【2章】微かな残り香
(1)――――
気がつくと私は誰かに抱きかかえられていた。
「っと…結構、華奢なんだね…」
声の主はがっちりと腕を回して私の体を支えつつも、小刻みに震えていた。慌てて私は体を起こす。
「なんかふらふらしてたから…とっさに支えたけど平気だった?」
「あっはい……ありがとうございます」
そう言いながら振り返ると、清廉とした顔立ちの少年が私を見て微笑んでいた。
たちまち私の顔が真っ赤に染まる。
「どうしたの?」
い……今、私、抱きつかれてた?
慣れない出来事に急に恥ずかしくなってきた。
……いやいや、倒れそうな私を支えてくれただけだ、他意はないはず――
少し早鐘を打つ心臓を落ち着かせ私は少年の顔を見つめた。
「あなたは…」
「グリフ…一応、ここの主人ってことになってる」
日射しに顔を背けると彼はテラスの椅子に腰掛けながら言った。
声の調子からとっさに男の人と思ったのだが…彼はとても華奢に見える。
そして顔は青白く、どこか疲れているようにも見えた。
「じゃあ、あなたが…私を…その」
「うん」
言わんとすることを察したか、彼は頷いた。
「体の調子はどうだい?
あの時の傷の跡は無いようだけど。」
「もう大丈夫です。それより公爵様の方が病に伏してると聞ききましたが…」
私がそう言うと、彼は小さな声で笑った。
「あの二人がそう言ったのかい?」
「はい」
「……確かに朝が弱くて外に出たがらなくて、仕事が出来ないことは病気だろうね」
なんと返していいだろう……しかも半分以上は、私にも当てはまる。
「朝からずっと草刈りしていたんだよね」
「はい…」
彼はテラスの天井を指差す。
「上から見ていたよ」
私が指差す方に向くとバルコニーと大きな窓が広がっている。カーテンをめくれば、確かに丸見えのようだ。
……余計に恥ずかしくなってきた。
「まあ、少し休もうよ」
公爵様は地面に置いたポットを持ち上げて、そこに塩を入れと私に差し出してくれた。
ぽかんと口を開けている間に椅子まで引かれ、彼は私に座るように促す。
…これではすっかり立場が逆である。
「あっ…ありがとうございます…」
修道院時代に習ったことを思いだし、優雅に頭を垂れると公爵様の隣りに小さくなって私は座る。
改めて近くで見るとやはりその顔はやつれたように見える。病気というのもあながち間違いでしないようだ。
「どうしたの?」
私の視線に気付き彼は小さく微笑んだ。
「どうしてこんなことしてれたんですか…」
直接的な言葉を避け、私は首筋に手をやり、離す身振りを加えて見せる。
公爵様は少し考えるように目をつぶった。
「別に気にしなくてもいいよ…気まぐれみたいなものだからね」
「でも、公爵様!」
私はガタンと音を立てて立ち上がり、彼に顔を近付けた。曖昧な言葉にあまり納得がいかなかったからだ。
「待った」
彼は掌を私に突き出してその動きを静止させる。
同時に冷たい目線が送られる。
お…怒らせちゃったかな…?
「その公爵様は無し。ここでは僕はグリフで通ってるからね」
「……」
ん…そっち?
「堅苦しいのは嫌いだし、ここは君みたいな同年代がいないから窮屈なんだ」
そんな単純な物だろうか…彼の言い回しに裏を感じつつ、
「そんな理由ですか?」
と、慎重に尋ねる私。
公爵さ……グリフ…さんは、どこか遠い目をして口元を歪める。
「この椅子が使えるようになったのは久しぶりなんだ…」
そう言うと、しばらくの間お茶をすする音だけが辺りを支配した。
なにかもの言わせぬ雰囲気に私は息を飲む。
「そうだね…
僕としては他のことはいいから、ここの手入れをして欲しかったんだけど…」
「……」
「頑固な二人の前ではなかなか言えなくてね」
グリフさんの頬が緩む。
私は思わず頑固という言葉に拭きだした。
確かにウィヅさんもエリゼさんも持っている雰囲気こそ違えど、自分がこうすると決めたら主人といえども曲げぬような人のようだ。
「君を雇った理由はそれで十分かな?」
うれしそうな彼の顔を見て、私は確信した。
「ここは、グリフさんにとって大切な場所なんですね」
彼は一瞬驚いたように目を見開く。と、同時に唇を噛み締めた。
「うん…ここは…」
グリフさんは子供の頃の思い出と言いながら、
「昔はここでみんなでお茶会をしていたんだけど…」
それを呼び起こすように呟く。
館の住人全員が集まる庭、この場所の手入れに人を割けなくなり…もう何年も使われていない……それがとても残念――
そんな言葉の一つ一つから想いが伝わってくるようだった。
「そう、エリゼがお茶入れて、ウィヅが歌って…」
一瞬、私は自分の耳を疑う。
……あのウィヅさんが……歌?
