最終章 兄、帰る場所を見つける
翌朝。
兄は相変わらず、空き地で小屋の壁を塗っていた。
鬼の若い衆が遠巻きに見ている。
近づくと避けられるし、追い出そうとするとするりと逃げる。
かといって暴力に訴えるのも大人げないし、何より兄は手ぶらだ。武器も持っていない。
丸腰の桃太郎が、鬼ヶ島で、壁を塗っている。
世界で一番間抜けな光景だった。
「兄貴」
「おう、次郎。早いな」
「話がある」
「いいぞ。ちょっと待て、この角の塗りが——」
「壁は後だ」
「壁は大事だぞ。家の基本は壁だ」
「家を建てるなと言っている」
兄は刷毛を置いた。
そして、にっこりと笑った。
あの笑顔だ。
人を惹きつける、華のある笑顔。
この笑顔に、村中が期待をかけた。
この笑顔に、道中で出会った人々が好意を抱いた。
この笑顔が、何もかもを面倒にしている。
「座ろうか」
「ああ」
*
兄と二人で、鬼ヶ島の見晴らしの良い岩場に座った。
海が見える。
遠くに、出発した港町がかすかに見える。
あそこから、ここまで来たのだ。
俺は。
兄のせいで。
「で、何から聞きたい?」
「全部だ」
「全部は長い」
「長くていい。俺はここまで来るのに何日かけたと思ってる」
「まあ、そうだな」
兄は足をぶらぶらさせた。
「何から話そうか。——俺が桃太郎家の長男として、どうだったか、から話そうか」
「……聞く」
「桃太郎家の長男は、鬼退治をする。それが決まっていた。生まれた時から」
「ああ」
「剣術も弓術も礼法も、全部やった。きびだんご運用法まで。お前も知ってるだろう」
「知ってる。俺もやらされたからな。次男のくせに」
「なあ次郎。お前は思ったことがないか?——俺たちは何のために鬼退治をするんだ?」
「家のためだろう」
「そう。家のためだ。桃太郎家の名誉のためだ」
「それの何が不満なんだ」
「不満じゃない。ただ——」
兄は月を見上げた。
朝なのに、薄く月が残っていた。
「かぐや姫は月に帰った」
「知ってる」
「竹から生まれて、月に帰った。あれ、おかしいと思わないか? 竹と月は全然関係ないのに、かぐや姫はそこに帰った」
「おかしいかもしれないが、そういう話だろう」
「そうだ。そういう話なんだ。帰る場所ってのは、生まれた場所じゃなくていい。関係なくていい。本人が『ここだ』と思えば、そこが帰る場所になる」
「……それで?」
「桃太郎は桃から生まれた。桃に帰る場所なんてない。じゃあどこに帰る?」
「家だろう。桃太郎家だ」
「桃太郎家は——役目の場所だ。帰る場所じゃない」
「…………」
「次郎。俺にとってあの家は、鬼退治をする場所だった。期待される場所だった。長男として振る舞う場所だった。だが、帰る場所——自分がここにいていいんだ、と思える場所じゃなかった」
兄の声は、珍しく静かだった。
いつもの飄々とした調子ではない。
真面目な声だった。
だが——
「……だからって、鬼ヶ島に住むのは理屈が飛躍しすぎだろう」
「飛躍か?」
「飛躍だ。かぐや姫が月に帰ったからって、桃太郎が鬼ヶ島に住むのは、論理の飛距離がおかしい」
「竹と月も大概だろう」
「それはそうだが——」
「なら問題ない」
「問題しかない」
*
ポチ兵衛が割って入った。
どこで聞いていたのか、岩場の下に立っていた。
「桃太郎殿」
「おう、犬か。律儀な犬だな、弟の護衛か」
「そうだ。そしてお前に言いたいことがある」
「何だ」
「お前の理屈は、わからんでもない」
「おや」
「だが、やり方が最悪だ」
ポチ兵衛は真っ直ぐ兄を見た。
「弟を巻き込むな。帰る場所を探すのは勝手だ。だが、そのために弟が代打で鬼退治に向かう羽目になった。お前が逃げた分を、弟が全部背負っている」
「…………」
「弟への説明責任を果たせ。それが長男の義理というものだ」
兄は少し黙った。
それから、頭を掻いた。
「……すまん。それは——確かに、そうだな」
「わかったなら帰れ。鬼ヶ島ではなく、桃太郎家に」
「帰れんよ」
「なぜだ」
「帰ったら鬼退治をさせられる」
「それがお前の役目だろう」
「だから逃げたんだ」
「話が振り出しに戻っておる」
サル吉が笑いながら木から降りてきた。
「兄貴、ちょっと聞いていい?」
「おう」
「ここに住んで何するつもりだったんだ? 仕事は? 飯は? 鬼と仲良くやっていけると思ったか?」
「鬼も人間も大して変わらんだろう」
「変わるわ」
鬼の代表が近づいてきた。
「変わるぞ。お前が来てからうちの若い衆が落ち着かんのだ」
「すまんな」
「すまんで済むか。お前の曽祖父にうちの先代が負けてから、桃太郎家と鬼ヶ島はずっと因縁の関係だ。その桃太郎が住みに来るというのは——」
「和解の第一歩では?」
「断る」
「早い」
「即答だ。お前と和解する気はない。討ちに来るなら受けて立つ。だが住むな」
「厳しいな」
「当然だ」
キジ子が上空から降りてきた。
「ねえ、私からも一言いい?」
「なんだキジ子」
