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ミネラルウォーター、果実絞りのジュース、乳酸飲料に炭酸飲料、アルコールとカフェインはなし。二階ロビーにある売店の裏、重いダンボールを一通り積み上げると、赤鼻は彼のあだ名――あるいは蔑称――の言われでもある赤い鷲鼻をぐしぐしと擦り、日ごろの愛顧に対する礼を早口に呟いた。そして携帯型の端末で伝票を打ち出し、サインをした控えを差し出すが、赤毛の中年女性は彼の方を見ようともせず、二人の間を国境の如く遮るカウンターの上を指で叩いた。爪は短く切り、手はきちんと洗っているが、それでも彼に触れたくないのだろう。赤鼻は控えの伝票をそこに置くと、もう一度、会社の決まりでもある「当配送グループを毎度ご利用ありがとうございます」の意を伝え、空になった台車と共に病院地下の駐車場へ戻った。
赤鼻は自分が世間一般の評価と照らし合わせて気持ち悪いと思われる人間であることを知っている。肛門に爆発物を抱えているかのような切羽詰った喋り方、櫛を拒む針金の髪、干したレーズンそっくりの目、色の悪い唇に、“王族に連なる血筋”と影で皮肉られた青い肌。そして極めつけはなにより、赤い斑点を乗せた大きな鷲鼻。それは汚染地帯の住民に見られる皮膚の発疹に似ているのだった。一部の用心深い――というよりは迷信深い人々は、触れることで感染すると、今でも固く信じているようだった。どういうわけか、それは年配者に多い。
駐車場に止めた会社のワゴンの運転席には、長髪の同僚が両足をダッシュボードに乗せてくつろいでいる。赤鼻が戻ってきたことに気付くと伊達男の笑みを浮かべ、制帽をひらひらと振った。赤鼻にも分け隔てなく接することができる数少ない人間のひとりだが、たまに物分りが悪いのが欠点だった。一度赤鼻は、飲料配達専門の会社なのにコーヒーや紅茶を運ぶのはおかしいと言ったことがある。すでに煮出してボトルに詰めたものならよいが、豆や粉末、パックはあくまで固形物だからだ。しかしそのことを伝えると同僚は、普段はお喋りなくせに急に押し黙り、完璧な無表情で赤鼻を見つめ返したのだった。人は電球が喋ったり、蝶番が空を羽ばたいたりしたときにそんな顔をするべきで、パートナーがまっとうな意見を口にしたときにはせめて会話を続ける努力をするべきだ。
「なあ赤鼻、あと何件だっけ?」
十二件、と赤鼻は台車を片付けながら答えた。まじかよ、と同僚は呟き、ったくたまんねぇな、といつもの台詞で締める。
「ちょっと休憩しようぜ。こんなんじゃ体もたねぇよ。ほら、お前だって疲れてるだろ?」
助手席に乗り込み、赤鼻は考える。確かに今日はずっと走り回っている。少しばかり体を休めたって、ばちは当たらないだろう。赤鼻が頷くのを見ると、よしきた、と同僚はアクセルを踏み込んだ。どこに行くのか知らないが、きっといつものように洒落た喫茶店などを見つけてあるのだろう。こういうところは付き合っている女の子と来るべきなんじゃないのかと言ったことがあるが、当の本人はきょとんとした反応で、気にしたこともなかったようだった。性善説というのは、こういう人種を見た人間が考え付いたのではないかと、そのとき赤鼻は本気で考えたものだ。
ナトリウムランプが照らす薄暗い地下三階から、上り坂をぐるぐる回って地上階へ。同僚はブラウンの長髪をかきあげ、ご機嫌に鼻歌なんかを歌っている。病院の暗い股ぐらから抜け出して敷地内の裏手、マツやブナに囲まれた舗装路に出ると、白く霞んだ太陽と青空が迎える。鼻歌を歌いたくなる気持ちも、わからないでもなかった。植樹された木々が皆一様に、白く枯れていることに目をつぶれば。