「変な顔してるけど、どうしたの?」
「いや、ウィヅさんの歌ってどんなのかなぁ…と」
「彼女、すごく音痴でね。うまくなりたいって、涙混じりに歌うのは滑稽だよ」
その光景を想像してみる私。何やら微笑ましいような……恐いような――
「……聞いてみたいですね」
少し寒気を覚えながら私は呟いた。
あのウィヅさんを馬鹿にしたように「滑稽」と……
でもグリフさんの言葉の響きには不快な感じはなく、どこか楽しそうだ。
その語り口に、何だかこっちまで楽しくなってきた。信頼している人しか置かないってのは……なんか、家族のように親しみを持てる人を選んでいるのかと私は思った。
「だけどあの二人は他にやることがあるって言って、ここを後回しにするんだ…
まったく…僕が頼りないからって何一つここじゃ決めさせてくれないなんて――」
俯きながらブツブツ呟くグリフさんは何だか子供のように見える。
実際、私と大した年の差はないのだろうか。
「はは…愚痴っぽくなっちゃったね……
君も彼女が人見知りして大変だろう。でもいい娘だから心配しないでいいよ」
「はい」
彼の微笑みに、私もにこりと頬を緩ませた。
「これから頼んだよ…修道院から来た娘は有能だから二人を助けてあげて欲しい」
「が…がんばります」
何か過大な期待がかけられてる気もするが……
ガッカリされないようにするしかないようだ。
「折角だからこのテーブルも動かそうか…そっちの方が風が当たって気持ちいいしね」
「分かりました」
私たちは息を合わせてテーブルの端を掴んだ。
「よいしょっと」
テーブルはちょっと重いが二人で足首ぐらいの高さまでは上げることが出来た。
「あ……」
と、私の顔を見たままグリフさんが硬直する。
あれ…?
「どうしました?」
突然ガタンと音を立ててグリフさんの体がテーブルに倒れ込む。
テーブルはひっくり返らなかったが、グリフさんは机に突っ伏っしたまま動かなかった。
「うぁ…」
驚きの後、右腕全体に灼熱感が走った。
ポットが倒れ紅茶が私にかかったようだ。
「…ご…ごめん」
すぐに平静を取り戻してグリフさんは起き上がった。
「…ちょっと立ちくらみがしただけだよ」
そうは言うものの薄影に見える顔は、初めて見た時よりもさらに青白くなっていた。
「でも……でも私、…誰か呼んできます」
私はとりあえずエリゼさんのいる台所へ向けて走り出した。
(2)――――
「まったく……体調悪いなら無理しないで下さい」
額に濡らしたハンカチをグリフさんに当てると、エリゼさんは私を指差した。
「あなたもあなたです」
いつになく厳しい口調に、私の体が強ばる。
「主人の体調管理も使用人の仕事のうちですよ!」
「すいませんでした…」
…エリゼさんに初めて怒られた。俯いた私は何も言い返すことが出来なかった。
確かに病気であるということも聞いていたし、顔色とかから配慮しなくてはいけなかった。
日射しのせいで私がめまいを起こしたんだし……
「彼女は関係ない。僕がやりたくてやったんだ」
少し弱々しい声でグリフさんが私をかばってくれた。エリゼさんは振り上げた拳を下ろされると、大きく息をつく。
「まあ…グリフさんが無理したなら…ジゼルのせいでないですね」
「…」
ちらりと目を遣られたウィヅさんは、自分は関係ないと言わんばかりに私のエプロンに付いた染みをたたき出していた。
「とにかく、この件は僕のせいだから――
エリゼもそんな顔は止めてくれるかな」
「……はい…少し感情的になりすぎました」
エリゼさんは自分の掌で頬を押さえ表情を取り繕う。ようやく私に向けられていたおっかない雰囲気が消失した。
ようやくその場が収まると、今度の主題は私の服に移る。
「どう、染みになりそう?」
「エプロンはそのまま洗えばいいですけど……ジゼルさんの着てるのは」
ウィヅさんがため息混じりに私の服を見る。灰色であまり目立たないが、腕全体に紅茶の染みは広がっていた。
「これも丸洗いしないと駄目でしょうね…」
私の袖を掴みながらウィヅさんが眉をひそめる。今まで着ていた服は地で汚れて捨ててしまったし、今は自分の私服がこれしかないということも問題を大きくしていた。
「ジゼルの私物は?」
「あの雪の中に埋もれていたのを忘れてきたんですよ、私が」
エリゼさんが二人から目をそらしていた。背中越しで見えないが冷たい目線が刺さっているようだ。
「あ…あの、あの時は怪我してたし…その」
何かいたたまれなくなって、私は二人の間に入った。
「もともと着替えぐらいしか入ってなかっ…」
…そう言えば、それが無くて困ってるのが今だった。
「エリゼが拾ってれば……まったく…」
グリフさんの冷たい目線がさらに深くなる。エリゼさんへの擁護はたいして出来なかったようだ。
「夜は今の寝間着でとりあえずいいとして……ウィヅの服じゃ大きすぎてみっともないですからね……昼間からは」
ウィヅさんがそう言うと、残りの二人は深刻そうに俯いた。
夜はだぼだぼの寝間着を着ていてもいいのかという私の心の声は無視されている形だ。
ついでに言うと私はウィヅさんほど豊かな体じゃないとも言える……
「まあ…荷物の件は後で考えるとして……問題は当面の着替えか」
「服は……当てがあるので何とかしましょう。それを脱がせておいて下さい」
エリゼさんはそう言うとどこかへ行ってしまった。
「では服はこちらに頂きましょう」
ウィヅさんが躊躇無く私の服のリボンを外す。
「は…はい……」
グリフさんの方をチラチラ何度か見ると、彼は察してくれたのか…
「ああ…ごめん」
と、背中を向ける。
下着を着けているとはいえ、わざわざ男の人の前で肌を晒すこともない。こちらが見えないことを確認すると私は上着を脱ぎ捨てた。
「予備はないって言いましたよね」
私がウィヅさんに問いかける。
「昨日注文を出したので、あれと同じ型の服は明後日までありません」
丁寧に私の服をたたむと、ウィヅさんは胸ポケットからメモを取り出して読み上げた。
「後は晩餐用のドレスで、あなたの体に合う物が何着かあるぐらいですかね」
「ドっ…ドレスですか!」
私の声が裏返る。
「……でもあれは…」
あれ…?
