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【4章】冷たい人形のほほえみを

(1)――――

 結局、一晩中眠れなかった。

 すっきりとしない頭を二、三度振ってから鏡で顔を見ると、その生気は失せている。 

 目の隈も酷く、いつにも増して自分ではない感覚があった。

「……」

 昨日の話に傷ついているのは確かである。

 死んだあの娘の変わりに、私がいるなんて……

 私って何なんだろうって気分になる。

 そこを深く突き詰めれば、循環的に負の感情が巡ってきそうだ。

「…よし」

 無心で何かしてれば、少しはましになるだろう。恐らくそんな風に割り切ることなんか出来ないだろうけど……

 カーテンを開けて外を見ると、玄関前に注文していた苗が置かれている。

 あの店の人が朝一で持ってきてくれたのだろう。

 でも、誰も指示を出していないのか、裏庭に置かれなかったのは……

 逆に考えればやることが増えると意味で幸いである。

 食欲無いし、疲れ果てるまで苗を植えよう。

 一日中、仕事すれば少しは寝れるかもしれない…

 その時トントンと、背後から扉をノックする音が鳴った。

「ジゼル……ちょっといいかしら」

 振り向くとエリゼさんが入ってくる。

 まだ着替え終わっていないが…何かやることでもあるのだろうか…

 朝に、食堂以外でエリゼさんと合うのは珍しい。

「これを預からせてください」

 エリゼさんは椅子の背もたれに投げ捨てられたエプロンドレスをたたみながら、困ったように半開きのクローゼットの方を指す。

 そこには前にもらった私服が掛けられていた。

「…」

 無言で何が起きているか、悟る私。

 つまりそれに着替えろということだ。

「あれは…彼女の服だったんですね…」

 その言葉にエリゼさんの口元が歪む。

 小さく肯定の頷きが返ってきた。

「…もう…使用人ですらないわけですね、私は」

 私は感情を込めずに言った。

 それに、正直いって…そう思われていたとしても。私の中には感情はなかったのだ。

「今さら……隠し立てしても仕方ないとの…グリフさんからのお言葉です」

 私の口調に同調して、エリゼさんも声の調子を落とす。

「庭の仕事だけはしていいとのことです」

 そして後は、本を読んだりピアノを弾いて過ごせばいいと、エリゼさんは続けた。

「…」

 まずは届いた苗を裏庭に移さなくてはならない。

 本当は誰か人出が欲しいところだったが、私は少し意地にもなっていた。

 半分荷物を下ろし、力に任せて台車を押していく。

 それを二回繰り返し、昨日のお風呂の残り湯を花の苗に掛けてあげる。

 置き場所は…昼間は日陰になる場所を選んだから、簡単に土が乾くこともないだろう。

 淡々と仕事をしていても、ちっとも楽しくなかった。

 少しは癒えるかと思った心も、朝に出鼻をくじかれたみたいでどうしようもない。

 もう少しおしゃれじゃなく…汚しても気にならないような服がないか、明日聞いてから続きをしようと私は道具を放り投げた。

 どうせ時間が自由になるなら日記の続きを読もうと思う。

 あの娘の続きが気になる。

 どういう最期を向かえたにせよ…私にはたぶん知る義務がある……

「ジゼル、ちょっといいかしら」

 振り向くと、エリゼさんが深刻な顔を見せながら立っていた。


(2)――――

「昨日の鍵は覚えてるかしら」

 エリゼさんは館に入るなり切り出した。

 そういえばあの時グリフさんから投げ渡された鍵があったことを私は思い出す。 

 今の今までそれが何を意味しているか、考えなかった。

「あなたに、もう一つ教えなくてはならないことがあります」

「…」

 いつの間にかウィヅさんも、後から私達の方に向かって歩いてきた。  

 私は彼女の様子を見てたじろいだ。まだ夜じゃないのに、顔がほのかに赤い。

「ウィヅさん…飲んでますね」

「……」

 彼女は答えず、私と目も合わせようとしない。

「どうでもいいのよ、そんなこと」

 驚いてエリゼさんの方に顔を向けると、まるで意に介していないようだ。

「では…」

 エリゼさんは重々しく口を開いた。

「もうひとりの住人を紹介します」

 その言葉に顔をハッと上げる私。

 まさか……

 なにか言葉の響きに、かすか期待が浮かんできた。 

 でも…あの娘が生きてるから…何になるんだ…

「ウィヅ…準備はいいかしら」 

「……はい…着替えは…終わっています」

 やっと聞き取れるような小さな声が頭に響く。

 私は手を引かれるまま階段を上がった。

 二階の突き当たりに、その部屋はあった。裏庭を見渡せる側に位置して、グリフさんの部屋の隣りにあるそこは、私には物置と教えられていた。

「では行きましょう」

 その扉が重々しく開かれる。

「奥様のお部屋です」

 カーテン越しに西日が差し込んでいる。 

 もうお昼過ぎていたんだと…私は光に目を細めながらぼんやりと考えていた。

 奥様…あの娘の部屋……

 その時、つんと刺激臭が鼻をついた。

 急に喉元が締め付けられ、吐き気をもよおしてしまった 

 じんわりと目も痛く、涙が浮かんでくる。

 私は何か異変はないかと、恐る恐る辺りを見渡した。

「――!」

 ベッドの上に自分の姿があった。

 私とうり二つの少女が…微動だにせずに横たわっている。

 青白く艶のない肌……

 あまりの驚愕に、足ががたがた震える。

「こちらが前公爵、ノーム・シェラン様です」

 エリゼさんの声が遠くから聞こえてきた。

 頭がくらくらとしている。


挿絵(By みてみん)


「……こ…れ」

 私はゆっくり枕元まで歩くと、その頬に触れてみる。

「ひっ!」

 冷たく…でも柔らかい感触が伝わってくる。

「亡骸の中身を取り出して、保湿と防腐の薬品を染みこませてあります」 

 ……私が振り向くと、ウィヅさんが淡々と呟いていた。

 つまり剥製…ということだ。 

「誰が……これを…」

「あなたもこないだお会いした…グリフさんが連れてきた職人です。

 私と彼も手伝いました」

 なんて…ことを…

 足下が揺らぐ。まるで床が抜けたみたいだ。 

 ウィヅさんがよろめく私の肩を支えた。  

「大丈夫ですか」

 と、彼女の声が遠くから聞こえてくる。歪んでいるような声が―― 

「触らないで…」

 目の前に悪魔がいた。

「…ジゼルさん?」

 そう……善人の心に悪魔が宿る――

 そんな言葉を昔聞いたことがある。私の肩を掴む人も…

「触らないでよ!」

 私は、自分でも呆れるほどの声で叫んでいた。喉が灼けそうなぐらい、熱く痺れていく。

 私に突き飛ばされたウィヅさんは、よろめきながらも何と体勢を整えると、口を開けたまま私を見つめていた。

「ジゼル…さん?」

 なんで、人に…こんなことができるんだろうか?

