セリナ編 第十五章 エレナへの怪しい雲行き④ 不穏な静止
ヒーリングを終え、エレナはようやく落ち着きを取り戻した。
エアリスが肩を抱き、静かに声をかけている。
「大丈夫だよ、エレナちゃん。もう、痛くないよね」
「……うん」
小さく頷くエレナの顔には、不安がまだ残っていた。
その様子を横目に、俺は、もう一度だけ周囲を見渡す。
人の流れ。距離。立ち位置。……やはり、おかしい。あの瞬間、誰かがエレナに触れた形跡はなかった。足を引っかけるような障害物もない。地面は平坦で、乾いている。
それでも、エレナは「押されたように」倒れた。偶然では、説明がつかない。
俺は、胸の奥で、はっきりとした違和感を噛みしめていた。……これは、事故じゃない。誰かが見えない形で、エレナに干渉している。いや……もっと正確に言えば。
「エレナが狙われているように、見せかけている何か」そんな感覚だった。
俺は、セリナ姉の方を見る。
彼女は、エレナの前にしゃがみ込み、必死に大丈夫だと声をかけている。けれど、その声は少し掠れていて、指先には、力が入りすぎていた。
焦っている。守れなかった、という思いが、彼女を追い詰めているのが分かる。このままでは、セリナ姉が一人で抱え込む。
俺は、意を決して口を開いた。
「……セリナ姉」
名を呼ぶと、彼女は、はっと顔を上げた。
「これ、さすがにおかしい」
できるだけ、冷静に言葉を選ぶ。
「偶然が続きすぎてる。俺たち、ずっと見てたのに……誰も、触れてない」
セリナ姉は、一瞬だけ、言葉を失った。だが、すぐに首を振る。
「そんなはずないわ。私たちが見落としただけよ」
声が、少し強い。否定というより、自分に言い聞かせているようだった。
俺は、その様子を見て、はっきりと悟る。
このままでは、危ない。
エレナだけじゃない。セリナ姉自身が、限界に近づいている。
「……父さんと母さんに、相談しよう」
静かに、そう提案した。
「念のためだよ。何もなければ、それでいい」
言い終えた瞬間、セリナ姉の表情が、強張った。
嫌な予感が、胸の奥で、静かに広がっていく。
「……それは、だめ」
セリナ姉は、即座にそう言った。思っていたよりも、ずっと強い口調だった。
「どうして?」
俺が問い返すと、
彼女は、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「だって……そんなことしたら」
一瞬、言葉が途切れる。
「私が、ちゃんとお姉ちゃんできてないみたいじゃない」
その一言で、胸の奥が、ずしりと重くなった。
エアリスが、そっと視線を向ける。
「セリナちゃん……」
声をかけようとしたエアリスに、セリナ姉は小さく首を振った。
「大丈夫よ。私が、ちゃんと見ていればいいだけ」
そう言いながら、エレナの肩に手を置く。
その指先は、優しいのに、どこか硬かった。
「エレナがこんな目に遭うのは、私のせいよ」
「私が、目を離したから」、「私が、守りきれなかったから」
言葉が、自分を責める刃になっていく。
「だから……誰にも頼らなくていい」
俺は、思わず一歩踏み出した。
「違う」
声が、少し強くなる。
「セリナ姉のせいじゃない。これは、普通じゃないんだ」
だが、彼女は俺を見なかった。視線は、エレナだけに向けられている。
「私がやるわ」
低く、決意のこもった声。
「ちゃんと、守る。今度こそ、絶対に」
その言葉に、背筋が、ひやりとした。守ろうとしているのに、どこか、無理をしている。責任を背負いすぎて、一人で立とうとしている。このままじゃ、セリナ姉が壊れる。
俺は、それ以上、強く言えなかった。言葉を重ねれば、彼女を追い詰めるだけだと、直感的に分かってしまったから。
エアリスが、小さく息を吸う音がした。
けれど、誰も、次の言葉を見つけられなかった。夕方の校舎に、沈黙が、重く落ちる。
沈黙が続く中で、ふと、違和感が胸に引っかかった。言葉ではなく、感覚のようなものだった。セリナ姉は、エレナの肩に手を置いたまま、動かない。その姿勢が、ほんのわずかに不自然だった。
俺は、無意識のうちに視線を落としていた。
……膝。
セリナ姉のスカートの端、そこから覗く肌に、赤黒い色が見えた。
「……セリナ姉?」
呼びかけると、彼女は一瞬だけ、肩を揺らす。
「なに?」
何でもない、いつもの返事。けれど、俺の目は、そこから離れなかった。
擦りむいた跡。乾ききっていない血。それは、ついさっき出来たもののように見えた。
「……怪我、してる」
その言葉に、セリナ姉は、はっとしたように視線を落とす。そして、ほんの一瞬だけ、表情が固まった。
「あ……」
小さな声。すぐに、何事もなかったかのように膝を隠す。
「たいしたことないわ」
そう言って、無理に笑おうとする。
「さっき、ちょっと転んだだけ」
エレナが、不安そうに顔を上げた。
「おねえちゃん……?」
「大丈夫よ」
即座に返す声は、やけに明るかった。
けれど、俺の中で、何かが、音を立てて崩れた。
おかしい。今日、エレナが転んだ場面は、何度も見てきた。でも、セリナ姉が、転ぶ瞬間を見た覚えはない。
「いつ?」
思わず、口に出ていた。
「いつ、転んだの?」
セリナ姉は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……さっきよ」
曖昧な返答。視線が、わずかに逸れる。
それだけで、十分だった。エレナではない。今、傷を負っているのは、セリナ姉だ。
誰が見ていたわけでもない。誰かが触れたわけでもない。それなのに、確かに、傷がある。背中に、冷たいものが走る。守る側が、傷ついている。
その場には、それ以上の言葉はなかった。
エレナは、いつものように少しずつ落ち着きを取り戻し、俺の服の裾を掴みながら、もう大丈夫」と小さく言った。
その様子だけを見れば、確かに、いつも通りだった。……いつも通り、のはずだった。
セリナ姉は、エレナの前に立つようにして、さりげなく俺の視線を遮る。まるで、それ以上何も見せないと決めたかのように。
「帰りましょう」
強い調子でも、優しい声でもない。ただ、決めつけるような一言だった。
俺は、それ以上何も言えなかった。
エアリスも、何かに気づいたように口を閉ざし、ただ静かに頷いた。
四人で歩き出す。足音が、不自然なほど揃っている。
けれど、心の距離は、確実にずれていた。
エレナは、もう泣いていない。笑っているわけでもないが、少なくとも、傷は癒えている。
なのに、俺の意識は、ずっと、あの膝の傷から離れなかった。誰も触れていない。誰も見ていない。それでも、そこに“結果”だけが残っている。
最初に泣いたのは、エレナだった。
けれど、今、傷ついているのは、セリナ姉だ。
その入れ替わりに、説明はつかない。偶然でも、事故でもない。
何かが、静かに、確実に、位置を変え始めている。守る者の方へ。責任を背負い込む者の方へ。
俺は、何も言えないまま、その背中を見つめていた。
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