前世編 第六章 影を抱く日々(後半)
第六章 影を抱く日々(後半)
新しい家に引っ越してから、まだ一週間も経っていなかった。
廊下の隅には未だに開けられていない段ボールが山積みになり、ビニールテープの独特の匂いが、真新しい木の香りに混じって家の中に漂っている。
日曜日の昼下がり、リビングのカーテンを縫う妻の手元を、やわらかな光が照らしていた。埃が静かに舞い、光の柱を作っている。娘はその光を捕まえようとするかのように、小さな手を空に伸ばして笑っていた。
「やっと、ここまで来たんだな」
僕は庭に出て、まだ細い梅の苗木を撫でた。
「光一くん、早く咲くといいね、この梅」
窓越しに彼女が笑う。僕は力強く頷いた。この場所こそが、僕が守るべき世界の全てだった。その時は、心からそう信じていた。
しかし、月曜日の朝。会社の部長室に呼び出された瞬間、その「平穏」という名の薄氷は、音を立てて砕け散った。
「ローン、組んだんだって? すごいなぁ。ま、これで辞められないな」
部長はコーヒーを啜りながら、粘つくような笑みを浮かべてそう言った。その言葉は、一見すれば祝福の形を借りていたが、僕の鼓膜を震わせたのは、獲物を網にかけた捕食者のような冷徹な響きだった。
僕は愛想笑いを浮かべることすらできなかった。その場の空気が、一瞬にしてマイナス数十度の極寒に変わったかのような錯覚。背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、僕は部長の手元にある僕の「身上書」を見つめていた。そこには、背負ったばかりの三千万を超える負債の数字が、まるで僕の値段であるかのように冷酷に記されている。
その日から、世界は一変した。
僕の机には、前日までの倍以上の資料が、物理的な重圧を伴って積まれるようになった。
「家庭があるなら、これくらいは頑張らないとな」
上司が背後を通り過ぎるたびに、その言葉が刃のように降ってくる。同僚たちは、僕の窮状を察しながらも、自分に火の粉が飛んでくるのを恐れるように、一様に目を逸らした。
かつての中学時代の教室が、二十年の時を経て、このオフィスという空間に再構築されたかのような既視感。 誰も僕を助けず、誰も僕に声をかけない。ただ、キーボードを叩く無機質な音だけが、僕を削り取っていく。
一ヶ月が経つ頃、僕の生活から「光」が消えた。
帰宅は常に午前様。駐車場に車を停め、見上げる我が家の窓は、いつも暗闇に沈んでいた。
玄関の扉を静かに開けると、そこにはもう冷めてしまったカレーの匂いが停滞している。
「ただいま……」
誰に届くわけでもない呟き。テーブルにはラップをかけられた夕食と、その横に置かれた、妻の丁寧な文字で書かれた『おつかれさま。スープ、温めて食べてね』というメモ。
その文字をなぞるたびに、僕は自分の不甲斐なさに胸を締め付けられた。この家を建てるために、この家で過ごす時間をすべて差し出している。この矛盾に、頭がおかしくなりそうだった。
寝室のドアを数ミリだけ開け、娘と妻の寝顔を確認するのが唯一の儀式となった。
「ごめんな……」
小さな、本当に小さな声で娘の頭を撫でる。彼女の無垢な寝息を聞くたびに、僕は「守らなければならない」という決意と、「壊してしまっているのではないか」という恐怖の間で、激しく揺れ動いた。
翌朝も、外がまだ藍色の暗闇に沈んでいるうちに家を出る。
スーツに袖を通す。あの成人式のスーツは、もうボロボロだったが、それ以外の服を着る余裕などなかった。 鏡の中に映る自分の目は、いつの間にか、あの頃の僕が軽蔑していた「疲れ切った大人」そのものの色を湛えていた。
追い打ちは、突然の異動命令だった。
「来月から、第一営業課に行ってもらう」
部長の言葉に、僕は反論する権利すら持たなかった。