 感じたことのない恐怖に、全身が震え始めた。

「来ないで!

 触らないで!」

 私がわめいている。

 私の言葉じゃないみたい……なんか…遠くから聞こえる…

 グリフさんは隣にいるはずなのに 物音一つ聞こえてこない……

「いやぁぁぁぁぁぁ」

 気がつくと、私は自分の髪をかきむしっていた。

 自分の服がまとわりつくように身体を締め付ける感覚が襲ってくる。

 ボタンをはじけ飛ばし、私は上着を脱ぎ捨てた。

 とにかく…少しでも自分のカタチを変えないと、壊れてしまいそうだ。 

 パチっ

 乾いたことが骨を伝わり私に届く。

 ウィヅさんは無表情で私を叩いていた。

「……」

 私は糸が切れたかのごとく、力が抜けてしまった。

 腰がくだけるように床にへたり込むと、もうそれから…感情がわき上がってこない。

「静かにしてください 隣でグリフさんが寝ております」

「……」

 何かを言い返そうにも声も出てこない。 

 息が……息の吸い方が分からなくなってしまったのだ。

 ようやくじんわりと痛みがやって来た。

 次に感じるのは、締め付けられるような息苦しさ。

「もういいでしょう」

 焦点の合わぬ目が、私に近付く彼女を捉える。

 腕を引きずるようにウィヅさんから距離を置かれると、エリゼさんは落ち着いて息整えるようにと、私の背中をさすってくれる。

 自分の呼吸の調子が狂ったように乱れている。 

「こん…な…ひど…い……」

 ようやく、洪水のような嗚咽がやって来た。 


(3)――――

 人の身体が暖かいこと初めて知った。

 エリゼさんは私が泣き止むまで、ずっと抱いててくれたらしい。

 エプロンをずいぶんと汚してしまったことに、私は軽い罪悪感を感じてしまった。

 ようやく少し落ち着いて来たので、私はエリゼさんから離れると、自分のハンカチで顔をぬぐう。

「……」

 手の平に残るあの冷たさは、まだ消えそうになかった。

「お腹すいたでしょ」 

 エリゼさんはニコリと笑顔を見せそう言うと、机に向かって立ち上がる。

 …いつの間にか…彼女に手を引かれ、書斎に移っていたらしい……

 机からサンドイッチの皿を取り私に差し出すと、落ち着くまでここにいましょうと部屋に鍵を掛けてしまった。

「味が……しない」

 パン切れさえ重いと言わんばかりに、命令を聞かない私の腕を何とか持ち上げてパンを口に運ぶ。パサパサと喉に張り付くような感触以外、何も感じられなかった。

「そう、私は大丈夫だけど?」

 ……おかしいのは私の身体か…

 今までの感覚の不一致からか、その異常事態も妙に納得がいく。

「……」

 足を抱え、床にお尻を付けて私は座り込む。

「さて…と…どこから話しましょうか…」

 エリゼさんは私の前で膝を突いて語り始めた。

「あの娘は…ノームといいます」

 淡々と、彼女は私がここに来る前に起きた出来事を教えてくれた。

 ある日、突然階段から転倒し、それから二度と立ち上がれなくなってしまった女の子…

 死を悟り、必死にグリフさんの血を残そうと頑張った私と同じ年の娘…

 病気で倒れ全てに絶望しながらも、夫の子を宿し、張り裂けんばかりの声を上げたことは知っている。

 でも…その赤ちゃんがあの娘……ノームより先に逝ったことは、衝撃的だった。

 大好きな人の子供に全てを託して……その希望が生まれて来れないなんて……

 私だったら……どう…

「……」

 ……もう…想像が及ばない。

 感情が想像の幅を振り切って、処理できなかった。

「その時は朝でした…」

 私はその瞬間を思いやる。

「最期は…苦痛に歪んだ顔で…私たちに『ごめん』と呟いて…ノームは逝きました」

 そのときのみんなの様子はどうだったのかと、私は尋ねてみる。

「グリフさんは…そうですね…今のあなたみたいでしたよ」

「……」 

 一日中ノームの亡骸から離れず……

 葬儀の準備もできず…

 ご飯すら食べられない……

 エリゼさんはこの館に包まれた悲しみの空気を、ありのままに話してくれた。

 そう、こんな話は自体は子供の頃からずっと聞いてきた。

 孤児院で、司祭が話す街の人の不幸な話。

 そこで語られる神の言葉の意味…

 …私はやはりシスターには向いていなかったのかもしれない。

 この場で、どういう言葉をかけていいかわからず…

 しかもふさわしいのは神の言葉ではないことだけは確信している。

「次の日にやって来たのはある剥製職人でした…」

 ついに話が核心に及ぶと、それまで努めて無表情を貫いていたエリゼさんも、思わず顔をしかめる。

「私の反応はあなたと同じ…でもウィヅは…手伝いました…」

「……」

 私は思わず息をのむ。

 そこでどんなことがあったのか、想像に難くない

 これでも修道院の病院で、奉仕活動をしてきた人間だ。

 人の亡骸は腐敗する。

 それを防ぐには…体の中身を掻き出して…なにか…腐敗を防止する塩か薬品を擦り込んでいく必要がある。

 それは常軌を逸した行為である。 

「ウィヅはあんなに笑う娘だったのに、それ以来あの調子です」

「……それで…お酒ですか」

 エリゼさんは小さく頷いた。

「そしてグリフさんは今や、館から出ようとはせず執務もできない状態です」

 口を歪めながら彼女はつぶやいた。

 まだエリゼさんには、この狂気を狂気と思う心は残っているようだ。

 黙って見守ることが同罪とはいえ…

「今は私が代行していますが

 あなたが何かきっかけになってくれれば…少しはいい方向にと、期待してるんです」

「……」

 でも…いったい私に何をしろというんだろう…


(4)――――

 エリゼさんとも仕事上の会話をする以外、無口を貫く時間ももう何日目だろうか…

 与えられた自由時間を正直、持て余していた。

 何もせず、未完成の庭で空を眺めている。ただそれだけである。

 夜は夜で、あの日からグリフさんとご飯食べる時間が続いている。

 ただ笑ってればいい… 

 彼は冷たい笑顔を浮かべそう言う。

 そう…だから私は精一杯笑うことに決めた。

 そこに会話はなく、何とも言えない緊張感が二人に流れているだけだった。

