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「忘れてはいけないのは」
と社会人類学者は言う。
「PMC――民間軍事会社が《窓》の枠を超えて一般化し、各地で紛争が激化したのはここ数十年の話だということです。激減した世界人口の中で、更にお互いを喰い争うこの行為は、長らく議論の的になってきました。議論を支えるモデル――それらの多くは、軍隊を理想的な消費者と捉え、経済活動の観点から語ったものです。しかし、私たちの主張は違います。私たちはこれを、“産みの苦しみ”だと考えています」
――どういうことでしょうか。
と女が聞く。
「受け入れがたい考えなのは承知しています。その上で私たちグループは、全体意識というものを仮定しました。先ほど説明したように、自由意志を否定する決定論的意識構造として、ボトムアップ、トップダウン、ループ方式の三種を仮定した際、必然的に現れる存在です。私たちの主張というのは――多少オカルトじみていますが――その全体意識に、《動的な意志》があるのではないか、というものです」
――動的な意志、ですか。それはまた……。どのような特性を持ったものだとお考えに?
「もちろん、最終的な自己保存への志向性です。“最終的な”と言うのは一見そうは思えないためです。《窓》をはじめとする、この激化する紛争への流れが全体意識に肯定されたものとして、なぜそれが自己保存に繋がるのか? つまるところ争いは殺し合いです。どうしても自己保存の概念と矛盾しているように見える。ですが、争いそれ自体が、人類を進化させる手段と考えれば、そうおかしいものではありません。考えてみれば生存とは闘争です。そしてこの闘争とは自発的な――個々のレベルでは決して認識することのできない――淘汰と言ってもいいでしょう。《動的な意志》は人類種の閉塞を察知し、自らを何らかのブレイクスルーを発生させる状況に、つまり直接的な闘争の場に置こうと試みている ……PMCが活発化し、紛争が増えている原因を私たちはこう捉えています」
――理解には、想像力が必要なようですが。
「ええ、おっしゃることはわかります。では切り口を変えてみましょう。簡単のため、世界が一種類の原子からなっていると考えてみてください。いわゆる思考実験ですね。このとき、あらゆる物質、生物、人間含め、一種類の原子から成り立っていることになります。しかしここで一つの疑問が生じます。“私”の意識は何故起きるのでしょうか? この仮想では、脳という器官は、局所的に粒子群の濃度が濃いだけの空間にしか過ぎません。にも関わらず、その空間には“私”がいます。単一の粒子を仮定したことがまずかったのでしょうか? では二種類なら? 三種類なら? 結果は同じです。意識とはなにか誰も答えられず、クオリア発生の糸口さえ掴められない。脳信号のやりとりが、どうして自分という認識を生むに至るのか、誰にもわからない。最先端の科学を持ってしても、です。ならば人間という、情報の集合体の振る舞いに顕現する、マクロレベルでの統一性というのは、粒子群の世界において、何らかのクオリアを――もっと突き詰めていえば、意識を持っているのではないでしょうか?」
――なるほど、それが先の“聖女の噂”のお話に繋がるのですね。
「ええ。早合点は禁物ですが、主張を裏付けるものとして、更なる調査が期待されていますね。面白いのは世界中のさまざまな土地――言語も文化も異なる環境ですよ――で同じような噂が育っている、という事実です。また、興味深いことに、この聖女信仰とでも呼べる噂は、汚染地帯の人々にのみ広まっているのです」
――汚染地帯の少なくない場所で、外界から隔絶されているケースがあります。こういった閉塞した空間での原始的宗教とは違うのでしょうか?