何かまずかったのだろうか――
何か困ったような顔を浮かべると、ウィヅさんは口ごもった。
「昔、ここによく来ていたピアノ奏者が置いていった服ですよ」
私の疑問を遮るように、背後からエリゼさんが黒い布の固まりを抱えて入ってきた。
「グリフさん、いいですよね?」
「うん……彼女に似合うと思うよ」
グリフさんはまんざらでもなさそうである。
「ただ、それで庭いじらないでね」
心配そうなグリフさんの声に私の口元が歪む。
「そこまでやんちゃじゃないですよ」
苦笑いしながらドレスに袖を通すと、香水のいい匂いが自分にまとわりついてきた。
「うぁぁぁ……なんか自分じゃないみたい」
鏡の前で一回転すると、ふわりとドレスの裾が跳ね上がる。
少し胸元が開きすぎているのは自分にとって刺激的だが――それも許される気分になってきた。
「どうですか?」
私はスカートの裾をちょんと摘みながら三人に問いかける。
「可愛いわ」
「似合ってるよ」
エリゼさんとグリフさんが感心したように間髪入れずポンと手を叩く。
「えへへ…」と思わず口元がにやけてしまった。
エプロンドレスの着心地もなかなかよかったが、これは段違いだ。
「よくこんなぴったりな服がありましたね」
「……」
振り向くとウィヅさんは口をぽかんと開けたまま私を凝視していた。
「……?」
私が不思議そうにウィヅさんの方を見ると、ぷいっと顔を背けて、彼女はその場を立ち去ってしまった。
残された二人の間にも何やら微妙な空気が漂っていた。
「私…もしかして悪いことしました」
恐る恐るエリゼさんに尋ねる私。
そう言いながら……悪いことしかしてないかもと心の中から突っ込みが帰ってきた。
何故か分からない気まずい空気に私は小さくなってしまった。
「いいえ、その…あの娘も忙しいんでしょう…誰かさんのせいでね」
ニヤリと私をエリゼさんの目が射貫く。
突然飛び出した毒のある言葉に、背中から冷や汗が拭きだしてくるようだった。
「あは…はは…」
私の中に実はこの人…天然の振りをしてるかも――
そんな疑念が少し湧く。
「それに、まだ残り香があります……」
と、不意に私の肩に手を置かれる。
「はい?」
エリゼさんの言葉がよく聞こえなくて私は振り返った。
「よく似合いますわ」
手櫛で整えるようにエリゼさんが私の髪に触れる。
いつの間にかその手はするりと頭の上に置かれ、私を撫でるエリゼさん。まったく悪い気はしなかった。
「へへ…」
「…子供ね」
あれ…どこか遠い目をして私を二人が見ていた。
どうしたんだろう――
「あの」
「そのにこにこした笑顔が…いかにもドレスを着慣れてないって感じがするね」
「うう……」
どうも浮かれすぎたようだ。
「さてと、グリフさんはお部屋に戻りましょうか」
エリゼさんはグリフさんの方に向かうと、膝下に手を回して彼の体を抱き上げた。
「こ…こら、恥ずかしいだろ」
「女の子の前で倒れる方がよっぽど恥ずかしいです」
子供みたいにグリフさんはバタバタ暴れるも、軽々と外へ連れて行かれてしまった。
主人と使用人ではなく親子みたいに立場が逆転している二人を見て、私は思わず笑ってしまう。エリゼさんにしてみればグリフさんも大して扱いは変わらないようだ。
「……さてと」
その後は特にやることも見つからないのでピアノを調律することにした。練習にもなるし、昨日弾いた時に感じたとおり、しばらく手入れをしていない音を引き締めたいという考えもある。もっとも大がかりに鍵盤をばらしたりは出来ないが……
「うん」
意外にも見よう見まねだが、人がいじっている姿を真似してみると、簡単に音を変えることができた。庭いじりが出来ない間はこうして時間を過ごして、しばらくピアノに慣れるのもいいかもしれない。
(3)――――
朝起きてから一日中ドレスを着ているというのも疲れるものだ。
最初のワクワク感も翌日には煩わしさに変わっていた。気を抜くと胸がはだけそうになるし、寒いし、動きにくいし……
まあ昼までには服が乾いて、庭の仕事に戻れる。それまでは客室でピアノをいじるぐらいしか無いだろう。
私は楽譜をペラペラめくりながら練習する曲を探していた。
「ジゼル」
エリゼさんの声とともに、ぽんと肩を叩かれた。
振り向くとグリフさんも一緒だった。
「何かいい曲はあったかい?」
「あ…」
「よかったら聞かせてもらっていいかな」
グリフさんはそう言うと椅子に腰掛け、にっこり笑う。エリゼさんはいつものように手慣れた動作でカップに紅茶を注いでいた。
「えっ……あ…はい」
私はグリフさんに選んだ楽譜の束を差し出した。
ここにある曲なら何とか弾けるだろう…
「何か聞きたい曲はありますか?」
「君の好きなのでいいよ」
ん…と…困ったなぁ…
さっきいじったとき高音の方はあまり調整してないし…まだ試し弾きしてないから……