 無表情でウィヅさんは給仕を続けている。

 ここ数日は人目をはばからず、台所で酒瓶を目にすることも多い。

 まったく…この人の考えていることも分からない…

 二人とも…狂ってる。

 あのとき感じた嫌悪感は、何一つ変わらず残っていた。

 それに、まともに思えたエリゼさんも……正直同罪だと思う。

「じゃあ、今日はもういいよ。お休み」

 追い出されるように私は部屋を出た。

 今日も、何も言えなかった。

「……」

 きっと、私も同罪なんだろう。

 この狂気に、ただ笑うだけしかできないんだから。

 修行が足りないと言えばそれまでだ。

 この事態を打開する神の言葉の一つぐらい、私の頭も何か思いつかないのだろうか…

 ただ今は、二人が怖いのだ。

 そして、いつまでこんな時間が続くのかわからない。

 何か深い落とし穴に沈み込んだように、私の心にもやが掛かる。

 神さまはこの先、私達に救いを用意してくれているのか、自信はなかった。

 まあ強いて言えば…一緒に寝ろと言われないだけの救いはある。

 私は自嘲ぎみに無理矢理口角をつり上げて見せた。

 「いや……」

 その方がもしかしたら、少しは救いなのかもしれない

 私を人と見てくれるんだから…

 そう…エリゼさんの言葉もあながち間違っていなかったわけだ……

 私は自分の部屋に戻ると今日も寝付けず、希望も持てないままベッドに潜り込んだ。


(5)――――

 私は久しぶりにノームの日記を手に取った。

 読み上げたのは二人の間に子供が出来たところまで…

 あの日、この先の結末を知ってしまって以来、読む気を無くしていたものだ。

 今日は…暇にかまけて、少しだけ時間を進めてみようと思う。

 震えるような、弱々しい字を、私はゆっくりと追っていく。

 

十二月二日

 そういえばこんなものを書いていたことを思い出した。

 もう、ペンすらすらうまく握れないようだ。

 こんなことをして何になるのか。

 たぶん神様の嫌がらせの前では全てが無意味なのだろう。

 全てが憎らしい。

 何で大好きなあの人の血を残すという、ささやかな願いすら許されないのだろうか。

 私が生まれたというのに、私の血は残すのが許されないというのか。

 

 返す言葉が無い。

 今は破門された身とはいえ、私も物心が付いてから神の言葉を聞いてきた教会の人間だ。

 そして司祭が、シスターが、こんな時投げかける言葉を知っている。

 そう…こんな「ありふれた」悲劇に、主は何も答えてくれないのだ。

 今の私にはもはや、上っ面にも聞こえる出来合いの言葉を聖典から取り出して、人はこの言葉に従えばいいと…


十二月七日

 おかしい。時々自分がわからなくなる。自分の行動を反省しなくてはならない。

 外からグリフとウィヅがしゃべっている声が聞こえた後、私は手元の本を窓に向かって投げつけていた。

 そして信じられないような声で怒鳴っていたらしい。

 感じた感情は、嫉妬だった。

 生きている人間が憎らしい。あの人の血を残せる人間がいることが憎らしい。

 そんな考えがわき上がると、自分の行動が制御できなくなる。

 いつか、残された時間ですら、自分が自分でいられなくなってしまう気がする。

 この怒りを隠さねばならない。私が私であるためにである。



十二月十五日

 最近私の周りに人がいることが辛くなってきた。グリフには相談せず、信頼できる二人を残して他の使用人に暇をとらせることにした。

 貧しい公国で、元来、人の入れ替えも激しい家だ。私の最近の態度に不満を溜めていた者も多いと聞く。

 誰を残すかは迷わなかった。

 子供の頃から姉のように慕ってきたウィヅと、分家のグリフが連れてきたエリゼの二人を選ぶことにした。

 たとえ今後グリフの寵愛を受けたとしても、今までの貢献を考えれば許容できる二人だ。

そう、今でも私は公爵なのだ。家を維持することは考えなくてはならない。

 今となっては、私のせいで、呪われた家に嫁ぐ貴族など望めるはずもない

 だからこの家に残された者からグリフが選べばいい。そういう選択である。

 たとえ従兄弟の血筋になるとしても、そうすればグリフを介してシェラン家の血筋も残 るわけだ。

 そう、考えただけでも気が狂いそうな話だ。

 だが、私の知らない人間が彼を愛し血を残すのと、どちらがいいかは決まっている。

 考えただけで気が狂いそうな話だ。

 私がこの家からいなくなる日がもうすぐやってくるのだ。


 「……」

 なるほど…手が回らないといってたのは人を減らしたからか…

 ぼんやりと私は理解する。

 何か物語を読んでいるような――曖昧な感情に私は嫌悪を覚えた。

 確かにここで起きた出来事なのに、文字を頭がうまく処理してくれない。

 自分の考えも、どこか遅れてやってくる…そんな気持ち悪さ…

 視界を覆う日記の文字とともに、脳裏に鮮明なノームの像が浮かんでくる。あの亡骸も含めてである。

 頁の余白には何度もインクの切れたペンでなぞった跡があった。

 紙が破れんばかりに付いた痕跡からは、彼女の憤慨が、悔しさが、いろいろな想いが伝わってくるようだった。

 日記には…まだ続きがある。残り少ない日々につづられた弱々しい筆跡を辿る。


 気が付いたら寝ていたらしい。目が覚めるとエリゼが私の手を握っていた。私の涙が止まらないのを見て一晩中そこにいたという。

 なんて私は浅ましいのだろう。

 嫉妬に狂っていた私がとても見苦しい。

 今すぐいなくなればいいと、私なんて早く死ねばいいとそんな感情が頭をもたげる。

 この気持ちをどう説明すればいいのか。


「……」

 ここまでがこの日の出来事…

 いつの間にか、私はノームの心に引き込まれていたようだ。揺れ動く感情に、激高と消沈に、私も怒りと悲しみを覚える。

 本来文字を読んでいるだけなのに、無性にそこの椅子を蹴りたくなったり、涙があふれたり…

 ひどく疲れを覚えてしまう。

 私は少し震える指先を押さえて次の頁をめくった。そこにはさらに半月近く後の日付が書かれている。

 