「ありゃ? あの子もしかして」同僚が前方を、目を細めて見つめる。視力が悪いのだ。「ああ、やっぱり。前に遊んだ子だな」
赤鼻がつられて目をやると、木々を縫う歩行路に、紺のカーディガンを羽織った女性の看護師と、黒のダッフルコートを着た幼い少女がこちら向きに並んで歩いていた。赤鼻がどちらと遊んだのかと大真面目に聞くと、同僚は笑って、
「決まってるだろ、看護婦さんだよ」とそこで、ああでも、と付け加える。「そっちのちっちゃい女の子もなかなかいいじゃん。一〇年後を考えて唾つけとくか」
と冗談とも本気ともわからぬ口調で言う。そして二人の横にワゴンを停車すると、人懐っこい笑顔を向けて、よお久しぶりじゃん元気だったかい相変わらず美人だねところでそのカワイイお嬢ちゃんは誰なのなんかお似合いの姉妹って感じだね、とそんな旨を、流れるように言う。看護婦は一瞬不審そうな表情を向けたものの、すぐに誰かわかったのか、同じように笑顔を返す。そうして赤鼻には決して縁のない、大人の男と女のウィット溢れる会話とやらが繰り広げられる。こんなのは慣れているし居心地が悪いというわけではないが、なんとなく蚊帳の外に置かれて、ぼんやりと周囲に視線をさまよわせてみる。
色褪せた芝、幹から枯れた広葉樹、石を積んだ敷地の塀……しかし最後には、どうしても気になって少女を見てしまう。長い黒髪の少女。病院の影が斜めに走り、ちょうど彼らと、一歩引いた位置にいる少女を区切っていた。暗がりにいるのは少女だ。しかし赤鼻にはそれだけには思えなかった。彼女にはどこか……どこかそう、影を集めたような暗い雰囲気があった。容姿は同僚が言ったように可愛らしい。実際、はっとするほどで、幼いが美人になることははっきりと見て取れる。しかしそういった良い驚きというか、感嘆は少女の目つきによって、ぞっとしたものに変わるようだった。
そうだ、と赤鼻は思った。俺は心のどこかで、こんな小さな子供を怖がっている。幽玄とか薄幸とかそんなものじゃなくて、正直、薄気味悪いと感じている……。
前触れもなく少女が顔を上げ、赤鼻を見る。目が合った。その瞬間赤鼻は理由のわからない恐怖に襲われた。一度でも日に当たったことがあるのかと疑問に思わせるほど、病的に白く透き通った肌、茫洋と佇み、彼の思考を全て見透かすかのような目つき――少女の発する全ての雰囲気が恐ろしいと思った。早くここから立ち去りたいと思った。この子はどこか普通じゃない――すると同僚はなにか感じ取ったのか、赤鼻を振り返り、
「ああ、ごめんな赤鼻。早く休憩取りたいってときに話し込んじゃって。……行くか?」
赤鼻は一も二もなく頷く。同僚はわりぃわりぃと言いながら、看護師と少女、順に気障な台詞で別れを告げた。ワゴンが病院敷地、出入り口のセキュリティを通過してしばらく走っても、赤鼻は口を聞かなかった。少女に対してもそうだし、そう感じてしまった自分にもショックを受けていた。それを同僚は自分に腹を立ててると思ったのだろう、気を遣うように、さっきの会話を教える。
「センセイに内緒で散歩してたんだってさ。あの子、今日でもう三日もここにいるらしいぜ。俺の将来の彼女になにがあったかわかんねぇけど、落ち込んでる感じだったもんなぁ」
落ち込んでいる? あれが? 同僚にも看護婦にも、そうとしか見えなかったのだろうか……?