「一線を画します。その認識では、どうしてまともな通信手段を持たない彼らが、海を越えた先の汚染地帯の住民と、新しい信仰のあり方についてシンクロできるのか、という疑問を説明できません。また、どうやら彼らの言う聖女とは、実体を持った人間、それもおそらく絶対神のように単一ではない存在らしいのです。私たちグループは聖女信仰を《動的な意志》の顕現――新たな人類精神の萌芽ではないかと考えています。うまく調査が進めば、全体意識を解き明かす鍵になる可能性が……」
ぎぃ、とベッドが軋む。
「……皮肉……ですね」
かすれた声で山葉がそう言うと、傍らでテレビ画面に集中していた三〇代中頃の男が、白衣を翻して振り返る。
「山葉君」
「学者さえ、こんなオカルト紛いの話しか出来ないでいるなんて……」
眼鏡の奥、男は目をぱちぱちとさせると、ほっとしたように微笑を浮かべた。
「ああ、目を覚ましていたんだね」
「ついさっき、ですが……」
唾液が溶けた水飴のように重く舌に絡みつき、呂律がうまく回らない。男は山葉のそんな様子を見ると、テレビを消した。座っていたパイプ椅子を滑らせ、ベッドの上、山葉の顔を覗き込んだ。
「気分は? 医者を呼ぶかい?」
「いえ、今は……」
霞がかったような感覚。心地よいまどろみが全身を支配していた。彼はライトブルーの検診着に着替えさせられていた。
「入間先生、俺は、どのくらいここに……」
「今は正午過ぎだ。君が病院に運び込まれたのは二日前の深夜だから、実質三日も経っていない。まだぼんやりするだろうが、それは鎮痛剤の影響だ。今刺さっているのは増血剤と栄養剤の混合パックだけどね」ほら、と入間が指で山葉の腕を指す。点滴の針が刺してあった。透明なチューブは傍らのスタンドに吊り下げられた点滴袋に繋がっている。「実は昨日の夕方頃にも君は目を覚ましたんだが、覚えていないだろう? その怪我のせいで傍から見て可哀そうになるくらい呻いていたし……」
「いえ……わかりません」
だろうね、と入間は眼鏡を外し、レンズを袖で拭いた。ふぅっと息をつく。
「とにかく、無事でよかったよ。君が最後に心療科の階を訪ねてから、もう二ヶ月以上になるか。確かに僕は記憶を取り戻す役には立てなかったが――でも、君がどうしているか、心配していたよ」
「すみません」
目が合うと入間は表情を緩めた。人柄の良さが滲み出た、警戒を解く笑みだ。
「今回も君は生き抜いた。そして、立派なことをした」
俺はなにも、と言いかけたところで山葉は思い出す。
「そうだ、彼女は――あの少女はどうなったんですか?」
「落ち着きなさい」急に起き上がろうとした彼を入間がとどめる。「ツォエのことだろう? 彼女は無事だ。君が助けたんだ」
「ツォエ……?」
「あの少女の名前だよ。僕が心理ケアの担当をすることになったんだ」入間はおもむろに手を伸ばすと、ベッドサイドのテーブルに広げてあった新聞紙を手に取った。「一面の記事にもなっている。事件のあらましなら、ほら、読んでみるといい」
山葉は受け取ろうとしなかった。代わりに問いを投げかける。
「どうして記事になったんですか?」
彼の反応に、入間は訝しげな表情をした。
「そんなの決まってるだろう? 君は子供を救ったヒーローなんだ」そう言って半ば強引に、山葉に新聞を握らせる。「見出しだけでいい、目を通してみなさい」
(ヒーロー? 誰が……?)
