セリナ編 第十九章 セリナの代償行為⑥ 普通じゃない
部屋の扉を閉めたあと、廊下に残った空気はひどく重かった。俺はその場からすぐに動けず、壁に背を預ける。胸の奥が、じわじわと締め付けられるように痛んだ。
……治らない。その事実が、何度も頭の中で反響する。癒し魔術が効かないなんて、今まで考えたこともなかった。
「……ルーメン」
母さんが、小さな声で俺を呼んだ。
振り返ると、母さんはセリナ姉の部屋の扉を見つめたまま、立っていた。その表情には、不安と焦り、そして母としての責任が重なっている。
「これ……普通じゃないわよね」
「……うん」
短く答える。
「傷の場所も、出方も……今まで見てきた怪我とは、全然違う」
母さんは、腕を抱くようにして続けた。
「ヒーリングが効かないなんて……そんなこと、聞いたことがない」
俺も、同じだった。
「……原因が、分からない」
それが、何より怖い。
剣術の怪我でもない。転倒でもない。誰かに襲われたわけでもない。それなのに、確かに存在する傷と痣。しかも、時間が経っても消えず、むしろ増えているように見える。
「……母さん」
少し迷ってから、口を開いた。
「父さん、今日は……」
「遅いわ」
母さんは即答した。
「仕事が立て込んでるって言ってた。戻るのは、たぶん夜になる」
その言葉に、胸の奥がざわつく。待っていられるだろうか。
セリナ姉の様子を思い出す。表面上は落ち着いているけれど、内側では何かが進んでいる。
「……もし」
母さんが、ためらいがちに続ける。
「もし、このまま良くならなかったら……」
言葉が、そこで止まった。続きを言わなくても、何を指しているのか分かる。
「……教会?」
俺が口にすると、母さんはゆっくり頷いた。
「ええ。イーストレイクの教会なら、私たちよりずっと多くの事例を知っているはず」
聖職者たち。癒し魔術を専門に扱い、長い年月、多くの人を見てきた存在。
俺の魔術は強力だが、万能じゃない。それを、今日ほど思い知らされた日はなかった。
「……父さんに、相談しないと」
「そうね」
母さんはそう言いながらも、視線は再びセリナ姉の部屋へ向かう。
「でも……セリナには、まだ言えないわ」
その言葉に、俺も頷いた。今のセリナ姉は、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。これ以上、不安を重ねるわけにはいかない。
「……今日は、様子を見る」
俺は、静かに言った。
「でも、明日になっても変わらなかったら……」
言葉を切る。その先を、簡単には口にできなかった。
母さんは、俺の横に並び、同じ方向を見つめる。
「……ルーメン」
「なに?」
「ありがとう」
突然の言葉に、少し驚いた。
「一人で抱え込まないでくれて」
俺は、首を横に振る。
「……抱え込める状況じゃないだけだよ」
正直な気持ちだった。
その時、部屋の向こうから、小さな物音がした。ベッドが軋む音。布が擦れる音。
「……起きてる」
母さんが、そっと呟く。
「行ってあげた方がいいわね」
「……うん」
俺は、セリナ姉の部屋の扉の前に立つ。ノックしようとして、手を止めた。
今、声をかけていいのか。迷いながらも、深く息を吸う。扉の前に立ったまま、俺はしばらく動けなかった。
中からは、はっきりとした物音は聞こえない。けれど、気配は確かにある。眠っているわけじゃない、それだけは分かった。
「……セリナ姉」
小さく呼びかけてみる。返事はない。
母さんは少し離れたところで、黙って見守っていた。無理に背中を押してこないのが、かえってありがたかった。
俺は、ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触が、やけに現実感を伴って伝わってくる。
……どう声をかければいい?「大丈夫?」、「痛いところはない?」そんな言葉は、もう何度も使ってきた。
そして、そのたびに、セリナ姉は「大丈夫」と答えてきた。
本当に聞きたいのは、きっと別のことだ。怖くないのか。一人で、抱え込んでいないか。でも、それを聞くことで、逆に追い詰めてしまう気もする。
俺は一度、手を離し、深く息を吸った。廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を落としている。その影を見て、胸の奥が、ひくりと痛んだ。
……影。あの黒い影は、もう現れていない。エレナも、こけていない。怪我もしていない。それなのに。
「……おかしい」
思わず、声に出ていた。異変は、確かに止まったように見える。けれど、何かが終わった感じはしなかった。
むしろ、形を変えて、内側に沈み込んだような、そんな感覚。セリナ姉の部屋の向こう側。そこにあるのは、静けさだ。けれど、その静けさは、安心できるものじゃない。
「……ルーメン」
母さんが、そっと声をかけてきた。
「無理しなくていいのよ」
「……うん」
そう答えたものの、足は動かなかった。今、声をかけなければ。今、そばにいなければ。そんな思いが、胸の奥で強くなる。俺は、もう一度ドアノブに手をかけた。
……逃げない。癒し魔術が効かなかったとしても。原因が分からなくても。せめて、独りにはしない。そう心に決めて、扉の前で立ち止まる。
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