「教会の曲でいいですか?」
賛美歌とかなら重厚な曲調であまり高い音を使わないから大丈夫だろう。
二人はそれでいいと頷いた。
「じゃあ前に弾いた曲の続きでも……ではいきます」
すうっと一息ついてから、わたしは鍵盤を優しくなでるように演奏を始めた。
曲は暗譜してるので指先の動き自体は考えないでも進めることが出来る。適度に脇目を振りながら二人の反応を見つめると、じっと目を閉じ音に聴き入っているようだ。
うん…聴衆の反応は悪くない。
今日はあまり弾けず…つまり自分なりの転調とか加えず曲を聴いてもらおうと思った。
安息日の祈りの前に捧げる曲――
あまりに弾き慣れていて、私の感覚としてはあっという間に終わってしまった。
「うん、よかったよ」
「ありがとうございます」
演奏を終え、一礼する。こういう曲の後なので今日はさすがに拍手はないが、二人の表情を見れば十分満足だった。
「これからもよろしくね」
「はい」
グリフさんは私の腕を軽く叩くと、
「じゃあ僕は戻るね」
部屋の外へ出て行った。
ずいぶんあっさりしてるなぁ……
「もう一ついいですか」
一方エリゼさんはその場を動かず私を見つめている。
そして本棚の聖典を指差した。
「祈りに…立ち会ってもらえますか」
「えっ、私でいいんですか?」
エリゼさんは小さく首を縦に振った。
安息日の祈りは神を称える賛美歌を教会に集まったみんなで歌い、司祭の立ち会いの下で一人一人祈りの言葉を捧げていく。私のようなシスターはその祈りの場では無言を貫かなくてはならない。
今日はその日ではないし、ここは教会でもないし…そもそも私は――
「こういうのは、気持ちですから」
そういうもんかなぁ……
まあ、ずいぶん形式は違うが……私自身が破門された人間だからかまわないか…
「グリフさん達とかは…」
「あの人達は、こういうこと嫌いですから」
う~ん……最近はそういう人が増えて教会も商売あがったりなんだよな…
もはや私には関係ないことだけど……
「……」
私は形式に則ってテーブルの上に聖典を置き、エリゼさんの手を取り本の上に置く。私の手はその上に添えられた。
「主よ、罪深き私たちを汚れた私たちのお許し下さい。現世の飽くなき欲望と執着にまみれぬように、私たち家族を見守り下さい」
エリゼさん一言ずつはっきりと発音し、真剣に祈りを捧げていた。
(4)――――
「ふぅ…」
ここでの生活も一週間が過ぎた。
「これでよし…っと」
草むしりを進めていくうちに、庭の全体像が見えてきた。
テラスを中心に芝生が広がり、季節の花が点在していた昔の光景がようやく想像できるようになる。
この館の設計者の趣味を表しているのか噴水とか銅像とか、そういう大きな物が視界を邪魔しないように出来ているのは興味深い。
塀を地平線に見立て、その先は空が広がっているだけ――
テラスの椅子に座ると開放感があふれる造りになっていた。高台にあることを全面的に生かしたのだろう。
「…すごい…」
私は庭の奥まで歩いて胸元まである高さの塀に身を預ける。眼下には広大なブドウ畑が広がっていた。
さらに目線を下に向けると……あまり心地よくない崖の全景も見える。落ちれば……怪我では済みそうにない。
「……」
視線を上に戻すと霞みの向こうに、私が拾われた土手も微かに彼方に望むことも出来た。
思えばあっという間だった。修道院を追い出されてから半年……僅かな蓄えで食いつなぎ、農場の仕事でもありつけないかと関所のない険しい道をひたすら歩いてきた末に――
「本当はあそこで働くつもりだったのになぁ…」
自分の身に何が起こるかなんて、分からないものである。
「なら今から戻りますか?」
「うぇっ!」
気がつくと背後にエリゼさんが立っていた。
「いや…これは、その…」
エリゼさんは慌てる私を見てくすくすと笑っていた。
「ちょっと休んだぐらいで怒らないわよ…
それに、こんなに早くここまで来れるとは思わなかったわ」
エリゼさんは私の立つ地面を指差す。確かに一週間前はここに塀があることも分からなかったのだ。
「この向こうは危ないから、この塀の高さまで刈ればいいわ」
「はい」
それぐらいならすぐに終わってしまう。
そうなると、単調な草むしりを終えて次の段階に移れるわけだ。
「次はどうしましょうか」
私の問いにエリゼさんは麻袋をぽんと投げ渡してきた。
「街に昔からお付き合いのある花屋さんがあります。この庭全体の植え替えとなると…たぶん大きい街から注文することになるでしょうが…」
私が麻袋を空けると中に銀貨が三枚入っていた。
「この袋に入る分ぐらいは何か種でも買ってきて下さい」
「……こんなに?」
この国の発行する銀貨を物珍しげに見る私。種を買うだけでは額は多すぎる気がする。
「残った額はお小遣いにしていいですよ」
……本当に?
