セリナ編 第十七章 セリナの異変① 続く異変
学校の休み時間。
校庭の一角で、セリナ姉とエレナは並んで遊んでいた。エレナは小さな体で走り回り、セリナ姉はそれを追いかけるでもなく、少し距離を保ちながら、常に視線だけは外さずに見守っている。その様子は、誰が見ても「面倒見の良い姉」そのものだった。
俺はというと、少し離れた場所でエアリスと話をしていた。
天気の話、授業の話、そんな他愛もない会話だったが、俺の意識の端には、常にエレナの姿があった。
大丈夫だよな。さっきのは、ただの転倒だ。そう自分に言い聞かせていた、その瞬間だった。
「……っ!」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた泣き声。胸が跳ね上がる。
「エレナ……!」
俺とエアリスはほぼ同時に振り向き、走り出した。視界の先で、エレナが地面に座り込んで泣いている。その傍らで、セリナ姉が険しい表情を浮かべていた。
「ルーメン、ヒーリング! 私は犯人を追いかける!」
そう言い残すと、セリナ姉は一瞬も迷わず、その場を飛び出していった。
俺はエレナの元に駆け寄り、すぐにヒーリングを施す。擦り傷程度だったのが幸いで、光が収まる頃には、エレナの泣き声も次第に落ち着いていった。
「だいじょうぶ……。ちょっと、びっくりしただけ……」
エアリスがエレナの背中をさすり、優しく声をかける。
しばらくして、息を切らしたセリナ姉が戻ってきた。
「また、逃げられたんだけど……一体、なんなの!」
悔しさと苛立ちが混じった声だった。
だが、追いかけたという割には、セリナ姉の服に汚れはなく、転んだ様子もない。それなのに、俺の目には――
「……セリナ姉」
「なに?」
「また、怪我してる」
そう告げると、セリナ姉は自分の腕を見て、ぎょっとした。
「え……? なんで……?」
そこには、エレナが転んだ場所と、ほとんど同じ位置に、赤い擦り傷が浮かんでいた。
俺は言葉を失い、もう一度ヒーリングを施した。傷は治る。だが、その事実だけが、かえって不気味だった。
翌日も、また翌日も。同じことが繰り返された。
エレナは、何の前触れもなく転び、泣き出す。そのたびに、俺やエアリスがヒーリングを施す。
そして必ず、少し遅れて、セリナ姉の身体に、同じような傷が現れる。
「追っかけた時に転んだの?」
俺がそう尋ねると、セリナ姉は苛立ちを隠そうともせずに言った。
「私が転ぶわけないじゃない。……一体、何なのよ」
怒りと困惑、その両方が滲んだ声だった。
だが日を追うごとに、エレナの表情から元気が失われていくのが、はっきりと分かるようになった。
そして、それと同じように、セリナ姉もまた、目に見えて疲弊していった。
そんな日々が、十日ほど続いたある日のことだった。その日は、校庭の広場のど真ん中だった。周囲には子どもたちも教師もいて、人の気配は十分にあった。
にもかかわらず、エレナは、突然、その場で倒れ込んだ。
「エレナ!」
泣き声が響き、周囲がざわつく。
だが、俺の背筋には、これまでとは比べ物にならないほどの冷たい感覚が走っていた。
これは、もう偶然じゃない。その確信だけが、はっきりと胸に刻み込まれた。
翌日。俺は意識的に、エアリスと並んで広場の端に立っていた。視線は自然を装いながらも、エレナとセリナ姉から一瞬たりとも離さない。昨日の出来事が偶然ではない、そう確信してしまったからだ。
「ねぇ、ルーメン……」
エアリスが小さく声を落とす。
「私も、なんだか嫌な感じがする。言葉にできないけど……空気が、変」
「……僕も同じだよ」
二人の視線の先で、エレナはセリナ姉のすぐそばにいた。距離は近い。周囲に人も多い。誰かが近づけば、必ず視界に入るはずだ。
次の瞬間、俺の目に、異様なものが映った。
地面だ。乾いた地面の上を、影が――“走った”。
影は人の形をしていない。それなのに意志を持っているかのように、一直線にエレナへ向かっていく。
「……っ!」
声が出なかった。だが、エアリスも同時に息を呑んだのが分かった。
影は、エレナの足元に到達した瞬間、地面から跳ねるように盛り上がり、次の瞬間、エレナは押し倒されるように、前へと吹き飛んだ。
「エレナ!!」
悲鳴に近い声が喉を突き破る。
エレナは手をつく暇もなく全身を打ちつけるように倒れ込み、激しく泣き始めた。同時に俺の視界にはっきりと見えた。腕、膝、頬、体幹――倒れた衝撃でできた傷と痣が、次々と浮かび上がっていく。
