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ブルネットは小さな悲鳴を上げると、両手を口に当てて椅子から立ち上がり、聞き取れない言葉を数語呟いた。そして、腰が抜けたかのように、冷たいフロアタイルの上にぺったりとしゃがみ込んだ。顔は蒼白で、呼吸には過呼吸の兆候が見られた。
これ以上の作業は無理だとクーリロワは判断すると、自席でアルミ精錬所の監視に戻らせていた保母を呼び戻し、今度こそ医務室に連れて行かせた。ただでさえスーリヤの死にショックを受けていたのだ、これ以上スクリーンと向き合っていたら、おそらく気を失っていただろう。それくらい目の前で繰り広げられる映像は刺激が強すぎたし、また、残酷すぎた。
災害用熱源監視センサーは各部屋の天井、中央部に取り付けられており、さながら雲海から地上を見下ろす神のように、三六〇度の俯瞰視点が得られた。コンピューターに搭載された強力なミリタリーチップのおかげで、ほぼリアルタイムで熱情報を映像化できているが、もし仮に今変換を止めたなら、スクリーンに映るのは、三十六℃の液体が噴火したマグマのように人の頚部から溢れ出し、室温と同化していく映像だっただろう。
とはいえブルネットだけではなかった。ショックを受けているのはクーリロワも同じだった。しかしそれは映像の残酷さのためだけではない、それが引き起こされた過程についてもだ。
神の視点を得て、彼女は山葉よりも多少、状況を把握できていた。あの小柄な敵は異常と言う他なかった。まるで、自分を狙ったPBAの弾丸がどこに飛んでくるか、最初から知っているようだった。クーリロワにはとても、手首の動きから弾道を予測してとか、そんなレベルには見えなかった――身を軽く捻っただけで銃弾をかわして、指揮棒を振るような優雅さでナイフを一閃。直後、二人の襲撃者は血煙に沈み、遅れて、真っ二つに切断された二丁のPBAが床に転がった。仕掛けはないが、種は命の手品。
「クーリロワ……?」と山葉が言う。
なにか言わなければならない。オペレーターは警備員に的確な指示を出さなければならない。しかし喉から漏れるのは枯葉が地を這うような音だった。自分が自分の想像以上に深く取り乱していることに、今頃気付く。仕方ないじゃない、と彼女は心の内で呟く。こんな状況、誰に予想できた? 襲撃者同士で殺し合い、しかも生き残ったのが化け物みたいな奴だなんて。
「見ているか……?」と山葉が言う。
見ているに決まっている。山葉の言い方はまるで、指示を早くよこせと急かしているようだ。だけど今更指示を求めて何の意味があるというのだろう。この敵は危険すぎる。山葉だってどうするべきかわかっているはずだ。撤退だ。なのにGPSマーカーの光点は微動だにせず、無音の点滅で彼女の脇腹をつつく。
ごくり、とクーリロワは鉄臭くなった唾を飲み込む。さあ、言うのだ。ここは引くべきタイミングだ。個人の裁量に委ねられる部分が多いとはいえ、オペレーター用の分厚いマニュアルを紐解けば、同じ結論が無機質な文体で語られているはずだ。救出するはずだった男性クライアントだって撃たれて――
「ただちに手当てすれば助かるかもしれません」
なにを……私はなにを言っている?
