セリナ編 第十八章 リリィ先生の癒し魔術③ 癒し魔術で心は癒せない
リリィ先生は一度深く息を吸い、気持ちを切り替えるように言った。
「……気を取り直しましょう」
その声は、教師としての落ち着きを取り戻していた。
「次は、聖位の癒し魔術を施します」
リリィ先生は静かに姿勢を正し、エレナの前に立った。
先ほどの動揺は、もう表には出ていない。だが、教室の空気は明らかに張り詰めていた。
「……では、聖位の癒し魔術を」
その声は低く、しかし確かな重みを持っていた。
リリィ先生は両手を胸の前で組み、ゆっくりと詠唱を始める。
「聖なる神の力よ、御霊の力を取り戻し、この者の再生と聖なる加護の力を授けたまえ。
さすればこの者の傷を大いに癒し、再生への道を切り開きたまえ……リジェネレイトヒーリング」
詠唱が終わると同時に、教室全体が、まるで朝日が差し込んだかのように明るくなった。
エレナを中心に、大きく、優しい光が広がっていく。その光は、先ほどのブライトヒーリングよりもさらに深く、包み込むようだった。
「……すごい」
エアリスが、思わずそう呟く。
光の中で、エレナは目を閉じている。小さな胸が、規則正しく上下していた。
リリィ先生は、すぐさま俺の方を見た。
「ルーメン君、合ってますよね?」
その問いは、確認というより、念押しだった。
「はい、間違いないです。リリィ先生」
俺ははっきりと答える。
「詠唱も、魔力の流れも、完全です。安心しました」
リリィ先生は、ようやく肩の力を抜いた。
光はしばらくの間、エレナを包み続けたあと、ゆっくりと薄れていった。教室は、元の明るさを取り戻す。
「……」
誰も、すぐには口を開かなかった。沈黙の中で、俺は周囲を注意深く見回す床、机の影、椅子の下……黒い影は、現れない。
「……何も、起こりませんね」
俺は、不安を押し隠すように、そう言った。
「ね、大丈夫みたいです……よね」
自分に言い聞かせるような声だった。
リリィ先生も、エレナの前にしゃがみ込み、優しく問いかける。
「エレナちゃん、大丈夫ですか?」
エレナは、少し考えるようにしてから、小さく頷いた。
「……たぶん、だいじょうぶ」
その声はまだ弱く、表情も硬いままだ。
俺は、その様子を見ながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。本当に、終わったのか?ふと、セリナを見る。彼女は黙ったまま、腰に手を当てていた痛みを隠そうとしているのが、はっきりと分かる。だが、セリナは何も言わない。
リリィ先生は立ち上がり、少し考え込むような表情を浮かべてから、静かに口を開いた。
「……確かに、先ほど、黒い影が走りました」
その言葉に、俺とエアリスは、はっと顔を上げる。
「私も、見ました。初めて見る現象です」
リリィ先生は、真剣な眼差しで続けた。
「一体、あれは何だったのでしょう……」
リリィ先生は、ゆっくりと息を吐いた。
「私は、これまで多くの癒し魔術を見てきましたが……」
そう前置きしてから、静かに言葉を選ぶ。
「癒しの最中に、あのような“干渉”が起きるのは初めてです」
教室の空気が、再び重くなる。
「癒し魔術は、本来、外部からの悪意を遠ざける“聖なる加護”を伴います。特に、今施したリジェネレイトヒーリングは、聖位の中でも最も強固なものです」
リリィ先生は、床に視線を落とした。
「それでもなお、一度は介入された。
これは……偶然ではありません」
俺は、無意識のうちに拳を握りしめていた。
「先生……じゃあ、あの黒い影は、まだ……」
「完全には解明できていません。
ですが、少なくとも今は、エレナちゃんの体に直接的な異常は感じられません」
そう言ってから、エレナに優しく微笑みかける。
「ね、エレナちゃん。どこか痛いところはありませんか?」
エレナは、少し間を置いてから、首を横に振った。
「……ない」
その答えに、俺は胸をなで下ろす。だが、その一方で、消えない違和感も残っていた。エレナは「大丈夫」と言ったが、その声には、確かな不安が混じっていた。
リリィ先生は、俺とエアリスの方に向き直る。
「今日のところは、これ以上の処置は控えましょう。数日間、何も起きないかを確認することが大切です」
そう言ってから、少しだけ表情を和らげる。
「もちろん、何かあれば、すぐに私のところへ来てください。時間帯は問いません」
「……ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。エアリスも、隣で同じように頭を下げる。
「先生……」
エアリスが、不安そうに口を開いた。
「エレナちゃんの心は……大丈夫でしょうか」
その問いに、リリィ先生は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……正直に言いますね。心の傷を、癒す魔術はありません」
俺は、その言葉を、何度も聞いてきたはずだった。それでも、胸に突き刺さる。
「だからこそ、今は“安心できる時間”が必要です」
「……家で、安静に?」
俺がそう言うと、リリィ先生は頷いた。
「ええ。学校はしばらく休ませた方がいいでしょう」
少し間を置いてから、こう付け加えた。
「私から、エレナちゃんのお父さんに話を通しておきます」
「……お願いします」
その言葉を口にしたとき、俺は、これ以上何かが起きてほしくないと、心から願っていた。
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