一二月二七日

 息苦しい日々が続く。やることも特にない。

 怒りはとうに尽き果ててていた。

 ふと、思い立ってエリゼが痛み止めにと持ってきた薬を全部飲んでみることにした。

 痛みはあまり消えず眠くなっただけだった。

 今日、ようやく目が覚めたらしい。一週間ほど寝込んでいたとのことである。

 生まれて初めてグリフやエリゼの怒鳴り声を聞いた。


(6)――――

「……」

 つんとした臭いの立ちこめる部屋には布のこすれる音だけが響いていた。 

 音を立てているのは私ではなくウィヅさんだ。私は口を固く閉ざしたまま彼女の作業を見守っていた。

 ゆっくりと濡れタオルが少女の肢体を……その…何というか…死体を滑る。

 ベッドに横たえられているノームの上半身はドレスがはだけ、その肌を露わにしていた。

 そのあまりにむごい様に思わず息をのんでしまう。薄光に浮かび上がる輪郭に目を覆いたくなる気分だった。

 私と同じく…そんなに大きくない胸の下からは、お腹にかけては大きな傷跡が走っている。たぶんそこから…亡骸が腐らないように薬を染みこませた綿を入れているのだろう。

 目眩とともに、胃が締め付けられるように痛み出す。

 つまり亡骸に傷を付け、その…ない…中身を掻き出した誰かがいるのだ…… 

 私はノームの部屋を汚さないよう視線を逸らしウィヅさんの方に顔を向けた。

 目の前で繰り広げられている作業は改めて、私にノームがこの世界に存在しないことを実感させる。 

「こんなことしてて、平気なんですか」

 恐る恐る私は聞いてみた。

 ウィヅさんはこうして毎日ノームの体を拭き、埃を落とし、腐食しないように努めているというのだ。

 とても現実とは…まともな神経をしているとは…

 逆に言えば気が触れたとしか思えない行為だ。

 愛する人の亡骸を剥製にするグリフさんも…こうやって維持するウィヅさんも――

 ウィヅさんは私の浮かべた表情を一瞥すると、くすりと口元を緩めた。

「だって…平気に決まってるじゃないですか」

 少しも表情を変えず彼女はつぶやいた。

 そしてなにが誇らしいのか、微笑を浮かべすっと立ち上がり胸を張る。

「これがノームとの唯一のつながりですよ」

 声一つ震わせることなく、ウィヅさんは言う。

 私はこの瞬間、心の底から湧き上がる恐怖を感じる。

「さて、今日はこれでお終い」

 ウィヅさんは再び無表情に戻して小さくつぶやく。  

「その水瓶をとってもらえますか」

 と、目を細めたまま私の足下を指し示す。

「……」 

 私は何も返す言葉が見つからず、それを手渡す。

 彼女は薬で濡れた手を拭きノームのドレスを整えていく。

「つながり…」

 ようやく乾ききった私の唇が開いた。

「そう…この体がある限り、ノームは生き続けるの」

 真っ直ぐ私の目を見てウィヅさんはそう言うと、立ち上がって部屋を後にした。

「…」

 ぱたりと扉が閉まったと同時に、私の恐怖も少し引いていく。

 震える足が収まるまで私はノームの傍らの椅子に座ることにした。

 生き続ける……本当にそれでいいの?

 心の中でつぶやきながらノームの閉じた瞳を見つめる。

 返事はもちろん戻ってこなかった。


(7)――――

 また、昨日と同じく食事の時間が来た。

「……」

「……」

 部屋にいるのはグリフさんと私だけ。今夜もやはり会話もなく、食事の音だけが淡々と部屋に響いている。

 こうして二人で過ごすのは何日目になるだろうか。

 相変わらず彼から与えられた指示は単純だ。

 表情は崩さない。しゃべらない。

 馬鹿らしい…

 だけど、これを守っておけば機嫌を損ねることもない。 

 私は思い出したようにグリフさんに笑いかけた。

 相手は一瞬動揺を見せるも、すぐに取り繕い食事に戻る。

 何を…考えているのだろうか……

 彼は私の表情を一瞥すると、くすりと笑う。 

 今夜もそんな繰り返しだった。

 笑顔で見つめ合う私たち… 

 知らない人が見れば、これも一つの情熱的な光景といえる。

 ただし二人の間には得も言われぬ緊張感が絶えず走っている。

 いったいいつまで…こんな儀式めいたことが続くのだろうか…

「ふう…」

 神経がすり切れるような時間を経て部屋に戻ると、体から疲れがあふれ出してくる。

 だが震える足を押さえ、寝間着に着替えると私は、燭台を手に自室を後にする。 

 そして暗く静かな廊下を抜けノームの寝室へと足を進めた。

 死臭を隠す刺激臭は食後にふさわしくないが、ここでノームの日記を少し読み進めておきたいのだ。


一月二日

 年を越すことができた。

 最近少しだけ体の調子がいい。本が読みたくなって書斎に寝床を移してもらった

 これぐらいしかやることがない。ただ一日一日が無駄に過ぎていくだけ

 なんで、私はまだ生きているのだろう。


一月四日

 所詮、本は本である。

 私と同じように、死に行く物語の少女は荒れ果てた庭を使用人に命じて花いっぱいにしてもらって満足して死んだとある。

 なんてくだらないのだろうか。

 そんなことで満足して死ねるものなのか。



一月七日

 今日見た物語。

 やはり死に行く少女が悪魔と取引をして自分の記憶と視覚を引き替えに命を長らえるという話だった。

 嫌な気持ちしか沸いてこない。

 あまりの荒唐無稽ぶりに、途中で読む気が失せた。


一月八日

 三人の説得で二日ぶりにご飯を食べた。

 どうして、みんな私をかまうのだろう。

 一日中ベッドで本を読んで、寝ている私に食欲があるわけなんてないのに。

 もう、放っといて欲しい。


 頭を振りながら本を閉じる私。

 すっかり引いてしまった血の気が戻らない。

 あなたはどうして欲しいのと、私は再び問いかけた。

「…」

 これでいいの? 