「そこからではわからないかもしれませんが、FAはまだ生きています」
違う、もう無駄だ。確かに彼はまだ生きている。深い夢を見ている人のように力なく動く手足を、センサーは捉えている。だがおそらく助からない。プラズマ加速された弾丸は、命中した瞬間に体内で砕け、ダムダム弾の如く内臓を食い荒らしている。どてっ腹に大穴が空き、クライアントは今、苦痛もない、夢現の世界で死を待つばかりだ。
「怖いのですか?」
自分のものとは思えない、挑発するような口調が更に続ける。山葉は黙っていた。しかしサブモニターに目をやると、バイタルに急激な変化が見られた。
すごく怖がっている、私がなにをほのめかしているか、理解している……。
ということは、ようやく身の程がわかったのだ。無言なのは、体裁を取り繕う算段をしているからだ。さあ、言い訳の時間だ。とっくり聞いてやろう。これが最後のチャンスだ。私はこれ以上優しくなるつもりはない。これ以上のエリート様に甘くなるつもりはない。慈悲を乗せた銀皿を払い落としたのは、そちらなのだから。
しかし山葉の口から出た言葉は、またも彼女を裏切った。
「いや」
短い一言。しかし意志は明白だった。怖くないと言っているのだ。クーリロワの唇が、わなわなと震え出す。爪が掌に食い込んだ。この……この、嘘つきめ。さっきもそうだった。両耳をわしづかみにされ、宙吊りになった兎みたいに怯えているくせに、かっこだけつけようとする。逃げ出したいのはお見通しなのだ。バイタルがどんな数値を示しているか、私が知らないとでも思っているのだろうか? 脈拍はべそをかき、血圧は親指をしゃぶり、呼吸はがたがたと震え、体温は頭を掻きむしっている。
彼女はGPSマーカーを睨みつけた。そして、自分の声をした、別の人間が喋る。
「では制圧しなさい」
引け。
「愚かな同士討ちによって、敵はひとりとなりました。これはチャンスです」
引きなさい。
「見たところ、敵の装備はあのナイフだけです。明らかにこちらが有利です。それにあなたは、大怪我を負ったクライアントをまさかここで、」
わかるでしょう、あなたの負けよ。だから引くの。
「見捨てるような人間ではないでしょう? 急ぎなさい。敵を制圧するのです。女性クライアントを探すのもその後の方が確実です。もし異論が、」
なんで無言なのよっ、ほら、言い訳しなさいよ、引け、その通りにさせてあげるからっ。
「――異論があるならどうぞ、PP―2」
しかし沈黙のうちに、山葉は覚悟を決めていた。バイタルサインは少しずつ落ち着きを取り戻していた。そして彼は静かな声で、「了解した」と言った。
(なに……なんなのよこいつっ……)
クーリロワは指の腹を噛んだ。噛みすぎて、いつの間にか血が滲んでいた。
息を吸う音が聞こえ、マーカーが動き出す。映像に、山葉の影が現われる。
「ま、待っ――」
遅すぎた。賽は投げられた。投げたのは彼女だった。
山葉は奪い取ったPBAを構えながら手首の物理キーに触れ、音声の出力を外部スピーカに変更した。拡張された声が室内に響く。
「銃を向けているっ、妙な動きはするな、両手を頭の後ろで組んで膝を着け!」
フルフェイスシールドを被った敵は、こちらに背中を向けたまま、振り返りもしない。どこを見ているのか。なにを考えているのか。敵の正面に位置するのは幅広のウォークイン・クローゼットだ。片側だけが僅かに開いていて、暗闇の中、透明なカバーにかけられ、ハンガーにかかったパーティ用ドレスが白っぽく浮かびあがっている。
「おい、耳がないのか? 言われたとおりにしろっ。こちらは銃を向けている、PBAだ。両手を上げて……」
彼は奥歯を噛んだ。自分の声がかすかに震えているのが気に入らない。しかしそれを正す時間は与えられなかった。敵は無造作に振り返ったかと思うと、突然飛び込んできた。滑空していると錯覚させるほどの速度だ。五メートル以上あった彼我の距離が、一瞬にしてゼロになる。照準がまるで追いつかない。闇雲に放った弾丸は、やすやすとかわされ、プラズマの青い尾を残し、クローゼットに穴を穿つ。
圧縮された時間の中で、山葉の目はナイフを握った敵の腕が、ぎゅっと引き絞られているのを見る。それこそまさに弾丸なのだった。空気を切り、白銀が走る。やられる。そう思うと同時、視界の片隅に、殺された襲撃者の姿がよぎった。血の泡を吹き、あえぎ、最後には痙攣し――
(首が)