いや…私、これだけあれば子供の頃の私と司祭の二人で一ヶ月は食いつなげる自信があるんですけど……
「どうしたの、目をまん丸にして」
「いえ…何でもないです」
まあ、そういう世界もあるということにしておこう。でないと世の中の不平等とか色々頭を悩ませなくてはならない。
「日が落ちるまでは帰ってきて下さい」
「…私だけで大丈夫ですかね」
いきなり知らない街にお使いに行けと言われ、私は少し戸惑った。
「大丈夫よ、その服を着ている限り迷子になっても誰かが助けてくれるわ」
…心配しているのは、そこではないのだが……まあ、いいや…
思いがけず訪れた気分転換の機会を、私は楽しむことに決めた。
(5)――――
公爵邸に続く高台のふもとには、館の警備に当たる兵が常駐している小屋がある。普段から狼藉者を排除するよう閉ざされた門は、私が近付くにつれ大きく開かれた。
そういえば馬車に揺られてこの道を通ったはずなのだが……そこら辺の記憶は曖昧だ。
「お気を付けて」
鎧に身を重ねた男性が私に一礼する。
私もぎこちなく挨拶をすると、街に向けて早足に歩き出した。
「……」
街の広場に付くと、まばらだった人通りもにわかに活気立つ。
エリゼさんからもらったメモによると、目指すお店はこの広場から東に抜けた商店街にあるという。
「…はて……東とは…」
私は辺りを見渡した。そう、広場を中心に教会がある方が北……だから――
体の向きを正しい方に向ける。街の造りなんて、どこに行っても変わらないものである。
ちなみにお昼前にお使いに出されたということは、たまには違うものを食べなさいということでもある。
このまま街を探索して、食堂を探さなくてはならない。
私がきょろきょろと辺りを見渡すと、その方を向いた人が慌てて目を逸らしていた。
「…?」
おかしい…これじゃあ昔と変わらない。
自分の身分を表さなくてはならなかった頃に向けられていた視線と、今自分に向けられているそれは…同じでは無いが――
何とも言えない気持ち悪さが込められていた。
「あの……」
「はい?」
突然背後から呼び止められた。見ると中年の女性が怖々と私の方を向いている。
「あなたは……」
「公爵邸に新しく雇われた使用人ですけど」
何をおどおどされているか分からず、つい私は突き放したように答えてしまった。
彼女は一瞬安心したような表情を見せると、何も答えずどこかへ行ってしまう。
「……」
ああ、新参者だからみんな見てるのか…
少し不可解な気分を私はそう解釈して誤魔化すことにした。
定食屋でも花屋でも、私の姿を見た人は一瞬驚いたような顔を見せる。
「……う~ん」
私はその度に何か変な格好しているだろうかと訝しがりながらも、気にしないように努めていた。
確かに私が孤児院にいた頃は、街を治める領主の館から使用人が買い物に来ることなどは珍しい出来事だった、うん…だからみんな珍しがって私を見ている……
それにしては腑に落ちないことも多い。
何だかもやもやした気分を抱えて館に帰るのが嫌になった私は、街の教会へと赴くことにした。
お小遣いとしてもらった額を少し教会に寄付し、祈りの言葉を呟くと、少し気分が晴れてくる。
「…あなたは」
奥の部屋から司祭が顔を出してきた。
「あっ………今度公爵邸に」
「知っていますよ。それにあなたの破門が解かれたとき立ち会いましたから」
反射的に出てきた答えを遮り、カツカツとブーツの音を響かせて、司祭はベンチに腰掛ける。そういえばその通りだ…
促されるまま私もその隣りに座った。
「新しい生活はいかがですか?」
「…なんか…変な感じがします」
「ほう?」
司祭は意外ですねと、驚いた顔を見せた。
確かに……何が変なんだろう。こんなに恵まれた環境にいて――
「私が場違いな場所にいるような…感じがあるんです」
私はそう呟くと教会の床に目を遣る。ここと同じように寂れた教会で過ごしていた日々はもうかなり前である。
それでも祭壇の前で司祭と話していると、抱えていた悩みが自然と言葉として紡ぎ出されてくる感じがした。そう――
「今までの自分は何だったんだろう…そんな気分になることがあります。
グリフさんやエリゼさんは当たり前のように私を受け入れてくれて……大して役に立っ てないのにおいしいご飯と綺麗な服と寝心地のいいベットにありつけて」
頭の中でなにか繋がるように、言葉が体から飛び出した。
司祭は多くを語らず私の頭にぽんと掌を乗せる。
「あなたが成すべきことをなさい……私にはそれしか助言できません」
「……」
「ただ、あなたは選ばれくしてあの館に選ばれたのだけは違いないでしょう。
あの日あなたとあの館の人達を合わし示したのは、他ならぬ」
「主のご意志……」
子供の頃からたたき込まれている私の答えに、司祭は満足そうに頷いた。
(6)――――
教会での祈りは、私をさらに混乱させていた。街の人々が私に見せる仕草、司祭の言葉、その一つ一つに違和感を覚える…そんな感じがしてならない。
「……」
まあ…時が来れば分かることもある――今は…
「うん、仕事しよう」
私はひと言自分に言い聞かせ、あてどもない思考を止めることにした。