「でもあのぬいぐるみ、なんだろうな? 看護婦さんにも何の動物かわかんないんだってよ。教えてくれないんだと」
果たしてぬいぐるみなんて持っていただろうか……。同僚がからかっているのかと勘繰ってしまうほど、赤鼻は印象になかった。どうやら、それほどまでに動転していたらしい。
「なぁ、赤鼻はどう思う? もしかしてあの子、事件の子かなぁ? さすがに詳しいことはぼかされちゃったけどよ、ちょうど三日前ってことはさ、ニュースで騒いでた襲撃事件とぴったり一致するじゃん。それに八歳? 九歳だっけ? 年齢もそれくらいに見えるし。でもまぁ、んなわけないか。“奇跡の男”とか何とか、正直胡散臭い記事だったしなぁ」
しかし相変わらず己の思考にどっぷりと浸かったまま、赤鼻はろくに反応しない。そんな彼を見て、同僚はやきもきした様子を見せる。
「おい、機嫌直せよ、ちょっと世間話してただけだろ? 別にあてつけとかそんなんじゃないんだって。怒るんなよ、飯おごるからさ。パートナーと喧嘩なんてしても、仕事つまんなくなるだけじゃん。お前のことは友達だとも思ってんだから。な?」
もしかすると半分は、赤鼻をなだめるために大げさに言ったのかもしれない。対人能力に優れた人種は、たまにこうしたテクニックを使うものだ。しかし、“友達”と人からはっきり言われたのは初めてのことで、赤鼻はそれまでの悶々とした気持ちが吹き飛んで行くのを感じていた。その表情の変化を同僚は鋭く嗅ぎ取ったらしく、にやりと笑う。まるで、我らの友情は一食のコーヒー付きサンドイッチ&スープセットか、それとも同じくコーヒー付きバナナホットケーキのバニラアイスクリーム添えによってとりなされたのだと言うかのように。赤鼻がぎこちない笑みを返すと、ちょうど前方の信号が赤になって、車はブレーキをかけた。赤鼻は、先ほどからこの車がどこに向かっているのか尋ねた。
「ああ、実は俺も場所よく覚えてないんだよな、前に看板だけ見かけた喫茶店。病院から海側の道路に出て、割と近くだったはずだから、ここらへんなのは確かなんだ。無人給油所があったような気もするんだけど……赤鼻、見えるか? お前、視力いいだろ?」
赤鼻は冷静に、同僚の視力が悪いだけだと指摘しながら、周囲を見渡した。左手には湾岸沿いの通りに面した商業施設がこまごまと並び、右手には店がなくて海がある。ただ、海といっても、ここからまず見えるのは上部に鉄条網を巻きつけたフェンスだ。内側には老朽化した大型倉庫やクレーンの残骸、廃線となったカーゴ運搬用モノレールの錆び付いたラインがふくれっ面で鎮座しており、使用済みになったもの特有の、恨みがましさと物悲しさが入り混じった雰囲気を漂わせている。当然ひとけはなく、再開発中の西側に対し、東にあたるこちら側はほとんど放棄されたようだ。
しかし、視線を戻しかけたところで赤鼻の目は、赤茶色の倉庫とクレーンの間に人影を見つけた。フェンス越しで遮られている上、かなり距離があってはっきりとはわからない。全身黒ずくめの服装に見えるが、もし作業服だとすると奇妙だ。普通はもっと目立つ色を着るものだ。たとえば赤鼻と同僚みたいな、薄緑の制服。
「あっ、あれだあれ」そうやって遠くをじっと見つめていると、急に同僚が大声を出した。赤鼻は振り返る。同僚は前方を指差していた。「ごめん赤鼻、給油所じゃなくて洗車場だった。ほら、あのカーショップっぽいところの手前、そうだろ? 洗車場だよな? あそこを内側に入るんだよ」
信号が青になり、車の列がのろのろと動き出す。赤鼻はもう一度フェンスの方を振り返ってみた。しかしもう、あの人影は見つからなかった。どこか未練がましく視線をうろつかせながら、なぜだか急に、思い出したことがあった。――そういえば、襲撃犯のひとりはまだ捕まっていなかったはずだ。《依然逃亡中》と、新聞に大きく出ていたような気がする……。
しかし彼自身、自分がなぜそんなことを思い出しているのか、よくわからなかった。脳のシナプスとやらが、電気信号のやり取りでエラーを起こしたのだろうか? プロのスポーツ選手でも信じられないようなエラーをすることがあるのだから、運動神経ゼロの自分の脳が似たようなミスを犯しても不思議ではない……そう思うべきなのだろうか?
ともあれ、赤鼻はこれが杞憂だとわかっている。そもそもあの人影は、作業員のひとりに決まっているのだ。襲撃者を連想するなんて、馬鹿らしい。きっと安全点検かなにかで来た管理会社の人間だ。なにせ頭には、ヘルメットのようなものを被っていたのだから。
そんなことより目下の問題は別にある。
サンドイッチか、ホットケーキか。悩みどころだが、どちらにせよ、コーヒーはやめて紅茶にしてもらおう。そう考えながら、赤鼻はぐしぐしと鼻をこする。