「……何か…答えて欲しい…どうすればいいか……教えて欲しい」

 思わず声出ていたことに、私はこの時気付かなかった。

 何が出来る、どうすればいい――

 ぐるぐると思考が循環する。

 何も出来ない自分が悔しくてイライラとする。 

 この部屋に息がつまり、喉が渇く。不快でたまらないのだ。

 と、背後から扉の音が聞こえてきた。

 グリフさんが無表情で私の様子を窺っている。

「ここにいたんだ」

 一瞬視線が交錯し、私の表情が強ばった。

「声が聞こえてきたからね」

 グリフさんはベッドの脇に座ると目を細めて、ノームを見つめる。

「今は、君はそんなに無理に笑わなくていいよ」

 背中越しにそう言われると、グリフさんは押し黙る。

 とりあえず私は、私…ジゼルとして振る舞えと、その言葉を受け取った。

 半刻近くグリフさんはノームを見つめ、時に涙を落としていた。

「どうしたいんですか…」

 渦巻く感情の中、私はとうとう我慢できず呟いてしまった。

「こんな現実逃避…みたいなこと」

 彼は身動き一つせず答えてはくれない。

「おかしいです」

 すっと息を吸い、再度つきかけた勇気を持ちだして私は言った。 

「なにが…」 

「だって、もうノームはいないんですよ?」

 こんなこと、あまりにむごいことを…

 私は自分の感情がだんだん制御できなくなってきた。

 声を荒げたくない。グリフさんを怒らせてはいけない。でもその理性を、やり場のない怒りが打ち消していく。

「もう止めよう…ノームを埋めてあげましょうよ!」

「…君に何が分かるんだい?」

 まずい。この言葉を言ってはいけないのに…

「分からないです。こんな狂ったことなんで」

 グリフさんの眉がつり上がり。みるみると顔色が赤く染まっていく。

「私を彼女に見立てたって、なんの意味があるの!」

 私はノームじゃ――」

 その絶叫は頬に突き刺さる衝撃で途切れてしまった。

 ブルブルと全身を振るわせながらグリフさんは固まっていた。

 やはり少しの時間差とともに痛覚がやって来る。

「…」

 平手で殴られた一瞬、部屋の空気がかき乱された。   

 死臭を隠す香水…ノームの臭いが漂ってくる。

 再び私の怒りがふつふつと湧いてくる。

 私はグリフさんの胸ぐらをつかみかかり、拳に力を入れ――  

 この時ばかりは何も考えていなかった。

 私のとった行動に、唖然とする私はそこで固まってしまった。

「ご…ごめんなさい」

 その短絡的な行動に私は後悔するも、もう手遅れだった。

 幸い私の拳は目の前をかすっただけだった……

 でも、とたんにグリフさんの目は据わってしまう。 

 同時に私の背筋に寒気が走った。 

 あんな言ったら、反発したら、彼の正気を失わせてしまう…それは分かってたのに…

 落ち着いてノームの死を受け入れさせてあげようと、そう導こうと思っていたのに――

「そうだね……」

 突然グリフさんは私に抱きついてきた。

「ん…んん!」

 そしてガチッと首根を捕まえて、無理矢理唇を奪われてしまう。

「じゃあ、これで終わりにしようか」

 どん、と床に押し倒され、グリフさんに私の腕は押さえつけられてしまった。

 あまりの出来事に声が出てこない。

「エリゼが領主の仕事のこと心配してうるさくてね…

 領主代行なんて自分の柄じゃないっていってるし、だいたい子供の頃からつきあいのある彼女を抱くなんて出来ないし。でも公国としては次の世代は必要だし、僕はノームを愛しているしだから…さっさと跡継ぎでも作ってこんなことは終わらせてあげるよ。そう…」

「……」

「君がジゼルってことはどうでもいい」

 なにやらぶつぶつと小さな声で呟くグリフさん…

 もう私はその狂気の目に悲鳴も上げられない。

 いやだ、いやだ、こんなのいやだ!