結論のでないことを考えすぎるのは悪い癖だ。それで時間を潰すぐらいなら仕事に集中しよう……日没までは少し時間があるし…
折角だから買ってきた芝の種を禿げた部分を埋めるのに使うことにした。
種をまく前にもう一度丁寧に雑草を摘み取り、館に備えてあった肥料をまく。
そして均等に種をばらまいていく。この繰り返しがしばらくの仕事になるだろう。
「ふぅ」
気がつくと、太陽は地平線に隠れつつあった。そろそろ晩ご飯の時間になりそうだ。
私は塀に片腕を預け館の方にくるりと体を向ける。
「――!」
テラスの上に人影が二つ。
私はビクリと体を震わせた。二階の窓から私の姿を見つめるグリフさんと目があったのだ。そのすぐ後に――
「えっ…?」
すぐ後にはウィヅさんが立っているが、その二人の距離は重なっていると言っていいほど近かった。しかもウィヅさん…あの位置じゃ……その…グリフさんに背中越しに抱きついてるように見えるし……それは…いいとして…
「なんで…」
あんな無表情で二人は私を見てるんだろう――
何か獣に射貫かれたように、私はその場から動くことも出来なかった。
突然、ウィヅさんの口元が小さく緩む。そしてグリフさんの肩に手を回すと、二人は私の視界から消えてしまった。
「なんなの?」
私は強い嫉妬を覚えた。……って…嫉妬?
高鳴る鼓動に戸惑いながら、私は頭の中を整理する。
「うん…間違いない……」
一瞬わき上がった感情はそう表現するしかないものだった。
(7)――――
ウィヅさんはグリフさんと食事することが多い。給仕をしているとはいうが、考えてみればその仕事を終わっても彼女と夜に合うことはないのだ。
そこに何か意味があるのか――
正直年頃の女の子としては考えたくない想像もすることが出来る。
でも…そんな表面上は雰囲気でもないんだよね……
とにかくあの無表情とも…私に見せる敵意とも感じる表情が脳裏をこびり付いて離れないのだ。
私が二人にそこまで嫌われるとも、いや…ここに入った経緯からしてもどうなんだろう…ウィヅさんは歓迎してないようだし……でもグリフさんだったら何で――
「ジゼル?」
「……」
「ジゼルったら!」
私はハッと顔を上げた。
「最後の年度は見つかりましたよ、どうしたんです?」
意識が梯子の中段に立ったままどこかに飛んでいたらしい。
「ごめんなさい……」
ばつが悪そうに私はゆっくりと梯子を下りていく。エリゼさんは目的の本を見つけたらしく、パラパラとめくりながら走り書きをしている。
私が持っている本は誰かの日記だった。二、三頁めくってしまったが探していたものとまるで関係ないようだった。
「…はぁ…また役に立ってないなぁ…」
食事を終えると私はエリゼさんに呼ばれ公爵の書斎へ連れて行かれた。何でも今日中に探さなくてはならない本があるということなのだが、ウィヅさんの手が借りられないということで、私がかり出されたわけである。
本自体はここ十年の農作物の収穫記録らしいのだが、部屋の本は乱雑に置かれ整理されていない。手が回らないというのはエリゼさんの弁だが、どこかで聞いたような話だ。
この仕事を終えたときには普段ならそろそろ寝ようかという時間になっていた。
「少し疲れてる?」
エリゼさんは私の背後に回り肩をぎゅっと掴む。
「い…いえ…そんなこと無いと思います」
その感触に体を強ばらせるも、エリゼさんはただ私の肩を揉もうとしてくれるだけのようだ。
自分で否定しつつ確かに疲れているのは間違いない。
体の緊張が解けてくると、どっと眠気が襲ってくる。
「――!」
同時に無防備な私の頭が……嫌な……あの二人の姿の…映像を送り込んでくる。
「ふふ、何か考え事でもしていたのかしら」
見透かされているようにエリゼさんの指先が私の頬を撫でた。
私は躊躇うように口をすぼめた。
もやもやした気持ちが私の中を渦巻いていた。
「…ウィヅさん……って」
答えを聞きたくないという気持ちが強いが心の大半を占めている。それなのに言葉が口から漏れてしまったのだ。
仕方がない……聞かないことで事実が変わるわけではないしただ自分が惨めになるだけである。
「あの二人って…付き合ってる…んです…か…」
消え入るような小声の私。
「ウィヅがグリフさんといたから?」
途端にエリゼさんの表情が曇った。
「…」
「それとも…私の手伝いもせずあの娘が男の子の部屋いたことの方、問題かしら」
低く抑えられた声にエリゼさんの声に、私は思わず手で顔を隠してしまった。
「隠し事が下手ね、あなたは」
エリゼさんの眉のつり上がりがさらに険しくなる。
そして私の正面にわざわざ移動してきて、
「主人の情事に使用人が立ち入るべきではありません」
そうきっぱりと断言した。
「じょ…情事って……」
……頭が真っ白になった。
やっぱり――
いやだから、私がどうして落ち込む――
……こんな経緯でこの館に雇われたんだから…期待しない方がおかしい……よね…
肯定的にも否定的にも、色々な考えが私を駆けめぐる。これじゃあ…まるで恋する少女みたいじゃないか。
いや…一六歳だから少女なのは間違いないけど…ああ、もう!
