セリナ編 第十八章 リリィ先生の癒し魔術④ 癒し魔術の後の帰宅
リリィ先生が職員室へ戻ったあと、教室にはしばらく沈黙が残った。
椅子に座るエレナは、両手を膝の上でぎゅっと握りしめている。癒し魔術の光に包まれた直後だというのに、その小さな背中は、どこか強張って見えた。
「……エレナ」
俺が声をかけると、エレナはゆっくり顔を上げる。
「だいじょうぶ?」
問いかけは短かったが、その中に、精一杯の不安が滲んでいた。
「うん。今は大丈夫だよ」
そう答えながら、俺はエレナの目を見つめる。だが、その視線は、すぐに床へと落ちた。
エアリスが、そっと隣にしゃがみ込む。
「怖かったよね」
エレナは一瞬だけ、こくりと頷いた。
「……また、ころぶの、いや」
その言葉が、胸に刺さる。俺は言葉を探しながら、できるだけ優しい声を出した。
「今日はもう、無理しなくていい。お家でゆっくりしよう」
エレナは小さく「うん」と答えた。
その様子を、セリナ姉は少し離れた場所から見ていた。腕を組み、視線を落とし、表情は硬いままだ。
俺は、ふと気づく。セリナ姉、さっきから一言も喋っていない。
「……セリナ姉」
声をかけると、ようやくこちらを見た。
「なに?」
返事は、いつも通りの調子を装っている。だが、その声は、どこか乾いていた。
「さっき……腰、押さえてたよね」
一瞬、空気が張り詰める。
「椅子が倒れたとき、ちょっとびっくりして、ぶつけただけ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。反論すれば、余計にセリナ姉を追い詰めてしまう気がしたからだ。
エアリスが、静かに割って入る。
「今日は、もう帰ろう。先生も、無理しない方がいいって言ってたし」
セリナ姉は、少し間を置いてから頷いた。
「……そうね」
その返事は、普段よりもずっと小さかった。
教室を出ると、廊下はすでに静まり返っていた。窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落としている。
俺は、無意識にその影を避けるように歩いていた。もう、影を見るのが怖くなっている。
エアリスも、同じことを考えているようだった。視線を落とし、足早に歩いている。
学校の出入口に着くまで、誰も口を開かなかった。
外に出ると、風が少し冷たく感じた。昼間の出来事が、現実だったことを、改めて思い知らされる。
「……ルーメン」
エアリスが、小さな声で呼ぶ。
「何?」
「本当に……何も起きないと、いいね」
その言葉に、俺は即答できなかった。
「……ああ」
そう答えるのが、精一杯だった。俺の視線は、自然とエレナに向かう。セリナ姉の手をしっかり握りながら、ゆっくり歩く小さな背中。
守らなきゃいけない。その思いが、強く胸に刻み込まれる。だが同時に、もう一つの不安も、はっきりと存在していた。
守ろうとしている人が、壊れてしまわないように。
その夜、家へ向かう道のりは、いつもよりずっと長く感じられた。
エアリスが、口を開く。
「今日は、私、これで帰るね」
「送るよ」
俺が言うと、エアリスは首を振った。
「大丈夫。すぐそこだし」
そう言いながらも、玄関へ向かう足取りは、どこか重い。
「……今日は、ありがとう」
俺がそう言うと、エアリスは小さく微笑んだ。
エアリスを見送ったあと、俺たちは家に向かって足を早めた。
家に着く頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
門をくぐると、いつもの家の匂いがして、張りつめていた気持ちが少しだけ緩む。
「おかえりなさい」
母さんが玄関に出てきて、穏やかな声で迎えてくれた。
「ただいま……」
エレナは元気なく靴を脱ぎ、そのまま母さんの足元に寄っていく。その仕草を見ただけで、今日一日がどれだけエレナにとって重かったのかが分かった。
「今日は、どうだったの?」
母さんの問いに、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……転びました。何度も」
それだけ答えると、母さんの表情がわずかに曇る。
「怪我は?」
「ヒーリングで治る程度です。でも……」
その先を、どう言えばいいのか分からなかった。黒い影のこと。セリナ姉に現れた傷のこと。母さんはそれ以上追及せず、静かに頷いた。
「今日は、もう早めに休みましょう」
エレナはその言葉に、こくりと頷いた。
居間に入ると、エレナはソファに座り、ぼんやりと床を見つめている。いつもなら、何かおもちゃを引っ張り出すはずなのに、その元気もない。
セリナ姉は、少し離れた位置に立ったまま、腕を組んでいた。
「……セリナ姉」
俺が呼ぶと、視線だけを向ける。
「なに?」
「大丈夫?」
問いかけは、あまりにも曖昧だった。それでも、今はそれ以上、踏み込めなかった。
「平気よ」
そう言って、セリナ姉は笑おうとする。だが、その笑顔は、どこか歪んで見えた。
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