第三章 猿、便乗する
兄から二通目の手紙が届いたのは、山道に差しかかった頃だった。
飛脚は汗だくだった。
「桃次郎様宛て、お手紙です! いやー、追いつくの大変でしたよ。差出人は——」
「兄でしょう」
「はい」
知ってた。
ポチ兵衛が鼻を引くつかせた。
「また妙な匂いがする。この手紙、柿の匂いが混じっておるぞ」
「柿?」
「兄上、柿の産地にでもいたのだろう」
封を切った。
中には、またしても一行。
風と共に去る
俺はしばらく紙を見つめた。
「……何が去るんだ」
「さあな。だが少なくとも責任からは去っておる」
ポチ兵衛の言葉が鋭すぎて、返す言葉もない。
「この手紙も大叔父殿に送るのか」
「いや……もういい。深読みされるのが面倒だ」
「賢明だ」
俺は手紙を懐にしまった。
兄は「風と共に去る」ときた。
前回は「鬼の居ぬに鬼退治」。
何かの暗号なのか。
哲学的な意味があるのか。
それとも、ただ思いつきで書いているだけなのか。
九割方、最後だろう。
*
山道は険しかった。
木々が鬱蒼と茂り、道幅は狭く、足元は落ち葉で滑りやすい。
ポチ兵衛は嗅覚を活かして先を行き、俺は後を付いていく。
「この先に宿場があるはずだ」
「どのくらいだ」
「半日ほど——」
その時だった。
頭上から声が降ってきた。
「おーい」
見上げると、木の上に猿がいた。
猿。
茶色い毛並みで、体格は中くらい。
目がやたらとくりくりしていて、どこか人を食ったような顔をしている。
そして当然、喋っている。
「お前ら、もしかして桃太郎一行?」
ポチ兵衛が即座に構えた。
「何者だ」
「まーまー、そう怖い顔すんなって。俺はサル吉。この辺の山に住んでる」
猿は軽々と枝を渡り、俺たちの前に降り立った。
「桃太郎家の鬼退治、噂になってるぜ。でも長男じゃないって?」
「次男だ。代打だ」
「代打! いいな、その響き。代打の鬼退治って、なかなかドラマだよ」
「ドラマにしたくてやってるわけじゃない」
「で、長男は?」
「失踪した」
サル吉は目を丸くした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「兄貴おもしれーな!」
「笑うな」
「だって面白いだろ! 鬼退治の前夜に逃げるって、なかなかできねえよ!」
「できてほしくなかった」
「しかも手紙まで送ってくるんだろ? さっき飛脚の兄ちゃんが通ったぜ。何て書いてあった?」
「風と共に去る」
サル吉は一瞬黙った。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「はーっはっはっは! 何それ! 最高だな兄貴!」
「笑いごとじゃないんだが」
「面白すぎるだろ! 鬼退治から逃げて、風と共に去るって! 詩人かよ!」
ポチ兵衛が低く唸った。
「おい猿。初対面で失礼だぞ」
「お、犬?」
「ポチ兵衛だ」
「犬と一緒に旅してんの? 王道だねえ」
「王道もなにも——」
「じゃあ次は猿だよな。順番的に」
「は?」
「俺、ついてっていい?」
急だった。
俺はサル吉を見た。
「なぜだ」
「だって面白そうじゃん。兄貴から逃げられた次男の鬼退治とか、こんな話、そうそう転がってねえよ」
「面白がるために来るのか」
「動機としては十分だろ」
「十分じゃないだろう」
「じゃあきびだんごくれ」
「それで動機が成立するのか」
「もらえるならもらう精神だ」
ポチ兵衛が割って入った。
「桃次郎、こういう手合いは信用ならん。軽い。調子がいい。都合が悪くなれば逃げる」
「ひでえな。まあ当たってるけど」
「認めるのか」
「でもよ、本当にやばい時は戻ってくるぜ? たぶん」
「たぶん!?」
頭が痛くなってきた。
だが——正直、偵察要員は欲しかった。
山道はまだ長い。鬼ヶ島までの道のりで、上から見渡せる目があると助かる。
猿なら木登りも高所移動も得意だろう。
「……きびだんご、一つだ」
「おっ、マジ?」
サル吉はきびだんごを受け取った。
ポチ兵衛のように重々しく受け取るわけでもなく、ぽいっと口に放り込んだ。
「うん、まあまあ」
「感想が軽い」
「契約完了ってことで。よろしく、次男殿」
「桃次郎だ」
「桃次、でいい?」
「桃次郎だ」
「了解、桃次」
聞いてない。
ポチ兵衛が深いため息をついた。
「不安しかない」
「大丈夫大丈夫。俺、偵察はうまいぜ」
「それは認める。だが口が軽い」
「口が軽いのは長所だ。情報は回してなんぼだろ」
「回す先を選ばないのが問題だと言っておる」
「細けえなー」
犬と猿が、最初から揉めている。
