セリナ編 第十九章 セリナの代償行為① 翌朝
第十九章 セリナの代償行為
翌朝、家の中はいつも通りの音で満ちていた。台所から聞こえる食器の触れ合う音、母さんが朝食を整える気配、そして小さな足音。
「おはよう!」
先に姿を見せたのはエレナだった。昨日までの出来事が嘘のように、元気よく挨拶をしてくる。その無邪気な声に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「おはよう、エレナ」
俺がそう返すと、エレナは椅子によじ登り、足をぶらぶらと揺らす。だが、完全にいつも通りかと言えば、そうではなかった。
ふとした瞬間、動きが止まり、周囲を気にするように視線を巡らせる。その仕草は、まだ三歳の子供には不釣り合いなほど慎重だった。
少し遅れて、セリナ姉が部屋に入ってくる。表情は落ち着いているが、歩き方がどこか硬い。椅子に腰掛ける時、ほんの一瞬、体をかばうような動きが見えた。
「……セリナ姉」
呼びかけると、セリナ姉はにこりと笑ってこちらを見る。
「なに?」
「……大丈夫?」
それだけを、短く聞いた。
セリナ姉は一瞬だけ目を伏せ、それからいつもの調子で言った。
「大丈夫よ。心配しすぎ」
その声は明るかったが、どこか張りつめている。
エレナは二人のやり取りを見て、不安そうに首を傾げた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ」
俺はそう言って、エレナの頭を軽く撫でた。だが、その小さな頭に触れた瞬間、昨日の光景が脳裏をよぎる。
……椅子ごと倒れたエレナ。
……そして、同じタイミングで苦痛に顔を歪めたセリナ姉。
「……今日は、どうする?」
朝食を運びながら、母さんが静かに聞いてきた。その視線は、俺とセリナ姉、そしてエレナを順に見ている。
「今日は……普通に学校に行こうと思います」
俺が答えると、母さんは一瞬考え込むように目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「分かったわ。でも、何かあったら、すぐに知らせて」
「うん」
セリナ姉も黙って頷く。
その横で、エレナはパンをかじりながら言った。
「がっこう、いく」
その声は、少しだけ緊張していた。
登校の時間になり、三人で家を出る。
朝の空気は澄んでいて、昨日の不穏さを感じさせないほど穏やかだった。
それでも、俺の意識は自然と地面へ向いてしまう。
影。昨日見た、あの黒い動き。
「……ルーメン」
隣を歩くエアリスが、小さな声で呼びかけてきた。いつの間にか、校門の近くで合流していたらしい。
「昨日のこと、私も考えてた」
「……うん」
「今日も、気をつけて見ておこう」
「そうだね」
言葉はそれだけだったが、十分だった。
二人とも、同じものを見て、同じ不安を抱えている。
校門をくぐると、いつもの賑やかな声が広がる。子どもたちの笑い声、走り回る足音。
エレナは、セリナ姉のすぐ横を離れずに歩いていた。その小さな手が、ぎゅっと姉の服を掴んでいる。
「大丈夫だよ」
セリナ姉が、優しく声をかける。その言葉は、エレナに向けたもののはずなのに、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
俺は、胸の奥で静かに思う。……今日も、何も起きませんように。
だが同時に、……もし起きたら、絶対に見逃さない。
そう、強く心に刻んでいた。
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