「ふふ、冗談よ。泣き出しそうな顔しないで」
エリゼさんがくすっと笑い、いつの間にかにじみ出していた私の涙をぬぐう。
私は狐につままれたような顔できょとんとしてしまった。
「ウィヅがたまにあそこで食事するのは、ちゃんと理由があるんですよ」
「はい?」
「その……嫌らしいことじゃないけど…ウィヅにとっては恥ずかしいことかもね」
意味深……?
いや、なにかはぐらかされてる気もする。
「種明かしすれば呆れるような理由よ」
何か心に浮かべ一人で楽しそうに笑うエリゼさん。
ますます意味が分からない。
逆に私が考えたことが途方もないとで言いたげに、わざとらしくエリゼさんは頬に両手を当てて赤く染めていた。
「ねぇ、本当にあの二人が付き合ってたとしたら、あなたはどうするつもりだったの?」
エリゼさんは口元を大きく緩めると、すっと指先で私の頬をなでる。まるで子供をあやすようである。
「年も近くて、優しいご主人様……せっかくの好機を逃すのは惜しいわよね」
「な…何のことですか……」
慌てて私はそのいたずらから逃れようと、椅子から立ち上がる。
確かにそんな妄想が……金持ちに見初められて玉の輿…なんて考えが、生死の危機に際して浮かんでいたのは事実だが……
「まあ、館内での色恋沙汰は、仕事に支障がない限りは私は干渉しませんが」
「いや、その私はそんなつもりじゃ…」
いざ現実が妄想を追い越しているような今、それがどれだけ子供じみているかと恥ずかしくなるぐらい忘れたいことなのに、この人はそこを巧みに突いてくる。
「あらあら、ジゼルはグリフさんはお嫌いかしら」
笑み……本当に悪意の無い……いや無いようにしか見えない笑み……
「うう……」
エリゼさんに押されるように後ずさる。
「うぁっ」
途中机の上の本の山を倒した気もするが、私は今それどころではなかった。
「あの……他にやることなければ……私そろそろ寝たいんですけど…」
これ以上ここにいても、おもちゃにされるだけである。
この苦手……というか、どうしても好きになれない空気から解放されようかと私はもがいていた。
昔から女の子が二人以上でしゃべっていると…それが修道院という特異な環境であっても、色恋沙汰の話になり舞い上がるものだ。
それが、エリゼさんまで該当すると思うと正直恐くなってくる。
「そうね……」
唇に手を当ててエリゼさんは少し考えるように顔を上げた。
「もう一個お仕事頼んでいいかしら?」
私が断らないことを知っていて……無情な問いかけが返ってくる。
(8)――――
「あの……」
化粧台の前に座らされた私は、体を使い古したシーツにすっぽりと覆われていた。しかも暴れるといけないと、腰紐が椅子にくくり付けられているという有様である。
「どういうことでしょうか、これは…」
エリゼさんは動くことの出来ない私を尻目に、ぐるぐると椅子の周りを回りながら私を観察している。
「前から気になっていたのよね……」
何か独り言を言うように呟きながら後の棚から箱を取り出すエリゼさん。がちゃがちゃと、金属同士がぶつかる音が聞こえてくる。
「まあジゼルの本音も分かったわけだし」
「だから本音って何ですか!」
どうやら、書斎での話は続いているようだ。
「私は年齢的にもウィヅよりずっとお似合いと思うし……公爵家としては跡継ぎは考えないといけないし……」
「うん、分かりますから……少しは私の話を聞いてください」
「……子供の頃から仕える主人がどこぞの馬の骨に持って行かれるぐらいならね」
それはむしろ私のことを言うんですか……っていうか…
私の言葉に少しは反応してください――
もうあきらめにも似た気分で、私は成り行きに任せることにした。
エリゼさんはすっとはさみを私の後頭部に当てると、ぐっと力を入れる。
次の瞬間はらりと、親指ほどの長さの髪が床に落ちた。
「ひっ」
こういう格好にされてから覚悟は出来ていたが、彼女の行動にはまるで躊躇いがない。
「何も言わず切るのは止めてくださいよ…」
「あら、ごめんなさい」
一度はさみを入れたのが合図なのか、エリゼさんが押し黙ると、じょきじょきと音だけが部屋に響くだけとなってしまった。
私としても失敗されたら困るので、目をつぶり、身体も口も微動一つしないことにする。
「……」
「……ふふっ……」
奇妙な声に薄目を空けると、鏡には鼻歌混じりに刃先を見つめながらうっとりしているエリゼさんの姿が写っていた。