 混乱しているうちに服のボタンが弾け、胸がはだけて下着が露わになってしまう。 

 恥ずかしいというより――とにかく恐かった。

「…傷がないん…だ…ね」

 グリフさんは私のお腹を指先でなぞり、声の調子を落とした。

 その描く線はまるで私の体を切り引き内蔵を掻き出すように――

 彼の顔に失望の色が現れた。

「やっぱり…君は……ノームじゃないんだ」

 じゃあ、と大きくため息を付くと、グリフさんは私のはだけたブラウスを元に戻した。

「ノームに似ている人形をどうしようと…僕の勝手だね」

 床に倒れながら私はノームと彼の顔を見る。

 今まで感じなかった心の底からわき上がる悲しみを、この時私は初めて感じ取る。 

 そして…不意にノームが起き上がり助けてくれないか…そんな無意味な希望すら浮かんでくるようだった。 

 とりあえず体をよじりグリフさんから逃れようとするが、足下に男の人一人分の体重がかかっている状態ではどうすることも出来なかった。

「んぅ…ぐ!」

 お腹を強く殴られた。

「ノームの人形なんて壊してやる…」

 私は顔を強ばらせて目をつぶる。

 首に両手をあてがわれ強く締め付けられる。

 やっぱり…殺されるんだ――  

 私の心の冷静な部分が、こうなることを予測していたのだが実感が湧かなかった。

 私の意識は次第に薄れていく。

 脳裏に過ぎるのはここに来るきっかけとなった雪の光景…

 そして…何故か首筋に感じる彼の人肌の暖かみ……

 矛盾していると思っても…私には……どうでも…

 でも…なんで…こん…なことに…

「……?」

 目の前がチカチカと光っている。

 体の全身に心地よい暖かみが戻ってくると同時に、

「グリフさん」

 突然、のし掛かっていた体重が軽くなっていく。

 白から黒、そして色を取り戻した視界に無表情のエリゼさんが立っていた。

「もう一度聞きます。何をなさっていたんですか?」

 穏やか声とは裏腹に、冷たい空気がエリゼさんの方から流れていた。

 私は咳き込みながらその様子を窺った。

「…」

「ノームの前で、愛人を囲おうなんて…少々節操がないようですが」

 笑いながらエリゼさんが軽蔑したように私たちを見ていた。

 正直あまりいい例えには聞こえない。こっちは殺されかけていたのに…笑えない冗談だ。

「……」

 グリフさんは、何も答えず頬に手を当てながら…ばつの悪そうに部屋を後にした。


(8)――――

「ごめんなさい。私も我慢できませんでした」

 そう言いながらエリゼさんは舌をぺろっと出しておどけて見せる。 

 そしてグリフさんを殴った手を痛そうにさすっていた。

「……」

 ようやく正気を取りも出した私はそんな彼女に冷たい目線を送った。

 エリゼさんは表情を戻し顔を逸らす。

「…私は…あなたがこの館に来たときは…

 死んだ人形より、生きている人形の方があの人を癒してくれる。

 それぐらいに考えていました」

 そしてどこか上の空のまま呟いていた。

「今だって…大声が聞こえたからそこの扉の隙間から様子を見ていたし…

 あなたが殺されそうにならなければ、止めないつもりだった」

「…っ」

 その言葉に頬と眉が無意識につり上がる。全身に力が入り私の拳が握られた。

「最低よね、私たち」

「…」

「あなたを巻き込んで…こんなふうに傷つけて…」

 今さら謝られても困る。確かに……命を救ってくれたのはこの人達なのに――裏切られた気分しか残らないなんて。

「許してくれとはいわない。だから殴りたかったらかまいませんよ」

 エリゼさんは目を閉じ直立不動の姿勢をとった。何か覚悟をいるみたいだが、少し恐怖の色が見える。

「……」

 ついその仕草を、私は可愛らしく思ってしまった。

 私が何もしないでいると、エリゼさんはもじもじと戸惑ったような動きをした。 

「あの…」

「エリゼさんは叩けません」

 その言葉とともに笑顔を浮かべる私。

「本当に……優しい娘ね…あなたは」

彼女は私に優しく抱きついて、

「もう我慢できません」

 震える声で呟いた。

「今日で解雇しますから…ここから出て行きなさい」

 気丈に振る舞っているような裏腹、その目からは涙があふれていた。

「そしてここで起きていることは、早く忘れてください」 

 そこまで言い切ると、エリゼさんは堪えきれずしゃくり声を上げる。

 私にまとわりつく彼女の体温が、いやに暖かく感じる。

 そう…エリゼさんもどうしていいのか分からないんだ。

 私と同じく分からないから、何とかしたいから――

 その一心で事態がここまでおかしなことになったのだ。

 エリゼさん声に、私はそう確信した。

 この時ばかりは、肩越しに写るノームは笑っているように見えた。 

「人形とまでいわれて、引き下がることはできないです。

 ここから出るなら、少なくとも人になってから出て行きます」

 優しい力で、私はエリゼさんを引きはがす。

「それに皆さんが悪い人だったら…きっと神さまは私をここには連れてきてくれませんよ」

 そう宣言して、私は差し出された逃げ道を突き放した。

「でも、彼はあなたを…」

「それもきっと、なにかの間違いです。」

 きっとこれでいいという確信が私にはあったのだ。


(9)――――

 そう…ほんの少し何かが間違っているのだ。

 日記を通じて私にはノームの考えることが少しずつ分かってきた。

 こんなことは、起こるはずじゃなかったんだ――

 もう少し、やることが残っているようだ。

 蝋燭を補充するため、私は台所へ向かった。 

 音を立てぬよう静かに台所に入ると、テーブルに突っ伏したウィヅさんの姿がうっすらと照らしだされる。

 ここ数日の間に、すっかり違和感の無くなってしまった酒瓶が、床には転がっていた。

 耳を澄ますと、彼女は小さな声ですすり泣いているようだ。

「……」

 私はそれに気付かないふりをして、目的だけを果たしてその場を後にした。

 気味悪い暗い廊下を進むと、今度は男の人の影が映る。 

「ジゼル…」

 グリフさんは月明かりに照らされ立ちつくしていた。

 放心したような顔に、なにやら後悔の色が浮んでいる。 

 でも…一応あんなことの後なので、警戒しておくには越したことはないだろう。   

「さっきは……」

 強ばる私は、いつでも悲鳴を上げられるよう大きく息を吸い込んだ。

「…その……ごめん…君に酷いことを」

 おどおどとグリフさんはつぶやいた。 

 そして私の顔も見れず、どうしていいか分からないようにうつむいている。

 不意に私は、笑いがこみあげてしまった。

 何故かさっきのことを許せる気分になったのだ。

「今夜は…みんな変ですね」

「……」

「だから、ゆっくり寝て…明日考えましょう」

 それだけ穏やかな声で言うと、彼のことは頭から追いやって私はノームの部屋に戻ることにした。

 今夜中に最後…最期まで日記を読むことにしようと…


一月二十日

 誕生日を向かえることが出来た。恐らくこれが最後だろう。

 日付を見ると、そう、倒れてからそんなに経っていることに気付いた。

 ふと今までの日記を読み返してみた。

 自分で書いた文字が照れくさい。

 ふと、こないだ読んだ本の続きが気になった。

 記憶を失った少女は、世界を放浪し、たどり着いた辺境の地で一人の男と恋に落ちる。

 そしてそこで新たな人生を歩むという。

 正直、最後まで読んでみても満足いくような面白い話ではない。

 まして、私に当てつけるような そんな安易な幸せがあってたまるかと、今日は珍しく感情が動く。

 きっと書いた人は満足なんだろう。

 少なくともこの文字には


「……」

 めくった先の頁は文字がかすれ、滲んでいる。

 なにか言いしれぬ感情に、私も頭が真っ白になり考えることが出来なかった。


 そうだ 文字に、この人が残っているんだ。

 ここに残されている不自然な物語の意味なんだと気付いたときに、私の涙は止まらなくなってしまった。

 震える手を押さえ日記を書くことにする。

 このことに気づいた人は私が初めてなのだろうか。

 そう、家系に伝わる呪いを、記録として残すわけにはいかないのだ。

 私という存在は、死をもって、「病死」として歴史の中に埋もれてしまう。

 そしてグリフが新たな血として公国を引き継ぐ家の家督となる。

 ここにあるつたない物語の本の山は、私のように消されゆく人達が物語として残した想いなんだと、その意味が私に重くのし掛かる。

 そう、やっと残せるものが見つかったのだ。


「あ…ぐっ」

 ノームが残した文字をなぞり、私は口に手を押さえ嗚咽をこらえる。

 彼女が何を言いたいのか…何を残したかったのか、それを噛みしめながらゆっくりと消化していく。 

 長く止まっていた呼吸の調子をようやく取り戻したときには、私は日記を強く抱きしめていた。

 そうしながらノームが読んだであろう物語を思い出す。

 そこに書かれていた人々には、つまらない…そう評していた物語には優しい人の姿があふれていた。 

 頭の中で物語と日記と現実が交錯する。 

 そこには暖かい家族の像が浮かび上がってくる。

 私を受け入れてくれた人達の姿を思い起こす。 

 それはどこか違和感があるものだったけど、それは戸惑いながらだったけど…優しい人たちがそこにいた。

 やっぱり…少しだけ間違ってただけなんだと…

「あなた…まだ起きてたの?」

 不意に肩を叩かれた。背後にエリゼさんがいたことに、私は気付かなかったようだ。

「…グリフさんとウィヅさんは」

「二人ともつぶれてるわよ」

 苦笑いしながらエリゼさんは答えた。

「だからもう安心して寝ていいわ」

 少し悲しげにそう言うと、彼女も私から目を逸らす。

 やはり後悔の念がそこに見えた。

 エリゼさんにしても…今日の出来事は予想外だったのだろうか…

「ちょっと…あんなことがあったから…寝れなそうです」

「…そうね」とため息一つ付くと、

「ベッドに横になるだけでも違うわ…良かったら私と一緒に寝ましょうか?」

 私の頭をそっとなでてくれた。

 私は頷いてその優しさに甘えることにした。

「少ししたらエリゼさんの部屋に行きます」


一月二十五日 

 みんなへ書き残しておきたいことがあります。

 だから今日だけちょっと言葉遣いを変えますが許して下さい。

 私は今日改めて日記を読み返しました。

 そこには私の喜びが書かれていました。

 そこには私の哀しみが書かれていました。

 そこには私の怒りが書かれていました。

 そこには私の文字が書かれていました。

 一つ一つの文字に、私の感情がこめられていました。

 思い出が文字になって、この時の私と繋がっているのです。

 そのことに気付いた瞬間、迎える最期の時が恐くなくなりました。

 今ノームは、ここにいます。

 文字に、みんなの思い出に、ノームは残ります。

 だから、最期は満足は出来ないけれども、悔しくはないとは言えないけれども、決して絶望して死ぬことはなかったと思います。

 私の死に顔は穏やかだったでしょうか?