まどろみはすでに消え去っていた。あるのは四肢を硬く強張らせ、冷たい汗を滲ませる緊張感だった。山葉は恐る恐る目を落とした。一面の最上段を占める太字を、ゆっくりと、声に出して読み上げる。
「――“奇跡の男、武装強盗から少女を救う”」
山葉は顔を上げた。
「奇跡の……? 先生、これは……」
「君が空爆の生存者だと、彼らは知っているんだ。記事の最後の方に書いてある。今まで君の名前はメディアに露出しなかったし、どうやって調べたのかわからないが……」
(運転手だ)
車内でした会話を思い出す。山葉が生存者だと知った途端、崇めるような態度を取ったことも。山葉としては、あんな反応をするとは思わなかったのだ。軽率だったと今になって思う。それとも心のどこかで、特別視されたい願望があったのだろうか。何気ない調子を装いながら誇示して――自分はお前ら一般人、“弱小労働者”とは違うのだ、と。
とびきり酸っぱいレモンを噛んだかのように、山葉の眉間に皺が寄る。その反応に不思議そうな視線を投げかける入間を無視し、山葉は紙面に顔を寄せた。そして、事件の記事を舐めるように読んだ。
『国際的なチャリティでも大口の支援者として著名な夫妻とその使用人が未明、武装した三人組に殺害され……』
『犯人の目的は未だ不明だが、金銭目的の犯行と警察は見ており……』
『駆けつけた警備員が九歳の少女を保護したものの、少女はわずか二ヶ月前に夫婦の養子となったばかりで……』
疑問がひとつ解ける。あの難民の少女――ツォエは養子になったから屋敷にいたのだ。更に読み進めていくと、山葉が前歴と共に、どれだけ優秀な警備員なのかということが、また、侵入者と戦いツォエを保護するまでの経緯が、誇張を交え、見出しに劣らぬ大仰な言いで書かれていることがわかった。スーリヤについては一言も触れられていない。ツォエが保護対象に含まれていなかったことも、当然のように無視されている。
「山葉君、クライアント夫婦の件は残念だったね。それから、君の同僚のことも。だけど君は、普通の人ならとてもできないような――」
「利用したんだ」
指に力がこもる。紙面が皺に歪む。
「山葉君?」
山葉は新聞をぐしゃぐしゃに丸めた。
「あいつら、この事件を広告として使ったんだ」警備会社としては名を売るまたとないチャンスだ。褒め称えられているようで、しかし記事の中心にいるのは山葉ではない。「“奇跡の男”だって? 俺がヒーローだって? はっ、ふざけてるよ」
「そんな悪いように取るんじゃない」宥めるような口調で入間が言う。「僕はもう少し考えて喋るべきだったな……すまない。だけど、君が素晴らしい行いをしたのは事実だ。空爆の最終調査報告の発表が近いと聞いて、皆、万が一の事態を考えて不安になってる。こういうニュースも必要なんだ。ヒーローという言い方は嫌かもしれないが――」
「俺は違うっ」
「山葉君」
「俺は、」山葉はそこで俯いた。やり場のない怒りは薄れ、惨めな思いが残った。「違うんだ……。ヒーローだなんて、そんなんじゃ……」
入間は無言で屈むと、紙礫となった新聞紙を拾い上げた。皺を丁寧に伸ばしていく。
「君が自分のことをどう思っていても、君に感謝している人はいる」
「感謝している人? ああなるほど、大々的に宣伝広告を打つきっかけを与えましたからね」
「ツォエを救っただけじゃ不満なのか?」
その言葉に山葉は押し黙った。
「……彼女は今、辛い状態にある。一夜にして両親を失ったというだけじゃない。養子とはいえ、ツォエは両親の莫大な財産を相続する権利を得た。誰が彼女の後見人になるかで、親族中で揉めているらしい。昨日も彼女の叔父夫婦を名乗る男女が訪ねてきたよ。治療を理由に帰ってもらったがね」そこで大きく溜息をついた。「ツォエがどういう経緯であの夫婦に引き取られたのかわからない――どんなバックグラウンドがあるのかも。それは引き取り手にだけ開示される情報だからね。ただ、断片的な情報を繋ぎ合わせてわかったのは、彼女はおそらく汚染地域の出身だということだ。初等教育さえ受けてないだろう。知識の幅があまりに狭い」
山葉は気付いた。ツォエが空爆のもう一人の生存者だとは、入間も知らないのだ。おそらくその事実に加え、彼女の顔と名前が一致した状態で知っているのは山葉と、空爆後の彼女を診察した別の病院の医者くらいなのだろう。
「それで、先生はなにが言いたいんですか?」
「彼女に会ってほしい。会って、話をしてほしい」