それ以上なにも考えなかった。山葉は銃を自分の首元に当てながら、全力で上体を反らす。直後、切断された銃身が、宙を舞う。威力を殺がれた刃は、フルフェイスシールドと強化服を繋ぐ、頸部の連結固定具にめり込んでいた。一瞬遅れて熱を感じる。回転転を上げるエンジンのような高音と共に、めり込んだ部分から大量の火花が生まれていた。
冷や汗がどっと出る。このナイフは微細振動型だ。障害物除去に特化した、軍事利用のナイフ。本来は事故や攻撃で、車両など鉄の箱に閉じ込められた兵士が脱出するための道具なのだ。格闘戦で使うなんて聞いたことがなかった。
刃から伝わる不可視の振動は毒針を持つ蜂の羽音だった。獰猛な性質のなすがまま、連結固定具の錬鋼ワイヤに噛み付き、切り裂こうとしている。山葉は首を捻り、空いた手で敵の手首を払う。バックステップで距離を取る、スクラップとなったPBAから、ESGに持ち替える。
「ぐっ」
再び、硬質音。銃口を向けると同時、手の中のESGが宙へと弾かれた。部屋の奥、クローゼットの手前に落ちる。そこで敵は動きを止めると、眼前の山葉を見つめた。山葉は動けない。猛獣に睨まれた人間の、自然な反応だった。冷や汗がこめかみを伝う。お互い顔は見えないはずなのに、まるで瞳をじっと射抜かれているような錯覚に陥る。彼の意識を引き戻したのは、エラーアラームの電子音だった。歪めた顔に、憂色が滲む。
やられた。
HMDの隅、《残り一七七秒》と赤い数字がカウントを始めていた。先の一撃で、連結固定具に通されたバッテリーケーブルが切断されたのだ。光量補正が最大の状態だと、フルフェイスシールドの内臓電源では、数分しかもたない。
「……P―2…………無事……なの……」
途切れ途切れのクーリロワの声が聞こえる。
「…………いです……一度…………引……さい…………」
錬鋼ワイヤを伝う振動で、通信か音声回路に異常が生じたのだろう。先の戦闘で、PBAの弾がシールドをかすったのもあるかもしれない。音声はノイズ混じりで、なにを言っているのかほとんど聞き取れない。
(もしかして、一度引けと言っているのか?)
火花が血しぶきにでも見えて、取り乱しているのかもしれない。どうであれ、状況としては確かに引くべきだ。頼みの綱のPBAはあっけなくスクラップにされ、ESGも失った。だけど、と山葉は思う。ここで俺が逃げたら男性クライアントはどうなる? それに、どこかに隠れたという女性クライアントは? なにより、逃げるくらいなら最初、どうして突入を選んだ……?
「…………聞こえ……はや…………撤退を……答して…………」
今度ははっきりと聞き取れた。撤退と言っている。山葉は空の手を握った。
(わかってる、そうするべきなんだ。オペレーターが――責任者がそう言っている、だったらこれは仕方のないことなんだ。俺は逃げるわけじゃない。それに、一度引いて態勢を整えれば、きっとまた……)
しかしどういうわけか、彼の足は絨毯に張り付いたように動かない。義務の桎梏に囚われるなんて、愚かだ。そのために命を落とすなんて、馬鹿らしい。にもかかわらず、意志とは無関係に左手が動き、腰に吊るした電磁警棒に触れる。
(ちくしょう、違うんだ。見捨てるわけじゃない、あのときとは違う。俺は……)
『――お姉ちゃんを助けてくれるんでしょ?』
汚染地帯の一角――埃っぽい、朽ち掛けた木造平屋。
『――男の子だもん、強いものね? 守ってくれるって、約束したじゃない……?』
警察車両のサイレン。怒鳴り声。玄関を破る音。
『――ごめんね、でもやっぱりこうするべきだって、今、わかったの』
彼女の手には、白く光る金属が大事そうに握られていた。
「くそ、くそっ……」
ハンドガードが付いたグリップを握り、ホルダーから引き抜く。幅広で肉厚のそれは、警棒というよりは、先端と刃を潰した剣のようだ。中心は黒塗り、軽量かつ靭性に優れた特殊プラスチック。それを両端から挟むのがレールと呼ばれる、高い電気伝導率と剛性を併せ持つ合金だ。
「……なにをっ…………聞こえ…………援が……すぐに……ま…………戦闘を……停…………なさ……」
クーリロワがなにか言っている。しかし、もう耳に入らなかった。トリガーを引くと、ばちばちと音がして、レールに紫電が絡みつく。全身を冷たい汗が覆っていた。やるしかないのだ。俺は誰も見捨てたりしない――頭の芯が白熱していく。視野狭窄と意識の拡大を同時に感じる。
『――愛してるわ』
それが最期の言葉だった。忘れたことはない。




