第一章 兄、失踪する
俺の名前は桃次郎。
桃太郎家の次男だ。
桃太郎家がどういう家かというと、代々鬼退治を担ってきた名家である。
鬼ヶ島への討伐権と名誉を持ち、この村と周辺地域では破格の格式を誇る由緒正しき一族——と、大叔父は事あるごとに言う。
俺からすれば、しきたりが多くて面倒くさい家、という認識のほうが正確だ。
この家には、いくつかの鉄則がある。
長男が鬼退治を継ぐ。
次男以下は「万一の備え」。
重要事項は会議で決める。
前例のないことはしない。
つまり、俺は生まれた時から「保険」だった。
長男が立派に鬼退治をする限り、俺の出番は永遠に来ない。
それでよかった。
本気でそう思っていた。
だが、兄は——桃太郎は、そうではなかったらしい。
*
その夜のことだった。
部屋で横になっていた俺の障子が、すっと開いた。
月明かりの中に、兄の影が立っている。
「……兄貴?」
「起きていたか」
兄は縁側に腰を下ろした。
いつも通りの、飄々とした顔だった。明日はいよいよ鬼退治の出立だというのに、緊張の気配がまるでない。
いや、むしろ妙に晴れやかな顔をしていた。
「何か用か?」
「次郎」
「なんだ」
「俺は——」
兄はそこで一度、月を見上げた。
「風に吹かれて生きていく」
「…………」
「そういうことだ」
「…………何が?」
兄はにっこりと笑った。
それは桃太郎家の長男として、村中から期待を背負ってきた男が見せる顔ではなかった。
もっと軽い。
もっと無責任な。
しかし、どこか本気の顔だった。
「じゃあな」
「おい、待て」
待たなかった。
兄は障子を閉め、廊下を歩く足音が遠ざかり、やがて消えた。
あとには月明かりだけが残った。
俺は布団の上で天井を見つめ、しばらく考えた。
いや、考えたくなかった。
だが、嫌な予感だけは確実にあった。
*
翌朝。
家は大混乱だった。
「いない!」
母の叫び声で目が覚めた。
「桃太郎がいない! 部屋にも、道場にも、厠にもいないのよ!」
父は無言で立ち上がり、兄の部屋を確認しに行った。
そして無言で戻ってきた。
「いなかった」
その一言が、全てだった。
桃太郎家にとって、鬼退治は家業だ。
長男の出立は一族の威信に関わる。
その長男が、出立の朝に消えた。
これが何を意味するか。
面倒ごとの始まりである。
*
桃太郎家の本家分家総出の緊急会議は、その日の午前中に召集された。
広間には十数人の親族が集まっていた。
本家の大叔父を筆頭に、分家の叔父たち、従兄弟たち、遠縁の親戚まで。
全員が神妙な顔をしている。
大叔父が口を開いた。
「さて」
この「さて」が長い。
大叔父の「さて」には前振りがある。
「我が桃太郎家は、古来より鬼退治を担い——」
始まった。
「——代々の当主が誇り高き使命を果たし——」
始まってしまった。
「——その栄光ある歴史は、遡ること十七代前——」
十七代前から始めるのか。
俺は心の中でため息をついた。
周りの親族も、何度も聞いた話に微妙な顔をしている。だが誰も止めない。大叔父を止める前例がないからだ。
この家は、前例のないことはしない。
「——して。本題に入る」
四半刻が経っていた。
「長男・桃太郎が出立の朝に失踪した。これは桃太郎家の歴史において前代未聞の事態である」
それはそうだ。
「しかし、鬼退治は行わねばならぬ。桃太郎家の名に懸けて」
それもそうだ。
「では、誰が行くか」
全員の視線が、俺に集まった。
知ってた。
結論は最初から見えている。
この家で、長男の代わりになれるのは次男しかいない。
だが、大叔父は手続きを省略しない。
「まず、候補者の選定から入りたい」
選定も何もないだろう。
「本家筋の男子で、武芸の素養があり、年齢的に適格な者——」
「俺でしょう」
俺は手を挙げた。
広間が静まった。
大叔父が俺を見た。
「次郎」
「はい」
「発言は挙手の後、指名を受けてからだ」
「挙手しました」
「では指名する。桃次郎」
「ですから、俺でしょう」
大叔父は眉をひそめた。
「結論を急ぐでない。手続きというものがある」
「結論は変わりますか?」
「……変わらぬ」
「では、俺が行きます」
会議室にため息が広がった。
安堵のため息と、面倒ごとが片付いたため息と、次男に押しつけてしまったことへの微かな罪悪感のため息が混ざっていた。
父が立ち上がった。
「次郎」
「はい」
「立派に果たせ」
期待の伝え方が、雑だった。
母が泣きながら俺の袖を掴んだ。
「次郎、気をつけるのよ! お弁当は何がいい? きびだんごは持った? 替えの足袋は?」
「母上、まだ出立してません」
「でも心配で!」
こういう時、母は長男にも次男にも等しく心配する。
それだけが、この家で唯一の救いだった。
*
出立の準備をしていると、飛脚が来た。
「桃太郎家宛て、お手紙でございます」
差出人は——兄だった。
全員が集まった。
大叔父が厳かに封を切り、中の紙を広げた。
そこには、たった一行。
鬼の居ぬ間に鬼退治
沈黙が落ちた。
大叔父が顎に手を当てた。
「……ふむ。深い」
「深いですかね」
「これは——鬼のいない場所にこそ、真の鬼がいるという意味ではないか」
「いいえ、駄洒落でしょう」
「次郎、物事を表面だけで捉えるな」
「駄洒落を深読みする方が問題では?」
母が手紙を奪い取った。
「太郎の字だわ! 元気なのね! でもどこにいるのかしら!」
父は手紙を一瞥し、一言だけ言った。
「……馬鹿が」
珍しく、父の言葉に全面的に同意した。
*
翌朝。
俺は桃太郎家の門の前に立っていた。
腰には刀。
背には荷物。
腰巾着にはきびだんご。
そして胸の中には、兄への怒りと、呆れと、ほんの少しの——いや、やめておこう。
「行ってまいります」
母が泣いた。
父が頷いた。
大叔父が「前例に則り、東の街道から出立せよ」と言った。
前例に則る出立ルートがあるらしい。
この家は本当に面倒くさい。
俺は歩き出した。
桃太郎家の長男が行くはずだった、鬼退治の旅に。
次男の代打として。
空は快晴だった。
鳥が鳴いていた。
風が吹いていた。
風に吹かれて生きていく、と兄は言った。
知らんがな、と俺は思った。
こうして——俺の、不本意な旅が始まった。




