セリナ編 第十九章 セリナの代償行為② 翌日の学校
午前中の授業は、驚くほど平穏に過ぎていった。
エレナは席に座り、時折きょろきょろと周囲を見回しながらも、泣き出すことはなかった。
転ぶことも、誰かにぶつかることもない。
それだけで、胸の奥に溜まっていた息を、少しだけ吐き出せた気がした。
「……今のところ、何もないね」
休み時間、エアリスが小声で言う。
俺は頷きながらも、視線は無意識に床へと落ちていた。影は、どこにでもある。机の脚の下、椅子の背、窓枠の縁。
だが、昨日見たものとは違う。意思を感じさせる動きはない。少なくとも今は。
「ルーメン」
今度はセリナ姉が、後ろから俺を呼んだ。振り返ると、エレナの手を引いたまま、少しだけ距離を詰めてくる。
「……何か、変なもの、見えてる?」
その問いに、俺は一瞬言葉を失った。見えているか。それとも、見えていないふりをしているのか。
「……今は、何も」
正直に答えると、セリナ姉は小さく息を吐いた。
「そう……なら、いいの」
その言い方が、どこか残念そうで、同時に安堵しているようにも聞こえた。
休み時間、校庭はいつも通りの喧騒に包まれていた。子どもたちが走り回り、笑い声があちこちで弾ける。
エレナも友達に誘われ、少しだけ輪の中に入っている。セリナ姉は、その様子を少し離れた場所から見守っていた。
……近づきすぎない。
そんな意識が、セリナ姉の立ち位置から伝わってくる。昨日までとは、明らかに違う距離感だった。
「……セリナ姉、近くにいなくていいの?」
俺が声をかけると、姉は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線をエレナへ戻した。
「大丈夫。ちゃんと見えてる」
その言葉通り、視線は鋭い。けれど、その背中は、どこか張りつめている。
その時だった。……ぞわり。背筋を、冷たいものが走った。理由は分からない。ただ、嫌な感覚。
俺は反射的に地面を見た。影が、重なっている。木の影、建物の影、人の影。
その中の一つが、「……動いた?」
一瞬だった。ほんの一瞬、影の輪郭が、周囲と噛み合わない動きをしたように見えた。
「ルーメン?」
エアリスの声で、はっとする。
「今……何か……」
言いかけた瞬間、影はただの影に戻っていた。走る子どもに合わせて揺れただけ。そう言われれば、そう見えなくもない。
「……気のせい、かな」
自分に言い聞かせるように呟く。だが、心臓の鼓動は、なかなか落ち着かなかった。
エレナは、何事もなく笑っている。転んでいない。泣いてもいない。
セリナ姉も、苦痛に顔を歪める様子はない。
今日は、大丈夫なのか。
そう思った、その直後。
「……あ」
セリナ姉が、小さく声を漏らした。振り向くと、姉は腰に手を当て、ほんの一瞬、顔をしかめている。
「セリナ姉?」
「……なんでもない」
だが、その動きは、明らかに無理を隠している。
エレナを見る。無事だ。何も起きていない。
それなのに……俺の胸の奥で、嫌な予感が静かに広がっていく。
エレナが無事でも、セリナ姉の中では、何かが続いているのかもしれない。
俺は、拳を握りしめた。見逃さない。小さな違和感でも。
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