「桃太郎さん、あなたの旅ってすっごくドラマチックだったと思うの。帰る場所を探す放浪の旅、各地で人を助けて、迷言を残して、最後にたどり着いたのが鬼ヶ島——」
「おう」
「でもオチがこれだと、ちょっとスベってない?」
「…………」
「物語として弱いのよ。鬼ヶ島に住むって、落ちとしては弱い。もうちょっとこう、感動的な着地が欲しいわ」
「雉に物語の講釈をされるとは思わなかった」
「アイドルはストーリーに敏感なの」
全員が好き勝手に言っている。
犬は義理を説き、猿は現実を突き、鬼は拒否し、雉は物語性を批評している。
そして兄は、それを全部聞いて——笑っていた。
*
「なあ、次郎」
全員が言いたいことを言い終わった後、兄が俺に向き直った。
「お前、ここまで来て——楽しかったか?」
「楽しいわけがないだろう」
「本当に?」
「…………」
「犬に同情され、猿に笑われ、雉に励まされ、各地で兄の悪口を聞き、それでも歩いてここまで来た。楽しくなかったか?」
俺は答えなかった。
答えたくなかった。
だが——全く楽しくなかったかと言えば、嘘になるかもしれない。
ポチ兵衛の口うるさい護衛。
サル吉の軽い冗談。
キジ子の派手な登場とうるさい応援。
各地で出会った人々の、兄の噂話。
俺は次男で、代打で、スペアだ。
だが、この旅は——俺の旅だった。
兄の影を追いながら、俺は俺の仲間を集め、俺の足で歩いてきた。
それは——
「……別に。面倒くさかっただけだ」
「そうか」
兄はまた笑った。
「お前、俺よりちゃんと桃太郎してるよ」
「は?」
「犬猿雉を連れて鬼ヶ島に来た。仲間がお前を慕っている。鬼とも話ができた。——それは、俺にはできなかったことだ」
「……何を言ってるんだ」
「俺は逃げた。鬼退治からも、長男の役目からも。お前は逃げなかった。文句は言ったが、逃げなかった」
「逃げられなかっただけだ」
「それでも、逃げなかった」
兄の目が、少しだけ真剣だった。
「帰る場所ってのは——」
兄はゆっくりと立ち上がった。
「探すものじゃなくて、勝手にできるものなのかもしれん」
「…………」
「俺は鬼ヶ島が帰る場所だと思った。だが、鬼に拒否され、弟に呆れられ、犬に説教され、猿に笑われ、雉にスベってると言われた」
「全員に否定されたな」
「ああ。完璧に否定された」
兄は空を見上げた。
「完璧に否定されると、逆にすっきりするもんだな」
「すっきりされても困る」
「帰ろうか」
「……帰る気になったのか」
「帰る場所がないなら、帰れる場所に帰るしかないだろう」
「最初からそうしろ」
「それだと旅にならない」
「旅にしなくてよかったんだ」
兄は笑った。
飄々と。
無責任に。
しかし、どこか——晴れやかに。
*
鬼の代表が近づいてきた。
「帰るのか」
「帰る。迷惑をかけた」
「かけた。大いにかけた」
「すまんな」
「二度と住みに来るな」
「約束はしない」
「おい」
「だが——」
兄は鬼の代表を見た。
「討ちには来るかもしれん。次は、ちゃんと桃太郎として」
「……ふん。来るなら受けて立つ」
鬼と桃太郎が、妙な和解——いや、和解では全然ないが、妙な決着をしていた。
「なあ、弟」
「なんだ」
「鬼退治はお前がするか? それとも——」
「今日はしない」
「そうか」
「鬼と手を組んで兄を追い出したんだ。今日鬼退治するのは筋が通らない」
鬼の代表が頷いた。
「道理だ」
「ではまた来る時に。そう遠くないうちに」
「構わん。次は桃太郎家に恥じない戦い方で来い」
「努力する」
これが、俺の鬼退治——ではない。
鬼退治は、次の話だ。
今回は——兄退治だった。
*
帰路の船の上で、兄は欄干にもたれて海を見ていた。
「次郎」
「なんだ」
「また帰ってくるからな」
「どこにだ」
「鬼ヶ島に」
「帰ってくるな」
「たまには遊びに——」
「鬼ヶ島は遊び場じゃない」
「まあ、そのうちな」
兄は懲りていなかった。
桃太郎は、懲りない男だった。
だが、ポチ兵衛が言った通り、帰る場所は——帰れる場所だ。
兄が帰れる場所は、結局のところ、桃太郎家しかない。
あの面倒くさい家。
前例と伝統にうるさい家。
長男に期待しすぎて、次男をスペア扱いする家。
それでも——家だ。
俺も、帰る。
あの家に。
母がきっと泣いて喜ぶ。
父は無言で頷く。
大叔父は「前例に則り帰還報告を——」とか言う。
面倒くさい。
でも、帰る場所がある。
サル吉が甲板を走り回っていた。
「帰りの船はまた酔うかと思ったけど、意外と平気だな!」
「復路は慣れるものだ」
ポチ兵衛が舳先に立っていた。
「桃次郎殿」
「何だ」
「お前の旅は、悪くなかった」
「……そうか」
「帰ったら、きちんと報告しろ。それが次男の——いや、桃次郎の務めだ」
「ああ」
キジ子が上空を飛んでいた。
「ねーみんなー! 帰りのシーン、ちょっと感動的にしたいから、私が先導して飛ぶわね! 夕日をバックに翼を広げて——」
「やめろ」
「あなたのハートを狙い撃ち! 帰還のヒロイン、キジ——」
パーン!
