セリナ編 第二十一章 セリナの救済③ 傷と痣の消失
俺は何も言わず、その手を握ったまま、隣に座り続けた。今のセリナ姉に必要なのは、説明でも理屈でもない。ただ、泣いていい場所だった。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「……セリナ? どうしたの?」
扉が開き、母さんが部屋に入ってくる。
泣き声を聞きつけたのだろう、少し強張った表情で、俺とセリナ姉を見比べた。
「ルーメン、何を……」
言いかけて、母さんは言葉を止めた。
セリナ姉の腕。首元。足元。そこにあったはずの、無数の傷と痣が、一切消えている。
「……え?」
母さんは一歩近づき、息を詰めるようにしてセリナ姉の腕を取った。
「……ない……?」
次に、服の上からそっと背中に触れる。確かめるように、何度も。
「……全部……消えてる……」
母さんの声は、震えていた。
俺は静かに言った。
「セリナ姉の話を、全部聞いた。それで……気持ちに寄り添って、一緒に整えただけだよ」
母さんは、ゆっくりとセリナ姉の前にしゃがみ込んだ。
「……セリナ」
セリナ姉は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「……ごめん……なさい……」
絞り出すような声だった。
「心配……かけて……お姉ちゃんなのに……ちゃんと……できなくて……」
その瞬間だった。母さんは、迷いなくセリナ姉を抱きしめた。強く。逃がさないように。でも、痛くならないように。
「……違うわ」
母さんの声は、優しく、はっきりしていた。
「そんなに辛かったのに、誰にも言えずに頑張ってたんでしょう」
セリナ姉の肩が、びくりと揺れる。
「気づいてあげられなくて……ごめんね」
母さんは、セリナ姉の髪を、何度も撫でた。
「セリナはね、今のままで、もう十分立派なお姉ちゃんよ」
顔を上げ、まっすぐ目を見て続ける。
「父さんも、私も、ルーメンも、エレナも。みんな、そう思ってる」
セリナ姉の瞳が、揺れた。
「そんなに気負わなくていいの。誰かを守るために、自分を壊す必要なんて、ないのよ」
母さんは、少しだけ微笑んだ。
「これからはね、ちゃんと自分のための時間も使いなさい。あなた自身の未来のために」
「……うん……」
セリナ姉は、母さんの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。今度は、恐怖や罪悪感の涙じゃない。救われた人間が流す、安堵の涙だった。
俺は、その光景を少し離れた場所から見守りながら、胸の奥で思う。
(……本当に、よかった)
この家族は、ちゃんと繋がっている。壊れそうになっても、離れそうになっても、また手を取り合える。
セリナ姉は、救われた。そして、これから、前に進める。
それから数日が過ぎた。あれほど張り詰めていた家の空気は、少しずつ、元の温度を取り戻していった。朝になれば朝の音がして、夕方には夕方の匂いがする。当たり前だったはずの時間の流れが、ようやく自然に感じられるようになった。
セリナ姉は、部屋に閉じこもることがなくなった。朝はきちんと起きて、母さんを手伝い、エレナの身支度を見てやる。ただ、以前と違うのは、その距離感だった。
「エレナ、靴ひも結べる?」
「うん、できるよ」
そう言って、エレナが少し不器用に結ぶのを、セリナ姉は横で見守る。手を出したくて、でも出さない。焦らず、口を出しすぎず、ちゃんと待つ。
結び終えたエレナが胸を張ると、セリナ姉は柔らかく笑った。
「できたね。えらいよ」
その声には、以前のような切迫感はなかった。守らなきゃ、という義務ではなく、見守りたい、という自然な気持ち。
俺は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
(……少し、大人になったな)
無理に背伸びをしていた「お姉ちゃん」じゃない。自分の弱さを知った上で、それでも誰かのそばに立てる、そんな在り方。
エレナも、確かに変わっていた。転ぶことは、ほとんどなくなった。歩き方も、走り方も、どこか慎重で、でも怯えてはいない。
「ルーメン兄ちゃん、みて」
そう言って、少しだけ高い段差を、ぴょんと跳ぶ。
「……すごいじゃないか」
そう言うと、エレナは誇らしげに笑った。
「もうね、だいじょうぶなの」
その言葉を聞いて、セリナ姉の肩が、ほんの少しだけ緩む。
それでも、夜になると、時々、セリナ姉は考え込むような表情をする。完全に不安が消えたわけじゃない。けれど、それを一人で抱え込むことは、もうしなくなっていた。
「……ルーメン」
ある晩、そう呼ばれて、隣に座る。
「私さ……」
少し迷ってから、続けた。
「また、怖くなったら……ちゃんと、言うね」
その一言に、胸が温かくなる。
「うん。それでいい」
俺はそう答えた。
助けることも、助けられることも、どちらか一方じゃなくていい。この家族は、そうやって、また前に歩いていく。
窓の外には、静かな夜。風は穏やかで、影はただの影だった。もう、追いかけてくるものはない。
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