 たぶん苦痛に歪がんでいたとしても、心は穏やかだったはずです。

 それを文字として残すことは出来ません。

 だからその姿を、そしてもう日記に書き残せることはもう少ないですが、一文字一文字 を私の思いとして一緒にみんなの中に止めていてください。


 日記の頁が空白に近付いた。最後の頁らしい。弱々しい文字がそこに残されていた。


二月三日

 今日 再び司祭がやって来た。

 残されている日が少ないようだ。

 遣言の代わりに葬送曲として私の好きなピアノ曲を指名する。そしてちょっとした仕掛 けをお願いした。

 きっと、誰かが気づいてくれるだろう。

 私の最後のいたずらを笑って欲しい。

 そこに私の意思を込めて。


 日記はここで終わっている。最後に一行、曲名が書いてあった。

「この曲……知ってる」

 私にやれることが、一つだけあったんだ。



(10)――――

 ぼんやりした頭を軽く振り、私は目を覚ました。カーテンを少し開けると空が赤く染まり朝日が顔を出そうとしていた。

 隣ではエリゼさんは居心地悪そうにまだ寝ていた。それを起こさないようにそっとベッドを降りる。

 自分の部屋に戻り寝間着から私服に着替えると、身に感じる寒気から少しだけ頭はすっきりしてきた。 

 少し物憂げな気持ちで鏡で身だしなみを確認する。寝癖なし、目の隈…これは化粧で隠せる――

「でも…やっぱ…眠いな…」

 私はあくびをしながらふらふらと客間へ移動した。

「さてと」

 一言つぶやいて、気持ちを切り替える。

 そしてピアノの前に座り、動きの鈍い手首を振る。 

 大きく一息。

 寒さでかじかんだ指先を慎重に滑らせ、私は演奏を始めた。

 日記に書かれた曲は生命の誕生を祝う賛美歌だった。

 風がそよぐような静かな旋律が終わると、今度は小川のような緩やかな小節が続く。

 自然の情景を描いたその明るい曲調に、私は不謹慎にも笑ってしまった。

 死を前にこの曲を指名したのはなんという皮肉…いや、きっとそれも望んだことなのだろうか? 

 何を願い、この曲を託したのか…私なら何を託すか――

「……」

 楽譜を半分めくったところで私は、ある一音の違和感に気が付いた。

 それは耳からではなく、指先から伝わる手応えによるものである。

 