第一営業課。社内でも「墓場」あるいは「戦場」と呼ばれる、最も離職率が高く、最も過酷な部署だ。
「家庭があるなら、もっと責任を持て。お前なら、このノルマもこなせるだろう?」
それは、期待という名の強要だった。
異動してからの毎日は、もはや人間らしい生活とは呼べなかった。
鳴り止まない電話。罵声を浴びせてくる顧客。そして、それ以上に粘着質な、社内での数字への追求。
「お前のせいで、課の達成率が落ちている」
「どうしてできないんだ? ローン、あるんだろ?」
その言葉が、鼓動と一緒に体の中を巡る。僕は、自分が一人の人間ではなく、数字を出すための、あるいは誰かの鬱憤を晴らすための、ただの「機能」に成り下がったように感じていた。
ある夜、風呂場でシャワーを浴びているとき。
ポタリ、ポタリと落ちる水滴の音が、僕の心臓の音と重なった。
目を閉じると、暗闇の中に上司の顔が、そして銀行の通帳の数字が浮かび上がってくる。
「また明日が来るのか」
そう思った瞬間、肺の奥が焼けるように痛んだ。 湯気の向こう側にある現実が、僕を窒息させようとしていた。
リビングに戻ると、妻が起きて待っていた。
「……おかえり」
「ただいま。まだ起きてたのか」
「うん。光一くん、顔色が……。少し、休めない?」
「大丈夫だよ」
その言葉は、彼女を守るための嘘というより、自分自身が崩壊するのを止めるための、精一杯の防波堤だった。 僕は食卓の冷めたスープを、味もわからぬまま胃に流し込んだ。
週末、娘が描いた絵を見せてくれた。
「パパ、これ!」
青いクレヨンで大きく描かれた、三人の人間。真ん中にいるのが僕らしい。
「パパとママとおうち、それからお花だよ」
満面の笑みを浮かべた娘のその絵を見て、僕は喉の奥が熱くなり、必死で涙をこらえた。
「……上手だな。パパ、これ会社に持っていっていいかな?」
「うん!」
僕はその絵を、殺風景な会社のデスクの端に飾った。
けれど、その絵さえも、現実の暴力からは僕を守ってはくれなかった。
「まだ終わってないのか? 家族の絵を眺めてる暇があったら、一本でも多く電話をかけろよ」
上司の冷たい声が、娘の描いた色鮮やかな世界を、一瞬で灰色に塗りつぶした。
「家庭があるからって、甘えるなよ。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな」
終電を逃し、タクシーの車窓から夜の街を眺める。
流れていく街灯の光が、僕の人生の断片のように見えた。
僕は一体、誰のために、何のために戦っているのだろうか。
タクシーが家の前に止まる。
深夜の住宅街は、死んだように静まり返っていた。
僕は玄関のドアの前で、しばらく立ち尽くした。
この扉を開ければ、そこには僕が愛する家族がいる。けれど、今の僕には、その暖かな空気に触れる資格さえないような気がしていた。
僕は震える手でドアを開けた。
「ただいま……」
暗いリビングの隅で、庭に植えたばかりの梅の木が見えた。
月明かりの下、その枝には小さな蕾がついていた。
僕はその蕾に触れようとして、指を止めた。
自分の手があまりにも冷たく、そして汚れているように思えたからだ。
「今年も、咲くよな……」
自分でも驚くほど、枯れた声が出た。
家の中に戻り、鏡を見る。
そこに映っていたのは、もはやルーメンとしての希望も、光一としての自負も失い、ただ「責任」という名の重圧に押し潰されそうな、一人の抜け殻だった。
「もう少し、頑張るから。……もう少しだけ」
その言葉は、誰に宛てたものでもなかった。
ただ、この暗闇の中で、自分が消えてしまわないための、最後の、そして最も虚しい「リズム」だった。
僕はスーツの埃を払い、深い、底の見えない眠りへと、身体を投げ出した。
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