船頭が矢を放った。
キジ子は回転しながら海に落ちた。
「…………」
しばらくして、びしょ濡れで飛び上がってきた。
「ちょっと! 帰りくらい撃たないでよ!」
変わらない。
全員、何も変わらない。
犬は真面目でうるさい。
猿は軽口でうるさい。
雉はアイドルでうるさい。
兄はアホで迷惑だ。
そして俺は——やっぱりツッコミ役だ。
でも、まあ。
「まぁええか」
呟いた。
船は家路につく。
風が吹いている。
追い風だ。
風に吹かれて生きていく——と兄は言った。
俺は別に、風に吹かれたくはない。
ただ、向かい風ではなかった。
それだけで、今は——十分だ。
*
桃太郎家に帰ると、母が泣いた。
兄を見て泣き、俺を見て泣き、犬を見て泣いた。
父は無言で頷いた。
二回。
二人分。
大叔父が言った。
「では、帰還報告を行う。まず、桃太郎家の歴史と伝統について——」
「大叔父上、報告は簡潔にしたいのですが」
「前例に則り——」
「簡潔に」
「……ならん。手続きというものが——」
「帰ってきたんです。それだけです」
大叔父は不満そうな顔をしたが、母が「いいじゃない、無事ならいいじゃない!」と泣きながら割って入り、会議は二分で終わった。
桃太郎家史上、最短の会議だった。
*
夜。
縁側で月を見ていると、兄が隣に座った。
「次郎」
「何だ」
「鬼退治、どうする?」
「そのうちやる。ちゃんと準備して」
「俺も行くか?」
「……考える」
「お前の方が向いてるよ」
「何がだ」
「桃太郎ってやつが」
「俺は桃次郎だ」
「知ってる。でも、お前の方が桃太郎をちゃんとやれる」
「……意味がわからん」
「わからなくていい」
兄は笑った。
月が明るかった。
かぐや姫は月に帰ったらしい。
兄は鬼ヶ島から追い出されて帰ってきた。
俺は——最初から帰る場所はここだと知っていた。
「兄貴」
「おう」
「もう逃げるなよ」
「約束はしない」
「しろよ」
「善処する」
「…………」
「まあ、次は——誰かに迷惑をかけずに旅するよ。たぶん」
「たぶん」
「たぶんだ」
信用ならない。
だが——まあ、兄は帰ってきた。
面倒くさい兄だ。
迷惑な兄だ。
華があって、要領がよくて、理屈が雑で、無責任で。
でも、なぜか憎めない。
それが——桃太郎という男だった。
俺は桃次郎だ。
次男で、代打で、ツッコミ役だ。
でも、この旅で——少しだけ、自分の足で歩いた気がする。
ポチ兵衛が縁側の下で眠っている。
サル吉が屋根の上で月を見ている。
キジ子が庭の木で羽根を繕っている。
俺の仲間だ。
代打の桃太郎の、代打の仲間が。
いや——代打じゃない。
俺の、仲間だ。
*
後日。
桃太郎家の次男・桃次郎が鬼ヶ島まで渡航し、犬猿雉を従えて帰還したという話は、村中に広まった。
鬼退治はしていない。
兄を連れ戻しただけだ。
だが、村人たちは口を揃えて言った。
「次男の方がしっかりしてるねえ」
「長男はねえ、華はあるけど——」
「次男が将来楽しみだわ」
俺は不本意ながら、「次男の桃太郎」として、少しだけ認められ始めていた。
不本意だ。
本当に不本意だ。
だが——悪い気は、しなかった。
おわり




