第二章 犬、加入する
旅に出て三日目。
俺は早くも後悔していた。
いや、後悔というほど感情的なものではない。ただ単純に、面倒くさい。
道は長い。荷物は重い。宿は質素だ。飯はまあまあだが、母の味噌汁が恋しい。
そして何より——行く先々で、同じことを聞かれる。
「あんた、桃太郎家の人かい?」
最初の村の茶屋で、店主にそう声をかけられた。
「……ええ、まあ」
「でも長男じゃないね?」
「次男です」
「ああ、じゃあ今回は——」
「代打です」
「大変だねえ」
大変である。
この村に限らず、桃太郎家の名は広く知られている。
鬼退治は桃太郎家の家業であり、長男が出立するというのは村々にとっても一大イベントだ。
だから長男ではなく次男が歩いていると、妙な空気になる。
同情と、好奇と、ほんの少しの失望が混じった目で見られる。
「長男さんは?」
「行方不明です」
「まあ!」
まあ、である。
俺は茶を飲み干し、席を立とうとした。
*
「おい」
声をかけられた。
低い声だった。
振り返ると、茶屋の隅に犬がいた。
犬。
四足で立ち、毛並みは短く、体格はがっしりしている。
柴犬と土佐犬の中間くらいの、武骨な犬だ。
そして、その犬が——喋っていた。
「お前、桃太郎家の者だな」
この世界では犬が喋る。
昔話の世界なので、そこに大きな違和感はない。
犬猿雉が桃太郎の供をするのは、いわば社会的に認知された伝統だ。
だが、犬が喋ること自体に慣れることと、犬に話しかけられて動揺しないことは、別の話だ。
「……ああ。桃次郎だ」
「桃次郎? 長男は桃太郎のはずだが」
「長男は失踪した。俺は次男だ」
犬は眉間に皺を寄せた。犬なのに、器用に皺が寄る。
「失踪? 鬼退治の前にか?」
「前夜にだ」
「……呆れた話だ」
「同感だ」
犬はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「名はポチ兵衛。お前の事情、少し聞かせてもらえるか」
「聞いてどうする」
「判断する」
「何をだ」
「お前が信用に足る人間かどうかを」
真面目だった。
犬のくせに、異様に真面目だった。
*
茶屋を出て、村外れの川沿いを歩きながら、俺はポチ兵衛に事情を話した。
兄の失踪。
緊急会議。
代打の決定。
兄の手紙——「鬼の居ぬに鬼退治」。
ポチ兵衛は黙って聞いていた。
途中で一度だけ、鼻を鳴らした。
「その手紙。深い意味があると大叔父殿は言ったのか」
「ああ」
「あるわけがない。駄洒落だ」
「俺もそう思う」
「で、お前はどう思っておる。兄の失踪を」
俺は少し考えた。
「……逃げたんだろう。鬼退治から」
「だろうな」
「理由は知らない。知りたくもない。だが、誰かが行かなきゃならない」
「お前がか」
「他にいない」
ポチ兵衛は立ち止まった。
「お前、被害者だな」
「知ってる」
「だが、文句は言いつつも足は止めていない」
「止めても仕方ないからだ」
ポチ兵衛はしばらく俺を見つめていた。
犬の目は真っ直ぐで、嘘がない。人間よりよほど正直な目だ。
「いいだろう。俺が供につく」
「え?」
「きびだんごはあるか」
「あるが——いいのか? 俺は長男じゃないぞ」
「関係ない」
ポチ兵衛は低く言った。
「俺は人を見る。名前ではなく、足取りを見る。お前の足取りは悪くない。重いが、止まっていない」
「……そうか」
「それに」
「それに?」
「お前の兄は信用できん。金の匂いのする男だ」
「金の匂い? 兄貴は金に興味なさそうだが」
「そういう意味ではない。欲の匂いだ。自分の欲に正直すぎる匂いがする。ああいう手合いは周りが振り回される」
的確すぎて、反論できなかった。
*
きびだんごを渡した。
ポチ兵衛は、きびだんごを両前足で受け取った。
そして、しばらく無言で見つめた。
「……重い」
「きびだんごが?」
「この意味がだ」
きびだんごは、桃太郎家においてただの食べ物ではない。
同行・契約・恩義・加勢の象徴であり、「桃太郎とお供」の関係を結ぶための儀式的な品だ。
ポチ兵衛はそれを、まるで誓いの印のように受け取った。
正直、俺は半信半疑だ。
そもそも俺は正式な桃太郎じゃない。代打だ。きびだんごの契約が有効かどうかも怪しい。
だが、ポチ兵衛は本気の顔をしていた。
「この一つ、確かに受け取った。以後、お前の護衛は俺が務める」
「そこまで重くしなくても——」
「重くする。義理とはそういうものだ」
犬が義理を語っている。
しかも、妙に説得力がある。
俺は諦めた。
「……よろしく」
「うむ」
*
ポチ兵衛と旅を始めて二日。
この犬は、とにかく真面目だった。
朝は俺より先に起きている。
道中は常に周囲を警戒している。
野営の時は俺が寝たあとも、しばらく番をしている。
それは頼もしいのだが——口も多い。
「桃次郎、歩き方が雑だ。足音が大きい」
「犬に歩き方を注意されるとは思わなかった」
「敵地に向かう以上、気配の管理は基本だ」
「まだ村の近くだろう」
「油断は敗北のはじまりだ」
真面目すぎる。
「桃次郎、その荷物の背負い方では肩を痛めるぞ」
「犬に荷物の講釈をされるとは」
「俺は荷物を背負えんが、見ればわかる」
「見るだけかよ」
「指導も戦力のうちだ」
面倒くさい。
だが、悪い気はしなかった。
口うるさいが、全部こっちのことを考えて言っている。
桃太郎家では「次男のスペア」としか見られなかった俺を、ポチ兵衛は最初から「守るべき主」として扱っている。
それが少しだけ、くすぐったかった。
*
次の村に着いた時、また聞かれた。
「桃太郎家の方? 長男さんじゃないの?」
「次男です。代打です」
村人の顔に、同情が浮かぶ。
「大変ねえ……長男さん、どこ行っちゃったのかしら」
「知りません」
「でもねえ、噂では——長男さん、この辺りを通ったって話もあるのよ」
「……何?」
「三日ほど前、この村の外れの橋が壊れかけていたんだけど、通りすがりの若い男がひょいっと直してくれたらしいの」
「それが兄だと?」
「わからないわ。でも、すごく感じのいい人だったって。なんか、変なことを言って去っていったみたいだけど」
「変なこと?」
「『橋もまた、帰る場所への道である』とかなんとか」
「…………」
ポチ兵衛が低く唸った。
「やはり信用ならん」
俺は深くため息をついた。
兄は逃げているのに、各地で妙に好かれている。
橋を直したり、困っている人を助けたり、変な理屈を語って去ったり。
迷惑をかけているのに、爪痕だけは残していく。
それが余計に腹立たしい。
自分にはできないことを、兄は息をするようにやっている。
しかもそれは、鬼退治とは何の関係もない。
「桃次郎」
「なんだ」
「お前の兄は、おそらく悪人ではない」
「知ってる」
「だが、迷惑だ」
「それも知ってる」
「お前に同情する」
「……ありがとう」
犬に同情される人生だった。
それでも、歩くしかない。
兄がどこにいるのかは知らない。
兄が何を考えているのかもわからない。
だが、鬼退治は俺の仕事になった。
なら、行くしかない。
ポチ兵衛が隣を歩いている。
口うるさいが、頼もしい犬だ。
東の街道は、まだ続いていた。




