セリナ編 第十六章 セリナの気持ち① 消えた犯人
第十六章 セリナの気持ち
どうして……。その疑問が、頭の中で何度も繰り返されていた。
私は、いつもエレナのそばにいる。登校するときも、校舎の中でも、帰り道でも。少し先を歩くときもあれば、後ろから様子を見ているときもある。ほんの一瞬だって、完全に目を離したつもりはない。
それなのに。エレナは転び、泣いて、膝や肘をすりむいている。
「……おかしいわよね」
心の中でそう呟きながら、私は自分を否定する。おかしいのは、状況じゃない。私だ。エレナはまだ三歳だ。
学院に入学したばかりで、人の多さも、歩く速さも、全部が初めて。だからこそ、私がちゃんと見てあげないといけない。守らなきゃいけない。姉である私が。
それなのに、守れていない。胸の奥が、じくじくと痛む。怒りとも、焦りともつかない感情が、熱を持って広がっていく。
私がもっと前を見ていれば。私がもっと周囲に気を配っていれば。私が、ちゃんと「姉」でいられたなら。
「……私が悪いんだわ」
そう思ってしまう自分が、止められなかった。
誰かのせいにするよりも、偶然だと言い聞かせるよりも、自分を責めるほうが、まだ納得できてしまう。
それが、余計に苦しかった。私は、剣を握れる。守る力があるはずなのに。それなのに、いちばん守りたい存在を、私は何度も泣かせている。
じゃあ、誰なの。
自分を責める思考が一巡すると、今度は自然と外へ向かっていった。原因があるなら、理由があるなら、必ず“誰か”がいるはずだ。
エレナが転ぶ場所を、私は思い返す。いつも決まって、廊下の曲がり角。広場から校舎へ入るところ。人の流れが一瞬、途切れる場所。
「……待ち伏せ?」
頭に浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。もし誰かが、わざと、エレナが通るのを狙って、突き飛ばしているのだとしたら。胸の奥で、怒りが一気に燃え上がる。
「絶対に許さない……」
思考が荒くなるのを、自分でも感じていた。犯人を見つけたら、剣術で叩き伏せる。相手が誰であろうと関係ない。エレナに手を出した時点で、容赦する理由はない。そんな危うい考えが、簡単に浮かんでしまう。
でも、私は、すぐに曲がり角の先を確認している。走り出して、辺りを見渡している。隠れられそうな場所も、全部。
なのに。誰もいない。足音もしない。逃げる気配もない。人影ひとつ、見当たらない。
「……どういうこと?」
待ち伏せだとしたら、説明がつかない。消えるはずがない。怒りの行き先を失ったまま、疑念だけが、静かに、深く沈んでいった。
おかしい。どう考えても、辻褄が合わなかった。もし誰かが待ち伏せしているのなら、エレナが転んだ直後、必ずそこに“逃げる誰か”がいるはずだ。
私は毎回、反射的に走っている。曲がり角の先へ。壁際。柱の影。物陰になりそうな場所。
けれど……、誰もいない。本当に、最初から誰もいなかったかのように。
「そんなはず……」
隠れられる場所は限られている。学院の通路は、複雑ではない。まして、子どもを突き飛ばしてすぐ姿を消せるほど、都合のいい逃げ道なんてない。
それなのに。毎回、私が辿り着くころには、空気だけが残っている。誰かが“いた痕跡”すら、感じられない。足音も、衣擦れも、気配も。
「……いない、の?」
問いかける相手はいない。自分の声だけが、虚しく返ってくる。待ち伏せのはずなのに、犯人は、いつも不在。その事実が、じわじわと胸を締めつける。
怒りよりも、恐怖よりも、もっと嫌な感覚。説明できない、という不安。見つからない敵を想像するほど、私の思考は、少しずつ、内側へと追い込まれていった。
犯人がいるとするなら……、理由があるはずだ。そう考えようとした時点で、私はすでに“誰かがやっている”前提から離れられなくなっていた。
でも、エレナよ。あの子が、誰かに恨まれる理由なんて、あるはずがない。まだ三歳。学院に入ったばかりで、知らないことばかりで、人に強く言い返すことも、意地悪をすることもない。ただ、少し人見知りで、それでも慣れると笑顔が多くて。そんな子が、狙われる理由が、分からない。
「じゃあ……」
思考は、自然と別の方向へ滑っていく。
エレナではなく、本当は、別の誰かへの嫌がらせなのではないか。
私かそれとも……ルーメンか。
誰かが、私たちに腹を立てていて、直接言い返す代わりに、弱いエレナに手を出している。
そう考えた瞬間、胸の奥が、ぞっと冷えた。もし、そうだったら。もし、私のせいで、エレナが傷ついているのだとしたら。剣を振るう前に、私が守るべきは、まず自分の感情なのかもしれない。
怒りだけでは、何も見えない。分かっているのに、思考は、どんどん疑念の輪を広げていく。答えに近づいている気がしないまま、私は、さらに深く考え込んでいった。
ふと、思考が止まった。 ……私?
私が、知らないうちに、誰かを傷つけている?そんな馬鹿な、と思いたいのに、一度浮かんだ疑念は、簡単には消えてくれなかった。
剣術の訓練で、強く言いすぎたことはなかったか。無意識に、誰かを見下すような態度を取っていなかったか。正義感を振りかざして、相手の言葉を遮ったことは……。
記憶を、ひとつずつ辿る。でも、思い当たらない。私は、誰かをいじめた覚えも、陰で嫌がらせをした覚えもない。むしろ、そういうことが嫌いだからこそ、エレナを守ろうとしてきた。
それなのに、もしも、私が気づかないところで、誰かの感情を踏みにじっていたとしたら?その“報復”が、エレナに向けられているのだとしたら?
喉の奥が、きゅっと詰まる。考えれば考えるほど、証拠はないのに、否定しきれない不安だけが増えていく。
「……違う」
小さく、呟いた。自分に言い聞かせるように。
私は、そんなことをする人間じゃない。エレナを危険に晒すような存在であるはずがない。
そう信じたい。でも、“分からない”という状態そのものが、私を追い詰めていた。犯人が見えない以上、疑いは、内側に向かうしかなかった。
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