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セリナ編 第十六章 セリナの気持ち② それでもおかしい


 ……じゃあ、ルーメン?

思考が、そこに辿り着いた瞬間、胸の奥が、ちくりと痛んだ。違う、とすぐに思う。あの子が、そんなことをするはずがない。

ルーメンは、気が強いタイプじゃない。争いを好まないし、誰かを傷つけることを何より嫌う子だ。自分が傷つくことより、他人が傷つくことを気にする。そういう子だと、私は知っている。

それでも。

「……でも、絶対って言い切れる?」

心のどこかで、そんな声がした。学院で何かあったのかもしれない。知らないところで、誰かと衝突していたのかもしれない。私やエレナに言えないだけで、嫌がらせを受けている可能性だって。

首を振る。違う。違う違う。守るべき弟を、疑うなんて、姉として最低だ。

それに、ルーメンが誰かに恨まれるとしても、その矛先が、エレナに向く理由が分からない。

エレナは、まだ三歳。学院に入ったばかりで、誰かと争うようなことも、恨みを買うようなことも、できるはずがない。だからこそ、余計におかしい。

誰を疑っても、最後は必ず、説明がつかなくなる。ルーメンを疑う思考は、その場で、何度も打ち消した。

信じている。信じたい、じゃない。私は、ルーメンを信じている。それだけは、揺るがなかった。

けれど、疑いを否定しきったあとに残ったのは、より濃くなった「分からなさ」だけだった。



 ……そういえば。

ふと、昔の出来事が頭をよぎった。エアリスちゃんが、いじめられていた時のこと。その時、助けに入ったのは……ルーメンだった。

確か、魔術を使った、と言っていた。直接当てたわけじゃなくて、威嚇しただけだと。その話を聞いた時は、「さすがルーメンね」と、誇らしく思っただけだった。

でも、今は違う。もし、万が一、その時のことを、根に持っている誰かがいたとしたら?

ルーメンに直接向かう勇気はなくて、代わりに、守られている存在。エレナに、矛先を向けているとしたら?嫌な想像が、頭の中で膨らんでいく。

「……当ててない、って言ってたけど」

本当に?本人が気づかないうちに、相手を傷つけてしまっていた可能性は?

すぐに、別の声がそれを否定する。ルーメンは、そういう子じゃない。魔術の扱いも慎重だし、相手の立場を考えずに力を振るうような子じゃない。

それでも、確かめずには、いられなかった。これは疑っているんじゃない。自分を納得させるための、確認。そう言い聞かせながら、私は、ルーメンに声をかける決意を固めた。



放課後、人の少ない廊下。ルーメンは、いつも通り穏やかな顔で、エレナの手を引きながら歩いていた。

この子が、誰かに恨まれる?どう考えても、しっくりこない。それでも、胸の奥に引っかかっているものを、このまま放っておくことはできなかった。

「ねえ、ルーメン」

なるべく、普段と同じ声色を意識して呼びかける。

「ずいぶん前の話なんだけど……」

ルーメンが、こちらを見る。その澄んだ瞳に、曇りはない。

「エアリスちゃんを、いじめから助けた時のこと、覚えてる?」

ルーメンは、少し考えてから、うなずいた。

「うん、かなり前の話だね」

「その時、魔術を使ったって言ってたでしょう?……当ててないわよね?」

一瞬だけ、沈黙。心臓が、いやに大きな音を立てる。

「もちろんだよ」

ルーメンは、即答だった。

「威嚇しただけ。光魔術の中位――サンダーボルトだから、直接当ててないし、光属性だから危険も少ない」

その説明は、落ち着いていて、理路整然としていた。

「それに」

ルーメンは、少しだけ微笑む。

「その後、嫌がらせとかは一切なかったよ。相手もちゃんと分かってくれたみたいで、エアリスにも謝ってくれた」

私は、思わず息を吐いた。

「……そう」

それだけ言うのが、精一杯だった。

疑っていたわけじゃない。でも、確かめずにはいられなかった。

「何か、他にも思い当たることがあったら」

私は、念を押すように言う。

「怒らないから、いつでも言ってね。エレナのことは……私とルーメンで、ちゃんと守っていこう」

自分でも驚くほど、真剣な声だった。

ルーメンは、少し目を丸くしてから、いつものように、穏やかにうなずく。

「もちろんだよ、セリナ姉」

その一言が、胸に染みた。

「僕も、そのつもりだから。安心して」

私は、小さく笑ってみせた。……大丈夫。ルーメンは、信じられる。少なくとも、今は。



ルーメンの言葉は、迷いがなかった。取り繕った様子も、私の顔色をうかがうような素振りもない。ただ、事実をそのまま伝えている。それが、はっきり分かる話し方だった。

(……そうよね)

胸の奥で、張りつめていた糸が、少しだけ緩む。魔術を当てていない。その後の嫌がらせもない。きちんと謝罪があって、終わっている。どこを切り取っても、エレナに向かう悪意と繋がる部分は見当たらない。私は、無意識のうちに自分の腕を抱いていた。

「……ありがとう、ルーメン」

言葉にすると、ようやく実感が追いつく。

「ちゃんと話してくれて」

ルーメンは、少し照れたように頭をかいた。

「当たり前だよ。セリナ姉が心配するのも、無理ないし」

その言葉に、胸がちくりと痛んだ。私は、弟に気を遣わせている。本当なら、守る側でいなければならないのに。

それでも、少なくとも、ルーメンが原因でないことは、はっきりした。

「エレナのことは、僕も見てるから」

そう言ってくれる声は、頼もしい。私は、ゆっくりとうなずいた。

「ええ……お願いね」

この人が一緒にいてくれるなら、きっと大丈夫。そう、思いたかった。



ルーメンの言葉を、私は信じている。疑う理由なんて、どこにもない。あの子は、昔からそういう嘘をつく子じゃない。エレナのことも、本気で守ろうとしてくれている。

……それなのに。

(……じゃあ、何なの?)

頭の中で、同じ問いが何度も繰り返される。エレナに恨みを持つ人はいない。ルーメンにも、私にも、思い当たる敵はいない。学院の中で、あからさまな悪意を向けられたこともない。

それでも、エレナは転ぶ。しかも、決まって私がすぐそばにいる時に。曲がり角。一瞬、視線が外れた隙。誰もいない空間。

どれも、偶然と言い切るには、あまりにも、条件が揃いすぎている。

(私が、気づいていないだけ?)

胸の奥が、じわりと冷える。守っているつもりで、本当は何も守れていないのではないか。

模擬剣を持っても、魔術を警戒しても、見えないものには、手が届かない。

それどころか、私は、そっと自分の足元に視線を落とす。

膝に残る、薄い擦り傷。

いつ、どうやってできたのか、思い出せない傷。

(……あれ?)

エレナじゃない。傷ついているのは、今、この瞬間――私のほうだ。背筋を、ひやりとしたものが走る。

理由は分からない。答えも出ない。けれど。「おかしい」という感覚だけが、はっきりと、私の中に残っていた。

それはまだ、恐怖と呼ぶほど大きなものではない。ただ、このままではいけない、そんな、言葉にならない予感。

私は、エレナの手を、ぎゅっと握り直した。

離さない。もう、絶対に。

そう誓いながらも、胸の奥に残る違和感は、消えなかった。


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