セリナ編 第十五章 エレナへの怪しい雲行き③ セリナの思い込み
その日の出来事だけは、今までとは少し違っていた。
昼休み。中庭で数人の生徒が走り回っていたときだった。
「あっ!」
短い悲鳴と同時に、
エレナがよろけて、その場に尻もちをついた。
今回は、はっきりしていた。目の前に、同じ学年くらいの男の子が立ち尽くしていたからだ。
「ご、ごめんね!」
男の子は、顔を真っ赤にして、慌ててエレナの前にしゃがみ込んだ。
「気づかなかったんだ……走ってて……、本当にごめん!」
言葉も態度も、取り繕ったものではない。心底、驚いて、焦っている様子だった。
俺はすぐにエレナのそばに行き、膝についた土を払ってから、ヒーリングをかける。
「大丈夫だよ。かすり傷だから」
淡い光が消えると、エレナは不安そうにしながらも、立ち上がった。
「……うん」
男の子は、何度も頭を下げた。
「気をつけて遊ぶよ。ほんとに、ごめんなさい」
その姿を見て、俺は小さく息を吐いた。
「ちゃんと謝ってくれて、ありがとう」
「こっちも、ちゃんと見ておくから。もう大丈夫だよ」
男の子は、ほっとしたように頷き、それから、ちらりと、セリナ姉の方を見た。
次の瞬間。びくりと肩を震わせ、何も言わずに、すぐに駆け出して行った。逃げるように、中庭の端へと走り去っていった。
……怖がっていた。
それは、はっきり分かった。
セリナ姉は、男の子の背中を睨みつけたまま、低い声で言った。
「ほら、ルーメン、やっぱり犯人がいたじゃない」
ぎゅっと、拳が握られている。
「絶対に、あの子よ、わざとエレナにぶつかったに決まってるわ」
俺は、首を振った。
「違うと思う。本当に気づいてなかっただけだよ。ちゃんと謝ってくれたし、悪意は感じなかった」
セリナ姉は、唇を噛みしめる。納得していない。それが、はっきり分かる表情だった。
だが、この出来事だけは、これまでの中で唯一、「相手が、確かに存在した事故」だった。だからこそ、余計に際立ってしまった。それ以外の出来事が、どれほど“おかしかったか”を。
男の子が去ったあとも、セリナ姉の視線は、しばらく中庭の出口を追っていた。まるで、その背中に答えが書いてあるかのように。
「……ねえ、ルーメン」
低く、硬い声。
「今の見たでしょ。どう考えても、怪しいじゃない」
俺は、言葉を選びながら答える。
「確かに、エレナにぶつかったのは事実だよ。でも、わざとじゃない。あれは……本当に、ただの不注意だと思う」
セリナ姉は、すぐには返事をしなかった。その代わり、エレナの頭にそっと手を置き、確かめるように撫でる。
「……エレナ、痛くない?」
「うん、だいじょうぶ」
エレナは、にこっと笑った。
その笑顔を見て、セリナ姉の表情が、ほんの一瞬だけ緩む。だが、すぐに、また硬くなる。
「でも……」
視線が、地面へ落ちる。
「もし、あの子じゃなかったとしても、エレナが、こんなに何度も転ぶのは、おかしいわ」
その言葉に、俺は返す言葉を失いかけた。確かに、そうだ。
一度なら、偶然。二度でも、運が悪かったで済む。けれど、もう、そんな段階は過ぎている。
「私が、ちゃんと見てなかったから……」
セリナ姉は、ぽつりと呟く。
「私が、そばについていれば、エレナが、怖い思いをすることなんて、なかったのに」
その声音には、怒りよりも、強い自己責任の色が滲んでいた。
俺は、はっとする。責めているのは、他人じゃない。セリナ姉は、自分自身を責め始めている。
「セリナ姉」
呼びかけると、彼女は一瞬だけ、こちらを見る。
「……大丈夫よ」
そう言って、無理に笑おうとした。
けれど、その笑みは、どこか歪んでいた。守ろうとする気持ちが、疑念に変わり、そして今、自分を追い詰める形へと、変質し始めている。
そのことに、俺は、まだはっきりと言葉を与えられずにいた。
それから数日間。俺たちは、意識的にエレナから目を離さないようにしていた。休み時間も、移動のときも、必ずセリナ姉か、俺か、エアリスの誰かがそばにいる。三人で、自然に囲むような形だ。誰かが割り込める余地は、ない。
その日の昼休みも、そうだった。中庭の端で、エレナは花壇を眺めながら立っていた。俺は少し離れた位置で周囲を見渡し、セリナ姉はエレナのすぐ横、エアリスは反対側。
完璧とは言わないが、少なくとも「見失う」配置ではない。
その、ほんの一瞬。エレナの足が、不自然に、前へ流れた。
「……っ!」
声にならない声。
次の瞬間、エレナは地面に倒れていた。
「エレナ!」
セリナ姉が、叫ぶ。俺とエアリスも同時に駆け寄った。
膝と手のひらに、また、擦り傷。血が、じわりと滲んでいる。
「だ、だいじょうぶ……」
エレナはそう言ったが、声は震えていた。
俺は、すぐにヒーリングを施す。淡い光が、傷を覆い、赤みがゆっくりと消えていく。その間、俺は、周囲を見回していた。
人影は、ない。誰も、ぶつかっていない。誰も、走り去っていない。近くにいた生徒たちは、ただ、呆然とこちらを見ているだけだ。
「……誰?」
セリナ姉の声が、低く響く。
「今の、誰がやったの?」
返事は、なかった。怒鳴ったわけではない。威圧したわけでもない。ただ、問いかけただけだ。
それでも、誰一人として名乗り出ない。いや、名乗り出る「相手」が、最初から存在しない。
その可能性が、はっきりと、俺の中で形を持ち始めていた。
偶然ではない。不注意でもない。これは、見えない何かが、確かに介在している。そう確信した瞬間、背中に、冷たいものが走った。
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