 私は演奏を止めて三回ほど鍵盤を叩いてみると、周りの音と比べてハンマーに引っかかりがあることが分かる。 

 賛美歌ではあまり使わない高音域に「なにか」があるのだ。

「私なら……」

 ピアノをじっと眺める私。

 おもむろに、ピアノの裏蓋を開けてみる。 

 埃が漂い私の鼻をくすぐった。ずいぶん開けられた様子がないようだ。

 空気を入れ換えようとカーテンを開けると、空の赤みはすでに消え、日射しが部屋に差し込んでくる。朝が…やって来たのだ。

 私は明るくなった部屋を見渡した。

 不意に、ここで開かれていたであろう演奏会の情景が浮かぶ。

 ノームが、あるいは呼ばれた演者がピアノを弾き、使用人達と主人であるグリフさんが談笑し……そう、ウィヅさん辺りがへたくそな歌を歌って場を明るくして――

 そんなことを考えながらピアノの奥をのぞき込むと、そこには思った通りの物がそこにあった。

「やっぱり…」

 ハンマーと弦の隙間、ピアノとしての動きが妨げられないよう縦に挟み込まれている小さく折りたたまれた紙。

 緊張の糸がはじけたように力が抜けていく。 

 破かないようそれを慎重に取り出して、私はその紙を小さく広げる。インクの臭いが微かに漂ってきた。

「…まだ」

 これを読むのは後。そう心の中で呟いて私はピアノの前に座り直した。

 蓋を床に置き弦の張りを軽く調節すると、私は演奏を再開した。 

 先ほど浮かんだ情景が頭から離れない。そしてそれは感情を伴わず、私に涙を流させる。

 私の心はノームのための葬送曲を弾くことに集中している。でも…哀しみとは違う……なんと言えばいいのか…温かい気持ちが心地よくもあり、不快でもあった。

「……」

 ようやく曲が終わり、その紙…手紙を読むと、その後は何も考えられなかった。

 何度も文字を読み返し、そこに込められた思いをなぞっていく。

「ジゼル…」

 背後にはグリフさんが立っていた。 

「おはようございます」

「…うん…おはよう」

 私は頬を少し緩ませると、その仕掛けを教えることにした。 

 ノームが残した日記の存在…託された葬送曲……

 それを弾くことで気付くことができた手紙……

 その存在にグリフさんには動揺しているようだった。 

「あの娘は…こういういたずらが好きだったんでしょうか」

「そう…だったね」

 彼は口元を歪めると、言葉を出すのも辛そうになんとかそれだけ呟いた。

「手紙は3通…これは、グリフさんへ宛てられてます」

 目の前で手紙を広げ中身を読み上げる。私はノームのようにしゃべることを心がけた。

 言葉の一つ一つが、思い出として流れ込んでくるようで、そうすることは簡単だった。


 伝えなくてはいけないことがたくさんありすぎて、困ってます。

 あなたを愛していること。 

 世継ぎを作れなかった私を許して欲しいこと。

 私とあなたの時間がかけがえ無かったこと。 

 最近はあなたの顔を見ると胸がつまって何も言えなかったこと。

 たぶんあなたがそれに戸惑っていること。

 そして痛みで穏やかな最期が迎えられそうにないこと。

 それがきっと、あなたの心に大きな傷を残すだろうということも、私は気付いています。

 でも大丈夫だとも信じています。

 私がこの世から離れて覚えていられなくても。

 あなたがそこにいる限り、この家に手紙に日記に、思い出に私がいる。

 私はそう思えてから何も恐くなくなりました。

 そして今のあなたを見ているとちょっと心配です。

 すぐに忘れてとは言わない。

 けど、私のために自分を壊すのは止めて欲しいというの私の願いです。

 これを読む頃には、私がこの家からいなくなって少し時間が経っていると思います。

 きっと苦しかったでしょう。

 きっと悲しかったでしょう。

 でも私が自分の死を受け入れたように、あなたにもそれを受け入れて欲しい。

 そのための言葉は思いつかないので、こうして私の思いを書き残しておきます。

 あなたが私がいないことを受け入れるまで、何度も読み返してください。

 私はいつまでも、あなたの思いの中にいます。 


「手紙はここまでです」

 ひと言呟いて私は手紙を渡そうとした。

「こんなに…愛されていたんですね……」

 グリフさんは無表情のまま固まっていた。差し出した手紙を受け取れないで震えている。

「ご存じの通り…私は孤児でした、肉親もいなければ……大切な人もいません」

 私は俯いて、少しかすれた声で自分のことを語り出した。 

「自分は教会を出てから、いつのたれ死んでも仕方がないと思ってました。どうせ誰も悲しまないし…それでよかったと思います」

 その言葉を吐く自分に嫌悪を覚える私。

 そう、そうじゃないんだと今なら分かる気がする。

「でも…ここで働いて、誰かの役に立つことは悪くないことを知りました」

 グリフさんの目を見た。生気を失った悲しい目が、微かに泳いでいる。

 もう少し……あと、少しだ…

「それに人が死ぬことがこんなに悲しいことを知りました。

 生きることがこんなにすごいことも知りました」

 だから…と、私は片手で彼の手を掴み手紙を無理矢理渡す。

「ノームの亡骸に非道いことして、心を壊さなくていいんです」

 そしてそっともう片方の手をグリフさんの手の甲に覆い被せる。

 それは祈りの光景にも似ていた。

「私に非道いことして、心を壊さなくていいんです」

 ちょっとくさいかな…

 でも、私のこれは司祭の語り口だ。

 そう、嘆き悲しむ遺族の前で、穏やかに神の言葉を語る司祭の言葉―― 

 私には神の言葉を語る資格はないけど、ノームの言葉は伝えられる。

「心を壊せばノームのところに行ける。

 心を壊せば……あなたの身体が消えても恐くない。

 そんなことはないんですよ」

「……」

「ただノームを…残された家族を悲しませるだけです」

 私が語り終えると、グリフさんは膝から崩れ落ちてしまった。

「なんで…僕は」

 隠していた気持ちが噴きだしたように、グリフさんの目から涙がこぼれ落ちる。

 きっと自分が何をしようとしていたか…今まで気付いていなかったんだと私は思った。

 心の置き所が行き場のない袋小路に陥って、最後に自分を壊してしまうことにも――

「もう、終わりにしましょう」

 私は自ら屈み、グリフさんを抱き寄せた。

 その時、エリゼさんの言葉を思い出す。ノームが死んでも泣かなかった。

 その人がノームの手紙に泣いてる。

「辛かったんですよね」

 そうずっと耐えてたんだ…

 ノームへの想いと自分に課せられた義務の狭間で、愛する人の死を受け入れられず。 

 きっと…どうしていいのか分からずに――



(11)――――

 落ち着いたグリフさんを一人にすると、残りの手紙を台所に置き、私は街へ出かける用意をした。

 私……つまりは「ノームの人形」がいない状態で、みんなに静かな時間を過ごしてもらおうという、私なりの気遣いである。

 髪型を変えてから初めて降りた街では一騒動あったのだが……それは巻き込まれた司祭様の尽力に甘えて、私は教会で時間を潰したのだ。

 夜中に館に戻ると、そこは灯りもなく静まりかえっていた。台所に散らばっていた酒瓶は片付けられ、朝置いた手紙もなくなっていた。

 置きっぱなしだった日記も、どこかに消えていた。

 唯一、ピアノだけが蓋を開けたままになっていた。私はそれを元に戻すと自分の部屋に戻り燭台の灯を消す。

 暗く静かな夜……この日は久々にぐっすり眠れた気がする。

「…ふぅ…」 

 目が覚めてベッドから降りると、私は机の上にエプロンドレスが綺麗に畳まれて置かれていることに気付く。寝る前はそんな物はなかったので…誰かがここに置いたのだろう。

 そう……人形の役割は終わったんだ。

 エプロンドレスに着替えると、私は大きく息を吸って無理矢理笑い顔を作る。

 今日は鏡に映る自分が初めて自分のように感じられた。

「エリゼさん、ウィヅさん。おはようございます!」

 食卓に入るや否や、私は大きな声で挨拶し一礼する。 

「おはよう」

 少し戸惑いながら二人が笑いかけてきた。 

「…おはよう、ジゼル」

 そこにはびっくりしたことにグリフさんもいた。

 どこか居心地が悪そうにしながらコーヒーを飲んでいる。

「グリフさんが朝に起きてるなんて、珍しいですわね」

 思わず私は軽口を叩いてしまった。 

「朝食をとられるなんて何年ぶりですか」

 エリゼさんも私の意図を察したか、明るい口調で問いかける。

「今日は、ここで食べたい気分なんだよ」

 グリフさんはくすりと笑い、朝食に手をつける。

「ジゼルも早く食べなさい」

「はい」

 早々と食事を済ませたウィヅさんは食器を下げて皿洗いの準備を始めている。

 エリゼさんが今日の掃除と買い出しについてメモを書き、グリフさんは公務に向けてパンを食べながらと書類をめくる。

 そう…誰も……昨日までのことには触れない。

 不覚にもジワリと涙がこぼれてくる。

「みんな…ありがとうございます」 

 ぼそりと呟いた私の言葉に一瞬、空気がひんやりとした。 

「あら…何かあったかしら?」

 でも、ウィヅさんが表情を変えずにそう言い切った。

 みんなと目が合う。無言のうちに視線を交わし、頷き合う。  

「いや…何となくお礼を言いたかった気分なだけです」

 私の言葉に少し口元を歪めながら、それでもみんなは何事もなかったように返答した 

「変なの」

「そうだね」

「はは…変ですね、私」

 私も含めみんなが何か、憑き物が落ちたように日々を取り戻したのだ。少しぎこちないが、しばらくはこうやって「いつもの朝」を作ろうと心に決める。それでいいはず… 

「さて、今日は忙しくなるわよ」

 エリゼさんのかけ声で食事を終えた私たちは館のあちこちへ散らばる。

 でも夜にはまた食卓を囲み、語らい、少し仕事する人もいて、そうやって日々の営みを終えるわけだ。 

 私の…家族――

 そんな言葉が、私の脳裏によぎったのは初めてだった。

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