自分を包む膜にひびが入ったような錯覚を覚えた。鎮静剤の鎮静作用もどこへやら、一挙に動悸が高まり、まるで、肺の裏側に爆弾を抱えたよう。
「……俺にカウンセリングの真似事をしろと?」
「それもいいかもしれないね。会って欲しいと言ったのは、君がツォエの妄想を解く鍵になるかもしれないと思ったからだ」
「妄想?」
山葉が怪訝な口ぶりで繰り返すと、入間は皺だらけの記事に目を落とした。
「犯人の一人が逃走中なのは読んだかい? 二階の窓から落下した後、自力で逃げ出したらしい。まぁ、前後のいきさつについては君が一番詳しいはずだ。別の記事には、君が犯人を窓から投げ飛ばしたんだろうと書いてあったが」
「ええ、その通りです。ですが、それがどうしたと言うんですか?」
「言いにくいことだが……その犯人を、ツォエはお母さんと呼んでいるんだ」
入間の台詞は信じがたいものだった。
「生まれ変わったと、彼女はそう言っていたよ」
「そんな、馬鹿な」
「そう、馬鹿げている。だけどツォエにとって現実との整合性なんて“目”じゃないんだ」
どうして、と言い掛けて、答えを自分の中に持っていることに彼は気付いた。
(彼女はまだ、子供なんだ)
飢餓と病の轍を辿り、古代の高山街道の果て、火の海を見た。義理の家族を得て、失い、血の海を見た。たかだか九歳の少女が対峙する運命として、それらはあまりに過酷だった。幻想を漂うことが救いならば、幼稚な防衛本能は率先して馬鹿げたフィクションの信奉者となる。
(俺だって同じだった)
いつだって思い出していた。姉は微笑みを絶やさなかった。旋風の軽やかさを持って、枯れた大地を愛し、駆け回った。山葉の手を握り締める彼女の掌は熱く、かすかに汗ばんでいた。それすらも心地いいと思った。彼女は美しく、愛情に溢れていて……。
「――そういった理由から、警察に捜査協力はしていない。なにか証言するとなれば、それは筋道だってなければならない。妄想の矛盾点を突かれた際のツォエの反応が予測出来ないんだ。それに、彼らは野蛮だよ。僕はその場にいなかったが、昨晩も君を薬で眠らせる前に、逆に無理にでも起こして事件の話をさせろと言ったらしい。ふざけていると思わないか? 一人が逃走中とはいえ、事件は終幕を見たんだ」
終幕という言葉に山葉は違和感を覚える。自分が重要な事実を見落としているような気がしていた。絶対に忘れてはいけないことを忘れてしまった――そんな不快感。
(だけど、なにを……?)
「山葉君、大丈夫かい?」静かになった山葉を見て、入間は疲れていると思ったようだ。「喋りすぎたね」とすまなそうな表情で言うと、立ち上がった。「こんな気遣いの出来ない人間が精神科医だなんて、悪い冗談みたいだろう? もう退散するよ。“本物”の医者を呼んでくる。昔からの腐れ縁でね、最高の治療を約束させる」
礼を言おうとしたとき、山葉の視線はベッドサイドのテーブルの上に留まった。淡い水色の花瓶。そこには、色とりどりの花が生けられていた。踵を返そうとした入間が、ああ、と声を上げる。
「言いそびれる所だったな。その花だろう? 君の上司だという女性が持ってきたんだ」
「上司の女性……?」
「そうだけど、心当たりないのかい? 確かにそう言っていたよ。僕と入れ違いで病室を出て行ったが――つい二〇分ほど前のことだ。きれいな人だったよ、ぞっとするほどね。女性とすれ違った後に振り返ったのは、初めての経験だったな」
彼は起き上がった。誰のことかわかったのだ。
「彼女は今どこに?」
入間は首を振った。「軽く挨拶を交わした程度だから……ああ、でも昇りの中央エレベータに乗ったのが見えたから、もしかしたら屋上で外の空気でも吸っているのかもしれない。寒気団が入ってきて夕方から荒れてくるらしいけど、まだいい天気だからね」
また来るよ、と言い残して入間が去ると、山葉は点滴の針を抜き、身を起こした。体中の関節がぎちぎちと悲鳴を上げる。傷は痛むというより熱を持っていた。スリッパはベッドの下にあった。まだ鎮痛剤が効いていることに感謝して、彼はそろそろと立ち上がった。
《氷の女王》に会ったとして、自分がなにを話すつもりなのか、彼自身見当もつかなかった。しかし違和感の正体には気付いていた。
つまり、自分がなにを見落としていたのか。
熱源監視センサー。通信が途中で切れたために、忘れていたのだ。彼女は寝室で起きた一部始終を目にしているはずだった。彼がクローゼットに向けて発砲する瞬間も。凶器を隠蔽しようとする、あの滑稽な工作も。
嘘を嘘で、罪を罪で隠すなら、山葉は彼女を殺さなければならなかった。




