第六章 鬼ヶ島、到着
船は三日後に出た。
波は穏やかで、風は追い風で、航海自体は順調だった。
問題は船内が騒がしかったことだ。
「ねえねえ、海って広いわね! 私の可能性みたい!」
「黙れキジ子」
「なにそれ、ひどくない?」
「お前が声を出すたびに船頭が矢を構える」
「……海の上でも撃たれるの?」
「知らんが、あの船頭の目は本気だ」
キジ子は渋々黙った。
三十秒で喋り出したが。
サル吉は船酔いしていた。
「うぇ……山の猿に海はつれえ……」
「木の上にいる時は平気だろうに」
「木と船は違うんだよ……木は自分で掴めるけど、船は勝手に揺れやがる……」
ポチ兵衛だけが、舳先に立って前方を見つめていた。
「見えたぞ」
「何がだ」
「鬼ヶ島だ」
俺は船縁に立ち、前方を見た。
海の向こうに、黒い島影がある。
切り立った岩壁と、その上に広がる鬱蒼とした森。
空気が違う。風の匂いが違う。
あれが、鬼ヶ島。
代々の桃太郎が討伐に向かった場所。
俺の曾祖父も、そのまた先代も、あの島に上陸し、鬼と戦った。
そして今、俺が——代打の次男が、あの島に向かっている。
緊張は、ある。
だが、覚悟はとうにできている。
覚悟というか、諦めに近いが。
*
上陸した。
想像していたのは、険しい岩場と、唸り声を上げる鬼の群れだった。
実際に俺たちを待っていたのは——困り果てた顔の鬼だった。
「あんたたち、桃太郎家の者か?」
浜辺に立っていたのは、一人の鬼だった。
体格は大きい。角は二本。肌は浅黒く、顔には古傷がある。
だが、その表情は——疲れていた。
戦意ではなく、疲労。
怒りではなく、困惑。
「ああ。桃太郎家の桃次郎だ」
「桃次郎? 長男は桃太郎のはずだが」
「長男は失踪した。俺は次男で——」
「ああ、代打か」
「知ってるのか」
「知ってる。と言うか——」
鬼は深いため息をついた。
鬼がため息をつくところを、初めて見た。
「お前の兄なら、もうここにいるぞ」
「…………」
「…………何?」
*
案内されたのは、鬼ヶ島の集落だった。
俺が想像していた「鬼の巣窟」とは、だいぶ違った。
確かに無骨な建物が並んでいるし、鬼たちは皆体格がいいし、武骨な空気は漂っている。
だが、普通に生活がある。市場がある。子鬼が走り回っている。洗濯物が干してある。
鬼ヶ島にも社会と秩序があった。
そして、その社会の片隅に——
「よう、次郎」
兄がいた。
飄々と笑いながら、鬼ヶ島の空き地に小さな小屋を建てようとしていた。
「…………」
俺は何秒か、言葉を失った。
サル吉が口笛を吹いた。
「おー、いたいた。これが兄貴か」
「桃太郎殿か。噂通り、妙な男だ」
ポチ兵衛が低く唸った。
「あら、かっこいいじゃない! ちょっと写真撮っていい?」
「写真は存在しないこの世界で何を言ってるんだキジ子」
俺は兄の前に立った。
「兄貴」
「おう、次郎。遠路はるばるご苦労だな」
「ご苦労じゃない。何してるんだ」
「見てわからんか? 家を建てている」
「どこにだ」
「鬼ヶ島にだ」
「なぜ鬼ヶ島にだ」
兄は真顔で言った。
「やはりここが俺の帰る場所だった」
「…………」
一瞬、全てがどうでもよくなった。
長い旅だった。
兄の手紙に振り回され、各地で兄の痕跡を辿り、仲間を集め、海を渡り、鬼ヶ島に上陸した。
そして着いてみたら、兄は鬼ヶ島で家を建てていた。
もう何も信じられない。
*
鬼側の代表——角の大きい鬼が、俺のところに来た。
「あんたが弟か」
「ああ」
「同情するぞ」
「鬼に同情されるとは思わなかった」
「俺も桃太郎家の人間に同情する日が来るとは思わなかった」
