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前世編 第七章 陽だまりの十年――春の光の中で(前半)

第七章 陽だまりの十年――春の光の中で(前半)

 朝の光は、かつてのように僕を刺し貫く刃ではなかった。

 カーテンの隙間から滑り込む陽光は、微かな埃を黄金色に躍らせ、寝室の空気をゆっくりと、優しく温めていた。

 意識が覚醒へと向かう過程で、僕は無意識に自分の胸に手を置いた。かつてそこにあった、重い石を埋め込まれたような鈍い痛み、そして呼吸をするたびに肺を切り裂くような焦燥感は、もうどこにもなかった。

 一階へ降りると、台所から漂ってくるのは懐かしいコーヒーの香りと、妻が手際よく準備する朝食の匂いだった。 窓の外では、九州の豊かな自然が育んだ小鳥たちが、新しい一日の始まりを祝福するように囀っている。

 「おはよう」

 妻の声が、かつての掠れた「おかえり」ではなく、澄んだ響きを持って僕を包む。

 「ああ、おはよう」

 そんな、当たり前すぎる言葉のやり取り。 けれど、あの地獄のような部署を離れてから五度目の春を迎えた今、この「普通の朝」こそが、僕にとって何物にも代えがたい奇跡の集積だった。

 娘が階段を駆け降りてくる。真新しい制服のスカートを気にしながら、鏡の前で髪を整えている。

 「いってきます!」

 弾けるような笑顔を残して玄関を飛び出していく彼女の背中を見送るたび、僕は胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。 かつて深夜に帰宅し、寝顔に「ごめんな」と呟くだけだったあの頃の僕に、教えてやりたい。お前が命を削って守ろうとした未来は、今、こうして目の前で眩しく輝いているのだと。


 会社での空気も、まるで別世界のようだった。

 新しい部署は、数字よりも「人間」を重んじる場所だった。

 「川田さん、無理せず行きましょう。体調が第一ですから」

 新しく上司となった人の、穏やかで厚みのある声。 かつて「辞められないだろ」と嘲笑ったあの男の影は、もうこのオフィスには存在しなかった。

 昼休み、僕は窓の外に広がる青空を見上げながら、深い、深い呼吸をした。 誰かの視線を恐れて身構える必要も、パソコンの画面に映る罵声を直視して指を震わせることもない。 久しぶりに、自分の肺に新鮮な空気が満ちていく。 僕は今、確かに「生きている」のだという実感。それは、砂漠で一滴の水を飲んだ時のような、切実な喜びだった。

 休日は、家族のための時間になった。

 中古車を走らせ、近くの公園や温泉地、海沿いの道をドライブする。

 ある日、公園の芝生に寝転んでいた娘が、誇らしげに何かを掲げて駆け寄ってきた。

 「パパ、見て! 四つ葉のクローバー!」

 彼女の小さな掌の上に乗った、緑の欠片。

 「これ、幸せの印なんだって。パパにあげる」

 その言葉に、隣でシートを広げていた妻が柔らかく笑う。

 「幸せ」――。かつて、辞書の中にしか存在しないと思っていたその言葉を、僕は今、娘の温かな指先から受け取っていた。


 春の庭では、あの日、地獄の淵で植えた一本の梅の木が、見事なまでに咲き誇っていた。

 かつて、固く閉じた蕾のまま冬の嵐に耐えていたあの細い枝が、今では真っ白な花をいくつもつけ、誇らしげに天を仰いでいる。

 中学二年生になった娘は、自分の部屋から持ってきたカメラを構えて言った。

 「パパとママ、梅の木の下に並んで!」

 僕たちは照れくさそうに笑いながら、肩を寄せ合ってカメラのレンズを見つめた。

 シャッターの音と共に、風が吹き抜ける。 白い花びらが雪のように舞い、世界が一つに溶け合うような錯覚に包まれた。 写真の中に切り取られた僕たちの笑顔は、あの頃の「影」を完全に拭い去った、光そのものの色をしていた。


 季節が夏へと移り変わる頃、娘の吹奏楽部での活動は佳境を迎えていた。

 彼女が選んだ楽器はトランペット。 かつて僕がドラムを叩き、リズムで己を刻んだように、彼女は息を音に変え、旋律で世界を彩ろうとしていた。

 「パパ、今度の発表会、絶対に来てくれる?」

 「もちろん。一番前で聴くよ」

 その約束の日、土曜日の体育館は、独特の熱気と緊張感、そしてワックスの匂いが入り混じった、あの懐かしい吹奏楽の空気で満ちていた。

 娘がステージの中央に立ち、銀色に輝くトランペットを構える。

 静寂。

 そして、最初の一音が響いた瞬間、僕の視界は一気にぼやけた。

 力強く、それでいてどこか優しさを孕んだその音は、体育館の天井を突き抜け、僕の魂を直接震わせた。

 「ああ、こんな音を出せるようになったんだな……」

 娘が成長し、自分の力で誰かに届く音を紡いでいるという事実。隣で妻が、そっとハンカチを差し出してくれた。 僕も彼女の手を握り、ステージの上の娘を見つめ続けた。


 秋の運動会、校庭に立つ娘の姿は、僕が知っていた小さな子供ではなかった。

 リレーでバトンを受け取り、懸命に土を蹴って走る。 ゴール直前で転んでも、彼女はすぐに立ち上がり、泥だらけのまま笑顔で走り抜けた。

 「パパ、見てた? 転んだけど、最後まで走ったんだよ!」

 夕食の席で、誇らしげに語る娘。

 「うん、ちゃんと見てた。最高にかっこよかったよ」

 「ほんと?」

 「ほんとさ」

 きらきらと輝く彼女の瞳。その輝きは、かつて絶望の中で見上げた梅の花の白さと同じだった。 この笑顔を守るためなら、僕はどんな季節も越えていける。

 冬が来れば、家族でコタツに入り、みかんを剥く。 ストーブの上でシュンシュンと鳴るヤカンの音、テレビから流れる他愛ないニュース。

 「パパ、この問題分かる?」

 ノートを差し出す娘に、「任せなさい」と笑って答える。 かつて僕が深夜の自習で戦ったのと同じ問題。それを教えながら、僕はふと思った。


 ――こうして一緒に過ごせる時間は、あとどれくらいあるんだろう。

 春がまた、巡ってくる。

 庭の梅が再び満開になり、娘は高校生になった。 真新しい制服を纏い、校門の前で照れくさそうに笑う彼女。

 写真を撮る僕の手は、あの日、役所で婚姻届に判を捺した時と同じように、微かに震えていた。

 娘の世界は広がっていく。文化祭、吹奏楽のコンクール、そして全国大会。

 「次の演奏、東京の大きなホールなんだよ!」

 「すごいな。パパもママも、絶対に行くから」

 ステージの上、スポットライトに照らされた娘の笑顔は、僕たちが守り抜いてきた「未来」そのものだった。

 照明に照らされた笑顔。 音楽に溶けていくような瞳。

 あの頃の僕が、暗闇の中で必死に手を伸ばし、祈り続けた全ての幸福が、今、目の前で一つの旋律となって鳴り響いていた。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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