第五章 兄の思想が見えてくる
港町に着いた。
鬼ヶ島への渡し場がある、海沿いの大きな町だ。
船の修繕が終わるまで三日ほどかかるらしく、俺たちはその間、町で情報を集めることにした。
そして、ここでも——兄の痕跡があった。
*
「ああ、うちに泊まっていった若い男なら覚えてるよ」
宿の主人がそう言った。
「桃太郎家の長男だろう。名乗りはしなかったが、顔と雰囲気で何となくわかった」
「何をしていたんです」
「特に何も。うちの裏庭の柵が傾いていたのを直してくれて、飯を食って、夕日を見ながら変なことを言って出ていった」
「変なこと」
「『夕日は帰る場所を知っている。俺はまだ知らない』とかなんとか」
「……はぁ」
サル吉が肘でつついてきた。
「兄貴、各地で格言残しすぎだろ」
「格言じゃない。迷言だ」
「でもさ、なんかパターンが見えてこない? 兄貴の言葉って、全部——」
「帰る場所、だろう」
ポチ兵衛が静かに言った。
「橋もまた帰る場所への道。井戸は深いが心はもっと深い。夕日は帰る場所を知っている。全部、同じことを言っておる」
「帰る場所?」
「あの男は——帰る場所を探しているのだ」
*
その推測は、次の証言で確信に変わった。
港の魚屋の親父が言った。
「あの兄ちゃんな、酒飲みながら、えらく語ってたよ」
「何をです」
「かぐや姫の話」
「……かぐや姫?」
「ああ。『かぐや姫は月に帰った。竹から生まれて、月に帰った。竹と月はだいぶ無関係だが、それでも帰った。ならば俺もどこかへ帰らねばなるまい』って」
「…………」
「酔ってたんじゃないかね」
「酔ってなくてもああいうことを言う人です」
俺は深くため息をついた。
兄の思考回路が、ようやく見えてきた。
帰る宛てに集めた証言を整理すると、こういうことだ。
かぐや姫は月に帰る。
竹から月は意味がわからない。
でも帰っている。
ならば俺もどこかへ帰らねばなるまい。
桃に縁のある場所が思いつかない?
いや、竹と月もだいぶ無関係だ。
なら問題ない。
帰ろう。どこかへ。
理屈が——雑だった。
恐ろしく雑だった。
だが、兄の中では完璧に筋が通っているのだろう。
あの男はそういう男だ。勢いで哲学っぽいことを言い、自分の中でだけ完結する。深く悩むタイプではなく、勢いで結論を出すアホ。
しかし、華があるから、それが妙に説得力を持って聞こえてしまう。
それが厄介なのだ。
*
宿の座敷で、四人——いや、一人と三匹で話し合った。
「つまり、兄上は鬼退治から逃げたのではなく、自分の帰る場所を探していた、と」
「そういうことらしい」
「それを真顔で言うな」
「俺が言ってるんじゃない。兄がだ」
「兄に対して言っておる」
ポチ兵衛は渋い顔だった。
「かぐや姫は月に帰る。だから俺も帰る。この理屈は無茶苦茶だ」
「無茶苦茶だな」
「竹と月が無関係だから桃と何かも無関係でいい、というのは論理ではない。屁理屈だ」
「屁理屈だ」
「やはり信用ならん」
サル吉は大笑いしていた。
「はーっはっは! いやー、面白すぎるわ兄貴! かぐや姫に触発されて放浪って! しかも理屈がガバガバ!」
「笑うな」
「いや、すまん、でもさ——昔話の世界で、昔話に影響されて旅に出るってのは、めちゃくちゃ面白いんだよな」
「面白くない」
「面白いって。だって俺らだって昔話の登場人物みたいなもんだろ? 犬猿雉で桃太郎の供をしてるんだから。兄貴はそれを自覚して、拡大解釈してるだけだよ」
「拡大解釈にも限度がある」
キジ子が翼を広げた。
「私は思うわ! これはロマンよ!」
「ロマン」
「自分の帰る場所を探す旅! それは魂の旅路! 桃太郎家の長男が、名誉よりも自分の居場所を求めて——」
「いや、単に鬼退治が面倒で逃げただけでは」
「ロマンって言ってるでしょ!」
「…………」
全員の反応が、綺麗に違った。
桃次郎——「それを真顔で言うな」
ポチ兵衛——「やはり信用ならん」
サル吉——爆笑。
キジ子——「ロマンだわ!」
誰一人として意見が合わない。
だが、全員が兄の存在感に振り回されている点だけは同じだった。
*
その夜、俺は一人で港の堤防に座っていた。
月が海を照らしている。
かぐや姫は、この月に帰ったのだという。
竹から生まれ、月に帰った。
この世界では、それは教養として、実際にあった出来事として共有されている。
兄は、その話に触発された。
自分も帰る場所があるはずだ、と。
桃から生まれた桃太郎に、帰る場所はどこだ、と。
馬鹿げている。
本当に馬鹿げている。
だが——
「帰る場所、か」
呟いた自分に、少し驚いた。
俺にとって帰る場所は決まっている。桃太郎家だ。
あの面倒くさい家が、俺の家だ。
だが兄にとっては、そうではなかったのか。
長男として。
鬼退治の継承者として。
村の期待を一身に背負う男として。
あの家は、兄にとって「帰る場所」ではなく「役目の場所」だったのかもしれない。
いや——そこまで考えてやる義理はない。
兄は逃げた。
俺は尻拭いをしている。
それだけの話だ。
「桃次郎殿」
ポチ兵衛が隣に座った。
「眠れんのか」
「少し考え事を」
「兄上のことか」
「……まあ」
「あの男は、おそらくこのまま鬼ヶ島に向かう」
「なぜそう思う」
「帰る場所を探していると言ったな。桃太郎に最も縁深い場所はどこだ?」
「…………鬼ヶ島か」
「あの男の理屈で行けば、そうなる。桃太郎の物語は鬼ヶ島で完成する。なら鬼ヶ島こそ帰る場所だ——と、あの手の人間は考える」
「最悪だ」
「最悪だが、筋は通っておる。あの男の中では」
「犬のくせに人の心がわかるのか」
「犬だからわかる。人より鼻が利く」
冗談で言ったのかどうか、ポチ兵衛の声は真面目だった。
「桃次郎殿」
「何だ」
「お前がやるべきことは変わらん。鬼ヶ島に行く」
「ああ」
「ただし、着いた先にいるのは鬼だけではないかもしれん」
「兄がいる、ということか」
「たぶんな」
月が雲に隠れた。
海風が吹いた。
風に吹かれて生きていく、と兄は言った。
その風が、鬼ヶ島に向かって吹いているのだとしたら——
俺は、鬼退治だけでは済まないかもしれない。