俺とエアリスは同時に駆け寄った。
「大丈夫、今すぐ……!」
俺はウォーターボールで水を出し、土と砂を流し落とす。エアリスがエレナの背中を抱き、泣き声を受け止めるように支えてくれる。
俺は続けてヒーリングを施す。淡い光が重なり、傷はゆっくりと癒えていく。
だが。
「……セリナ姉?」
声をかけた瞬間、背筋が凍った。
セリナ姉は、そこに立っていた。倒れてもいない。誰かに触れられた様子もない。
それなのに。エレナが怪我をしたのと、まったく同じ場所に、赤黒い痣と傷が浮かび上がっていく。
「え……?」
セリナ姉は自分の腕を見下ろし、理解できないという表情を浮かべた。
「何言ってるの、ルーメン……私は、倒れてない……」
次の瞬間、セリナ姉の顔が歪む。
「……いたっ!」
傷に触れた指先に、赤い血が滲んだ。
「なんで……? なんで何もしてない私に、血がついてるの……?」
その声は怒りでも恐怖でもなく、ただ純粋な混乱だった。
「セリナ姉、大丈夫。今、ヒーリングする」
俺は震える手でセリナ姉にもヒーリングを施した。
傷は、確かに治った。だが、胸の奥に残った違和感だけは、消えなかった。
同時だ。場所も、痛みも。
偶然で片づけられるはずがない。
俺は二人を教室に連れて行き、椅子に座らせて落ち着かせると、エアリスと一緒に廊下へ出た。
「ねぇ、エアリス……さっきの、見えた?」
「……うん」
エアリスははっきりとうなずいた。
「誰かの影じゃなかった。あの黒い影、意志を持ってるみたいだった。エレナちゃんに、狙いを定めてた」
「だよね……僕も、そう感じた」
言葉にした瞬間、喉の奥がひりついた。
「……あの黒い影は、一体、何なんだろう」
「分からない。でも、このまま放っておけない」
エアリスの声は小さいのに、芯があった。
廊下に、しんとした静けさが戻った。遠くから聞こえる生徒たちの声が、まるで別の世界の出来事のように感じられる。さっきまで確かに存在していた“あれ”は、もうどこにも見えない。
だが、見えないからといって、消えたわけではない。俺の胸の奥には、はっきりとした確信だけが残っていた。
これは、もう偶然ではない。
「……エアリス」
自分でも驚くほど、声が低くなっていた。
「今までのことも、今日のことも……全部、あの影が関係してるって思う」
エアリスは、否定しなかった。それが、何よりの答えだった。
「うん……私も、そう思う」
少し唇を噛みしめてから、続ける。
「エレナちゃんに向かってた。迷いもなく、一直線に」
思い出しただけで、背中に冷たいものが走る。
誰かの悪意。誰かのいたずら。そんな言葉では、もう説明できない。
もし、今日、あの瞬間に、俺たちが見ていなかったら?もし、ヒーリングが間に合わなかったら?
もし、次はもっと強く……、もっと深く、傷つけられたら?想像が、止まらない。
そして、脳裏に浮かぶのは……、立ち尽くしていたセリナ姉の姿だった。
守る側であるはずの姉が、何もできず、何も理解できず、それでも同じ場所に傷を負っていた。
「……僕一人じゃ、無理だ」
言葉にした瞬間、はっきりと分かった。これは弱音じゃない。現実の認識だ。
俺は観測できる。ヒーリングも使える。
けれど……この現象の正体を、俺は知らない。知らないまま、手を出していい領域じゃない。
エアリスが、少し間を置いて口を開いた。
「……ねえ、ルーメン」
その声は、震えていなかった。むしろ、決意を含んでいた。
「リリィ先生に、相談しよう」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が、わずかに緩む。
魔術のこと。異常現象のこと。そして闇魔術なのかということ。この件を預けられる相手は、もう限られている。
「……うん」
短く、しかし確かに頷いた。
「今は、それしかない」
守るべきものがある。見えてしまったものがある。
そして、見なかったことには、もうできない。エレナのために。セリナ姉のために。
そして……、この正体不明の“何か”を、これ以上野放しにしないために。
俺とエアリスは、言葉を交わさずとも、同じ結論に辿り着いていた。これは、個人の力で抱えるべき問題じゃない。
次に進むしかない。後戻りは、もうできない。そう、はっきりと理解した瞬間だった。
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