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恋心

作者: 川野ゆかり
掲載日:2026/09/30

 その日は雨だった。

 男が一人、傘もささずに電柱を見上げていた。


 おかしな人だ。危ない人かもしれない。

 本能的にそう思った。


 しかし、なぜか私は声をかけようとしていた。

 それは親切心からか、濡れた男の容姿に惹かれたからか。


「どうかされましたか?」


 雨の音にかき消されたのだろうか、男は返事をせずに私の目をじっと見つめてきた。


 あ、危ない人だったかも。


 心臓が跳ねかけたとき、男の唇が僅かに動いているのがわかった。


「あの、すみません、雨の音がうるさくて……。なんて?」


 電線からボタボタと傘に打ち付ける雨音で、相手に失礼をしていたのはどうやらこちらだったようだ。


 私はつい、相手に耳を傾けるように近づいていた。


 それが間違いだったのだろうか。


 バチンと視界が真っ白に弾ける感覚だった。

 その感覚とは裏腹に、ゴツリと鈍い音が同時に聞こえた。追って、痛いと感じた。


 殴られた。


 咄嗟に、何故か「あ、傘が壊れる」と思い持ち手をぎゅっと握りしめてしまった。

 そんなもの手放して受け身を取ったほうがいいのに。


 そんなことが頭に浮かんだところまでがスローモーションだった。


 冷たいアスファルトに体を打ち付ける衝撃と、じわりと水が染み込んでくる感覚、ひたすらに痛い痛いどうしてと混乱する思考が一瞬で押し寄せた。


 男が私を見下ろしている感覚がする。

 でも、どうしても怖くてそちらを見ることができない。


「大丈夫ですかー!?」


 遠くから声がした。


「なんかこの人が突然自転車の前に飛び出してきたみたい」

「何?」

「事故事故!」

「ママ!!あった、あの人の傘、私のだよ!」


 色々な声がした。

 そんなに沢山の人が周囲にいただろうか?


 それまで、私と、あの男の人しかいなかったのに。

 それに私は自転車に轢かれたのではない。殴られたのだ。


 なんだか世界がおかしい、そんな風に思った。


 その後は病院に運ばれたらしく、どうしてか、私に問題があることになった。

 どうやら私は元々いた場所を抜け出して?そして自転車の前に飛び出したことになっているらしい。


 違う違うと泣いたところまでは覚えているけど、その後は眠らされてしまったらしい。


 そういえばあの男の人、とても素敵だったな。また会いたいな。


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