セリナ編 第十八章 リリィ先生の癒し魔術① リリィ先生への相談
第十八章 リリィ先生の癒し魔術
リリィ先生の研究室へ向かう廊下は、いつもより静かに感じられた。
放課後の校舎特有の、昼の喧騒が引いたあとの空気。遠くから聞こえる子どもたちの声も、どこか膜を一枚隔てたようにくぐもっている。
俺はエアリスと並んで歩きながら、何度も自分の足取りを確かめていた。歩いているだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
頭の中には、エレナが倒れた瞬間の光景が、何度も何度も浮かんでは消えていく。
あの意志を持ったような黒い影に押されたように、倒れた。誰も、触れていないのに。
「……ねえ、ルーメン」
エアリスが、少しだけ声を落として話しかけてきた。
「やっぱり、普通じゃないよね。エレナちゃんのこと」
「うん」
短く答えながら、俺は扉の前で立ち止まった。
木製の扉には、長年の使用でついた細かな傷が刻まれている。ここが、リリィ先生の研究室だ。
ノックをする前に、一度だけ深呼吸をした。
相談する内容は頭の中で整理してきたはずなのに、言葉にしようとすると、喉の奥が少しだけ詰まる。
ちゃんと、伝えなきゃいけない。
俺は意を決して扉を叩いた。
「はい、どうぞ」
中から聞こえたのは、いつも通りの穏やかな声だった。
扉を開けると、乾燥させた薬草の匂いと、微かに漂う魔力の気配が鼻をくすぐる。研究室の机の上には、開かれた魔術書と、書きかけのメモが並んでいた。
「失礼します」
俺とエアリスが頭を下げると、リリィ先生は顔を上げ、すぐにこちらの様子に気づいたようだった。
「……何かありましたね」
その一言で、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ形を持った。
「はい」
俺は一歩前に出て、言葉を選びながら切り出した。
「リリィ先生、最近……妹のエレナが、学校で押されたみたいに転んで、怪我して泣いてるの、知ってますか?」
リリィ先生は、わずかに目を見開いた。
「……エレナちゃん、だったのね」
そう呟くと、思い当たる節があったのか、小さく頷く。
「最近、毎日のように、どこかで泣き声が聞こえていました。正直、気にはなっていたんです」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。やっぱり、毎日だったんだ。
「エレナちゃんは……怪我とか、してないですか?」
問いかける声は、教師としての落ち着きを保ちながらも、どこか心配が滲んでいる。
「怪我は、してます」
俺は正直に答えた。
「その度に、ヒーリングを施して、治してあげてます。擦り傷とか、打ち身程度ですけど……」
「そう……」
リリィ先生は、少しだけ眉を寄せた。
「毎日のように泣いているとなると……身体だけじゃなくて、心の方が心配ですね」
その言葉に、俺は思わず拳を握った。
「体の方は、ヒーリングで治る程度なので、大きな怪我はしてません。でも……」
一瞬、言葉に詰まる。
「痛くて泣いてるのが、毎日です。だから……たぶん、心は、だいぶ傷ついてると思います」
口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
治せないものが、確かにそこにある。
リリィ先生は静かに息を吐き、ゆっくりと首を振った。
「……そうですね。残念ですが、心の傷を直接治す魔術は、ありません」
その事実は分かっていたはずなのに、改めて告げられると、重くのしかかってくる。
「しばらくは、家で安静にしていた方がいいかもしれません。必要でしたら、先生からお父さんに話を通しておきましょうか?」
「……はい」
俺は小さく頷いた。
「そうですね。お願いします」
一瞬、話はそれで終わりかけた。
だが、俺はここで引き下がるわけにはいかなかった。
「それと、もう一つ……」
リリィ先生の視線が、俺に戻る。
「意志を持った、黒い影とか……何か、心当たりはありませんか?」
その言葉に、研究室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。
「……意志を持った、黒い影?」
リリィ先生は、俺の言葉をそのまま反芻するように、ゆっくりと問い返した。
その声には、戸惑いと同時に、教師としての冷静さがはっきりと含まれている。
「闇魔術の類でしょうか?」
そう言いながら、机の上に置かれていた羽根ペンをそっと置いた。
「私は普段、使用はしませんが……闇魔術そのものは、扱えなくはありません。ただ……」
一拍置き、慎重に言葉を選ぶ。
「“意志を持った黒い影”という魔術は、少なくとも私の知る範囲には存在しませんね」
エアリスが、少し身を乗り出す。
「やっぱり……変、ですよね」
「ええ。影が自律的に動く魔術は、理論上は考えられますが、術者の明確な存在が前提になります」
リリィ先生は、視線を落としながら続けた。
「それが、どうかしたのですか?」
俺は、胸の奥に溜め込んでいた光景を、一つずつ言葉にしていった。
「さっき……エアリスと一緒に見たんです」
自然と、声が低くなる。
「地面に、黒い影ができて……それが、一直線にエレナに向かって走っていったんです」
エアリスも、すぐに頷いた。
「私にも、はっきり見えました。最初は、誰かの影かと思ったんです。でも……動きが、おかしくて」
俺は、続きを口にする。
「その影が、エレナにぶつかった瞬間……エレナは、派手に倒れるようにこけました」
研究室の中が、静まり返った。窓の外から聞こえる風の音が、やけに大きく感じられる。
「……えっ?」
リリィ先生は、明らかに驚いた表情を浮かべた。
「そんなことが……」
一瞬、思考を巡らせるように目を伏せ、それから首を振る。
「……分かりませんね。申し訳ありません」
その言葉には、正直な困惑がにじんでいた。
「闇魔術でも、影を媒体にする術はありますが……それが“意志を持って”対象に向かう、というのは、聞いたことがありません」
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