鬼の代表は、腕を組んで兄を睨んだ。
「あいつな、三日前にふらっと来たんだ」
「三日前」
「来て何と言ったと思う」
「想像がつく」
「『帰ってきたぞ!』だ」
「……想像通りだ」
「帰ってきた、だぞ? ここに来たことは一度もないのに。代々の桃太郎が討ちに来る場所だぞ。それを帰ってきたと——」
鬼の代表は頭を抱えた。
「『桃太郎の物語は鬼ヶ島で完成する。ならば鬼ヶ島こそ桃太郎が帰る場所だ』とか言い出してな」
「ああ、それは——」
「かぐや姫が月に帰ったから俺も帰る場所を探す、とかいう理屈がどうのこうの」
「全部聞いたのか」
「聞かされた。二時間」
「すまない」
「いや、あんたが謝ることじゃないが——とにかくだ」
鬼は声を低くした。
「討ちに来るなら、まだわかる」
「ああ」
「なぜ住む」
「…………」
「なぜ、住もうとする」
それが鬼ヶ島の総意だった。
鬼退治に来るのは慣れている。
桃太郎家との戦いは、何代も続く伝統だ。
敵として向き合うことには、鬼なりの覚悟と矜持がある。
だが。
勝手に住み着こうとする桃太郎は、想定にない。
「空き地に小屋を建てようとしただろ」
「うむ」
「鬼の若い衆が止めたんだ。『帰れ』って」
「そうだろうな」
「そしたらあいつ、何て言ったと思う」
「…………」
「『帰ってきたのに帰れとはこれいかに』だ」
「……禅問答を始めたのか」
「禅問答の形式だけ借りた屁理屈だ」
「兄の得意技です」
「しかも若い衆が三人がかりで追い出そうとしたら、するっと避けてな」
「要領はいいんです」
「夜になったら戻ってきた」
「…………粘るな」
「粘る。妙に粘る。力ずくで追い出すのも大人げないし、かといって放っておくと本当に定住しそうだし——」
鬼の代表は、俺をまっすぐ見た。
「頼む。あいつをどうにかしてくれ」
敵に頼まれた。
鬼に、頼まれた。
桃太郎家への依頼が、鬼退治ではなく、兄退治になっていた。
*
「状況を整理しよう」
俺は一行と鬼の代表を集めて、即席の作戦会議を開いた。
場所は鬼ヶ島の広場。
異様な光景だった。
犬と猿と雉と、桃太郎家の次男と、鬼が輪になって座っている。
「俺の目的は、本来は鬼退治だった」
「「「うむ」」」
「だが、鬼退治の前に兄が鬼ヶ島に住み着こうとしている」
「「「うむ」」」
「鬼側は、兄を追い出したい」
「当然だ」
「俺は、兄を連れ戻したい」
「もっともだ」
「目的は違うが——」
俺は鬼の代表を見た。
「『兄をどうにかする』という点では——利害が一致している」
鬼の代表が頷いた。
「そうなる」
「信じられん展開だ。桃太郎家と鬼が手を組むとは」
「歴史上前例がない。だが、前例がないのはお前の兄が原因だ」
「おっしゃる通りです」
ポチ兵衛が唸った。
「鬼と共闘か……複雑な気分だが、目的のためならやむを得ん」
サル吉がにやにやしていた。
「最高だな。鬼と桃太郎側が手を組んで、桃太郎を退治するって。もう昔話の概念が崩壊してるじゃん」
「崩壊させたのは兄だ」
キジ子が翼をぱたぱたさせた。
「でもこれ、かなりドラマチックじゃない? 敵同士が手を組んで——」
「ドラマにしたくてやってるわけじゃない」
「でもドラマよ!」
「黙れ」
俺は立ち上がった。
「明日、兄と話す。本人の口から、全部聞く」
鬼の代表が言った。
「あいつ、口は達者だぞ。気をつけろ」
「知ってます」
「言い負かされるなよ」
「努力します」
風が吹いた。
鬼ヶ島の風は、潮の匂いがした。
明日、兄と再会する。
不本意な旅の、不本意な目的地で。
鬼退治は——たぶん、後回しだ。




