お前がなにかするっていうことはわかりきったことだったんだ。“ヤク中の殺人者”が、最後には自殺するっていうのと同じくらい、わかりきったことなんだ」
(――殺してやる)
「小倉さんっ」
山葉の動きに、カチェートの対応が一瞬遅れた。まさか怪我人にそれほどの力があるとは思わなかったのだろう。彼は傷が開くのも構わず、力任せにカチェートを振り払うと、小倉に向かって突進した。
「ひっ」
小倉の口から短い悲鳴が漏れる。しかし、それは絶叫にはならなかった。山葉が両手の指を組み合わせ、横殴りのハンマーのようにスイングした一撃を、偶然屈んで回避する。
「くっ、くそ――」
山葉の奇襲はそこで終わりだった。追撃しようと振り返ったところで、彼は再びカチェートによって地面に組み伏せられていた。どんな体術を使われたのかもわからない。暴れるも、この若く有能な刑事に二度の隙はなかった。
「ふ、ふん、まるで獣だな。脅かしやがって……」小倉がネクタイを締め直しながら言う。
「小倉っ、お前だけは絶対に許さないっ。貴様ごときが軽々しく姉さんのことを口にしやがって!」
どこか病的とも言えるほどの怒り。だが意に介す者はいなかった。カチェートは低い声で言った。「小倉さん、そろそろ……」
小倉は腕時計を一瞥すると、クーリロワに振り返った。
「見ただろう? これがこの男の本性だ。獣だよ、獣。わかったら、君もいい加減夢から覚めたまえ。父上も言っておられたよ。ようやく娘が道楽を止めて、身を落ち着け始めてくれたと」
「あ、あれは道楽なんかじゃ――」
「なら何なんだ?」
答えられないクーリロワに、小倉はとどめをさした。
「聖女か……ふんっ、馬鹿らしい。あれから何年も経っているのに、まだ同じことを言うのか。いいかねクーリロワ君、身を固めなさい。世界がどうだと言う前に、自分にできることをしなさい。それを長官も望んでおられる」
クーリロワは小倉を睨む。睨みながら、立ち尽くす。




