第一話:食む者、食われる者
コンクリートの床は冷たく、どこからか聞こえる水滴の音が、
終わりのない時間を刻んでいた。
廃棄された地下駐車場。
湿気とカビ、そして古い血の臭いが充満するその場所で。
桐生アキトは肋骨のあたりを押さえながら、
荒い息を吐いていた。
「おい、アキト。そろそろ限界だろ? 返すアテ、本当にあんのかよ」
暴力団『黒嶺会』の借金取り、
鮫島が退屈そうにタバコの灰をアキトの前に落とす。
アキトの視界は右半分が腫れ上がって塞がっていた。
口の中は鉄の味がする。
借金額は利子を含めて三千万。
かつて経営していた町工場が連帯保証詐欺に遭って以来、
雪だるましきに膨れ上がった数字だ。
「……あと、三日……」
「三日待てば金が湧いてくるのか? ああん?
臓器全部売っても足りねえんだよテメェの体は」
鮫島が革靴の爪先でアキトの腹を蹴り上げる。
激痛に声も出ない。
これが現実だ。
ヒーローなんていない。
奇跡なんて起きない。
ただ、搾取される側と搾取する側がいるだけだ。
「まあいい。テメェに最後のチャンスをやるよ」
鮫島は懐から一枚のパンフレットを取り出し、アキトの顔の前に放った。
薄汚れたコンクリートの上に落ちたそれは、
この陰惨な場には不釣り合いなほど白く、清潔で。
未来的だった。
『イージス製薬 特別治験ボランティア募集』
『国営防衛事業への貢献。報酬:完全免責』
「イージス……?」
「最近話題のデカい製薬会社だ。
なんでも、新しい『対怪獣用装備』の適合者を探してるとか。
ま、実験動物だよな。行ってこい。
生きて帰ってこれたら、借金はチャラにしてやる」
選択肢などなかった。
アキトは震える手で、その白い紙を掴んだ。
ネオ東京湾岸エリア、第7埋立地。
イージス製薬の巨大な研究所は、要塞のようにそびえ立っていた。
集められたのは二十名ほど。
全員がアキトと同じような目をしていた。
借金、犯罪歴、社会的な死。
失うもののない人間特有の、虚無とわずかな渇望が入り混じった目だ。
白衣を着た男が現れた。
線の細い、神経質そうな男だ。
名札には『主任研究員:葛城』とある。
「ようこそ、ゴミ……失礼、志願者の皆様」
葛城は薄く笑った。
「あなた方には、我が社が開発した生体兵器
『G・スーツ』の装着テストを行っていただきます。
近年増加してい『バイオ・ビースト』に対抗する唯一の手段です」
バイオ・ビースト。
3年前から突如として出現し始めた異形の怪物たち。
既存の兵器が通用せず、都市部への被害は甚大だった。
「適合すれば、あなた方はヒーローだ。富も名誉も、
過去の清算も約束しましょう。ただし」
葛城が指を鳴らすと、部屋の奥のガラス壁が透明になった。
その向こうには、椅子に拘束された男がいた。
上半身裸の男の背中に、黒いスライムのようなものがへばりついている。
「あああああ! 痛え! 助けてくれ! 食われる! 食われてる!!」
男が絶叫する。
黒いスライムは脈打ちながら男の皮膚を食い破り、筋肉の繊維に入り込んでいく。
血管がどす黒く浮き上がり、男の肉体が異常な膨張を始めた。
「失敗例です」
葛城は冷淡に言った。
「適合しなければ、スーツはホストを『餌』として認識し、
捕食します。骨の髄までね」
参加者たちの間に悲鳴と動揺が走る。
逃げ出そうとする者もいたが、武装した警備兵に阻まれた。
「契約書にはサインしましたね? 逃亡は即時射殺となります」
アキトは動かなかった。
恐怖はあった。
だが、あの地下駐車場での絶望に比べれば。
まだ「痛み」の先に可能性があるだけマシに見えた。
「次は、整理番号13番。桐生アキト」
呼ばれた。
アキトは拳を握りしめ、ガラスの向こうの処刑室へと歩みを進めた。
椅子に縛り付けられ、背中に冷たい「それ」が押し当てられた。
最初は冷たいゼリーのような感触だった。
だが、すぐにそれは灼熱に変わった。
「ぐ、ああああああ……ッ!?」
背骨にドリルをねじ込まれるような激痛。
『それ』は生きている。
アキトの肌を噛み、神経に触手を伸ばし、融合しようとしている。
脳内に他者の声が響く。
言葉ではない。
純粋な『飢餓感』と『闘争本能』の叫び。
《食わせろ……力を……寄越せ……!》
(ふざけるな……!)
アキトは意識が飛びそうになるのを歯を食いしばって耐えた。
ここで負ければ餌だ。
あの借金取りに蹴られるだけのゴミに戻るか、
それともこの化け物を手懐けて生き残るか。
(俺の体だ……! 勝手に食ってんじゃねえぞ、コラァ!!)
アキトの怒りが、生存本能が、スーツの侵食に抗う。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
黒いスライムが赤く変色し、アキトの全身を一気に覆い尽くした。
「適合率……上昇! 80、90……安定領域に入ります!」
「まさか、あの廃棄寸前の『レッド・コア』が?」
研究員たちの驚愕の声が遠く聞こえる。
痛みが引いていく。
代わりに、全身に力が満ちてくるのが分かった。
コンクリートの壁すら粉砕できそうな、暴力的な全能感。
アキトはゆっくりと立ち上がった。
拘束具が飴細工のように引きちぎられる。
鏡に映っていたのは、人間ではない。
赤黒い甲殻と筋肉が絡み合ったような、禍々しい『ヒーロー』の姿だった。
「……悪くねえ」
アキトの声は、金属が擦れるような低い響きを帯びていた。
こうして、最底辺の男は、最悪の『正義』を手に入れた。