犬猿の仲、とはよく言ったものだ。
この世界では、それが文字通りの意味を持つ。
*
サル吉が加わって、旅の空気が変わった。
ポチ兵衛と二人の時は、静かで堅実な旅だった。
サル吉が入ると、途端に騒がしくなった。
「なあなあ桃次、兄貴の話もっと聞かせてよ」
「聞いてどうする」
「面白いから」
「面白がるな」
「で、兄貴ってどんな人なの。性格的に」
「……飄々としてて、華があって、人当たりがよくて、妙に自信があって、真顔で意味不明なことを言う」
「最高じゃん」
「最悪だよ」
「好きだろ、兄貴のこと」
「…………」
「図星?」
「黙れ」
サル吉はにやにや笑った。
ポチ兵衛は黙っていたが、耳だけはこちらを向いていた。
*
次の宿場で、また兄の痕跡があった。
「ああ、あの人ね。覚えてるわ」
宿の女将がそう言った。
「若い男の人で?」
「ええ。すごく感じのいい人だったわよ。うちの井戸の蓋が壊れてたのを、ちゃちゃっと直してくれてね」
「……直したんですか」
「それで、お礼に飯を出したら、えらく美味そうに食べてねえ。最後に変なことを言って出ていったけど」
「変なこと」
「『井戸は深いが、心はもっと深い』とかなんとか」
「…………」
サル吉が吹き出した。
「はーっはっは! また出た! 兄貴の迷言シリーズ!」
「笑いごとじゃない」
「いや面白いって! なんで放浪しながらそんな格言っぽいこと言うんだよ!」
「本人の中では格言のつもりなんだろう。たぶん」
ポチ兵衛が渋い顔で言った。
「各地で好かれるのが厄介だ。憎まれていれば追いやすいのだが」
「そうなんだよ。兄貴は——要領がいいんだ。人に好かれる才能がある」
「お前にはないのか」
「……ないわけじゃないと思うが、兄ほどじゃない」
「そうか」
「慰めはないのか」
「ない。事実は事実だ」
犬は正直だった。
サル吉が枝の上から降ってきた。
「まあいいじゃん。兄貴は兄貴、桃次は桃次だろ。俺はお前の旅についてきてんだよ」
「……そうか」
「面白いからだけどな」
「動機が最悪だ」
「でも、お前の旅が面白いってことは、お前が面白いってことだぜ」
それは褒め言葉なのか、からかいなのか。
サル吉の言葉は軽い。だが、時々、妙に核心を突く。
面倒くさい猿だ。
だが、嫌いではなかった。
*
山を越えると、柿の木が並ぶ道に出た。
秋の風に揺れる柿の実が、道の両側に続いている。
「おい桃次、寄り道しようぜ。柿うめえぞ、ここの」
「急ぐんだが」
「いいじゃんちょっとくらい。腹減ったし」
サル吉は身軽に柿の木に登り——途中で固まった。
「……いや、やっぱやめとく」
「何だ急に」
「いや、なんか、柿はちょっと……」
「ちょっと何だ」
「いや、なんでもない。なんでもないんだけど、柿はこう……あんまり……」
ポチ兵衛が低い声で言った。
「猿かに合戦か」
「うるせえ! その話すんな!」
サル吉は木から飛び降りてきた。
顔が引きつっている。
「あれは昔の話だ! 俺とは関係ない!」
「蟹に何かしたのか」
「してない! 俺はしてない! 先祖の話だ!」
「先祖の因果を気にするあたり、多少は心当たりがあるようだな」
「ないって言ってんだろ! ……ただ、柿見ると、ちょっと、こう……」
「こう?」
「臼が降ってきそうな気がする」
「重症だな」
サル吉は柿の道を早足で通り過ぎた。
*
途中、道端で「ここ掘れ」と書かれた立て札を見かけた。
ただの畑の印だったらしいが、ポチ兵衛が立ち止まった。
「…………」
「どうした、ポチ兵衛」
「いや」
「何かあるのか」
「ない」
だが、尻尾が微かに震えていた。
「……掘るなよ」
「掘らないが」
「掘りたくもないが」
「誰も掘れとは言ってないぞ」
「だが書いてある」
「立て札に書いてあるだけだ」
「わかっている。わかっているが——」
ポチ兵衛は足早に立て札の前を通り過ぎた。
サル吉が俺に耳打ちした。
「あの犬、花咲かじいさん系だろ」
「たぶんな」
「『ここ掘れ』がトラウマってなかなかだぜ」
「お前の柿と同じだろう」
「一緒にすんな」
「同じだ」
昔話の世界では、こういう因縁がそこかしこに転がっている。
当人たちは大真面目だが、傍から見ると面白い。
俺だけが、この世界で唯一、全部を俯瞰で見ている気がする。
それが桃次郎という人間の立ち位置だ。
常識人。温度の低い視点人物。
世界の理不尽を全部受けるツッコミ役。
面倒な役回りだが、誰かがやらなきゃならない。
兄がやらなかったから、俺がやっている。
鬼退治も。
ツッコミも。