笑ったり黙ったり忙しいなあ…と思いつつ、
「どうしました?」
と、私は尋ねてみる。
「最近腕を振るう機会も無くて、うずうずしてたのよ」
はさみと櫛を器用に動かしながらエリゼさんは声を弾ませた。
「グリフさんは決まり通りに切ればいいし、ウィヅは真っ直ぐ整えるだけ……
私は結んじゃえばいい……それじゃあ、はさみが錆びちゃうでしょ?」
そう言うとエリゼさんが笑顔のままぺろりと刃先を舐める。
「この子もかわいそうでしょ」
ぞくっ、と背筋に冷たい悪寒が走り抜けた。
たぶんこの人は…こういう趣味の悪い冗談が好きなことを隠していたんだと思いたい
「はい、出来上がり」
「……」
閉じていた目を開けると、その光景に私は驚いた。
「気に入らない?」
「いえ……いつの間に鏡に布をかぶせたのかが疑問で……」
前髪を切るため私が目を閉じている隙を突かれたのだろうか?
「それはほら、おめかししてからのお楽しみ」
エリゼさんはそう言うとクローゼットから一着の服を取り出した。
「お休みの日までエプロンドレスだと窮屈よね」
渡されたのは平服だった。シャツもスカートも灰色を基調としているところは今のと変わらないが、これなら街に行っても好奇の目に晒されることはないだろう。
「…これ…いいんですか?」
「もちろんよ。きっとグリフさんも惚れ直すと思うわ」
まだその話し続けるんですか……
「からかわないでください」
私もいい加減飽きてきた。声に少し怒気を入れる。
「ふふ、ごめんね…ウィヅと違って反応が面白くて」
「……夜も遅いのに……仕事はいいんですか」
少し嫌みに聞こえるように冷たく言ってみる。
「あら、使用人の整容も仕事のうちよ」
「はあ…」
その裏にどんな不純な動機が見えてきそうでも…まあ言われてみればその通りである。
「でも、確かに寝なきゃいけない時間ね」
「はい。今日はありがとうございました」
ようやく解放される機会を逃すまいと、私はぺこりと頭を下げてエリゼさんの部屋を後にした。
(9)――――
「ふ…ふふっ」
実のところ切られた髪を早く見たくてうずうずしていたのだが、エリゼさんをこれ以上喜ばせることもないと我慢していたのだ。あの調子だと、無理矢理私の服を剥いで、着替えさせることぐらい、何とも思わなかっただろう。
私は廊下を小走りして自分の部屋に戻っていた。
「……」
自分の手で髪を触ると、ウィヅさんみたく真っ直ぐとそろえていることが分かる。今まで長くなったら適当に切るくらいしか考えてなかった私には、新鮮な感触だった。
たぶんここに来なければ、こんな風に外観を意識する機会なんて来なかったと思う。
「さてと…言われたとおりに…」
部屋戻ると、早速もらった服に着替える。
「へへっ」
エプロンドレスをたたむのがもどかしいぐらい、期待する私がいる。そう…平民だったら滅多に訪れることはない経験だが、捨て子の私には決して訪れるはずのない経験なのだ。
珍しく心臓が早鐘を打っている。平民の女の子みたく髪を切っておめかしするなんて…
何を――
私は期待してるんだろう。それこそエリゼさんの言う通りじゃない…
髪型が変わったから、服をめかし込んだから、私の魅力が上がるなんて……そんなのおかしいはずなのに……何で…
「…ぁ…」
鏡の前に立った瞬間、私の口から息が漏れた。
くらっと、立ちくらみのような、目の前の鏡に吸い込まれるような感覚が私を襲う。
そこに立つ女の子は、本当に……自分じゃないようだ。
「……」
自然な表情で私は私を見ている。初めからこの形であったとでもいうように、私が鏡の前で立っていた。
なにか……舞い上がった分だけ、冷めた感情が襲ってきた。
それは悲しいというわけでは決してない。前の方が良かったといってるわけでもない。
言葉でどう言っていいか分からない無感情が…鏡を通して伝わってきたのだ。
そうそれは――
「ウィヅさん?」
そうだ……夕暮れ前に見たあの二人の表情である。
「くっ……」
突然お腹が締め付けられるように痛み出す。気持ちが悪くなってきた。
私は慌てて服を脱ぐ。せっかくの服を台無しにするわけも行かず、きちんとたたんでクローゼットにしまう。
「……」
これ以上することもない。寝間着を羽織ってベッドに横になると、何も考えちゃだめと心の中で呟きながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。