セリナ編 第二十一章 セリナの救済⑤ 新しい日常へ
その日の夕方。家に帰ると、台所から湯気の立つ匂いが漂ってきた。鍋の中で何かが煮える音、包丁がまな板に当たる規則的な音。いつもの家だ。
「おかえり」
母さんが振り返って言う。
「ただいま」
そう返したセリナ姉の声は、いつも通りで、でもどこか柔らかかった。
エレナは先に靴を脱ぎ、居間に飛び込んでくる。
「おかあさん! きょうね、ちゃんところばなかったよ!」
「そう、えらいわね」
母さんが笑って言うと、エレナは胸を張る。
「セリナねえちゃんが、みててくれたから!」
その言葉に、セリナ姉は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、それからしゃがみ込んだ。
「エレナ」
「なあに?」
「エレナが頑張ったんだよ」
優しく、でもはっきりと。
「おねえちゃんは、そばにいただけ」
エレナはきょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いっしょにがんばったんだね!」
「……そうだね」
セリナ姉は、そう答えながらエレナの頭を撫でた。
その仕草には、もう焦りも、恐れもなかった。守らなきゃ、という必死さではなく、信じて見守る余裕があった。
夕食の席。父さんが帰ってきて、いつものように一日の話をする。笑い声が混じり、湯気が立ち、食器が鳴る。
セリナ姉は、無理に明るく振る舞うこともなく、かといって沈み込むこともなく、自然にそこにいた。
「……ねえ、ルーメン」
食後、片付けを手伝いながら、セリナ姉が小さく言う。
「今日ね、不思議だったの」
「なにが?」
「体が、軽いの」
そう言って、自分の手を見る。
「ずっと背負ってたものが、なくなったみたい」
「それは……」
「うん」
セリナ姉は、はっきりと頷いた。
「ちゃんと、終わったんだと思う」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
夜。布団に入る前、エレナが言う。
「セリナねえちゃん」
「なあに?」
「また、あしたも、いっしょにがっこういこうね」
「もちろん」
「ルーメンにいちゃんも!」
「うん」
三人で笑う。
灯りが落ち、家が静かになる。その静けさは、不安の沈黙ではなく、安心が満ちた静けさだった。
布団の中で、俺はそっと思う。
(……セリナ姉は、救われた。)
でもそれは、誰かに“直された”からじゃない。気持ちを理解され、受け入れられ、共に在ることを選べたからだ。守ることも、頼ることも、どちらも間違いじゃない。
そうして、兄弟の日常は、確かに取り戻された。
静かで、温かい夜が、家族を包んでいた。
翌朝の空は、澄み切っていた。窓から差し込む光はやわらかく、カーテンの端を静かに揺らしている。遠くで鳥の鳴く声がして、家の中には、いつもの朝の音が戻ってきていた。
エレナが先に起きて、ぱたぱたと廊下を走る。
「おはよー!」
その声に続いて、セリナ姉の足音がする。以前のように急ぐことも、気を張ることもない、自然な歩調だった。
「おはよう、エレナ」
「おはよう、セリナねえちゃん!」
二人の声が重なる。
その様子を見ながら、俺は胸の奥で、静かに息を吐いた。
……もう、大丈夫だ。
誰かを守るために、自分を削る必要はない。誰かの痛みを、すべて背負う必要もない。一緒に立って、一緒に歩いて、一緒に転びそうになったら、支え合えばいい。それだけでいい。
朝の食卓に並ぶ湯気。母さんの笑顔。父さんの声。エレナの無邪気な話。そして、穏やかにそれを聞くセリナ姉。そのすべてが、当たり前で、かけがえのないものだと、今ならはっきり分かる。
俺は小さく呟いた。
「……ありがとう、セリナ姉」
その声は、届かなくてもいい。感謝は、もう伝わっている。
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