セリナ編 第十五章 エレナへの怪しい雲行き① 広場での転倒
第十五章 エレナへの怪しい雲行き
入学して、しばらく経った。
特別何も起こらず日々は過ぎていった。朝の鐘に合わせて制服を整え、教室へ向かい、授業を受けて、昼休みには広場で子どもたちの笑い声が弾む。そんな当たり前の時間が、季節の移ろいみたいに淡々と重なっていく。
エレナも、少しずつ学院の空気に馴染んできていた。最初は廊下の人混みに怖がって、俺やセリナ姉の後ろに隠れるように歩いていたのに、最近は同じ学年の子と並んで話している姿も見るようになった。笑顔の回数が増えたのが、何より嬉しかった。
セリナ姉は相変わらず過保護で、エレナが見えなくなるたびに視線が鋭くなる。けれど、口うるさく注意するばかりではなく、エレナが何かを頑張ったときにはきちんと褒め、帰り道には手を繋いでやさしく歩調を合わせている。姉としての誇りと責任感が、日常の所作の端々から滲んでいた。
エアリスも、よく一緒にいてくれた。休み時間に声をかけてくれたり、エレナが緊張しているとさりげなく話題を変えて笑わせたりする。エレナはエアリスに懐いていて、「エアリスさん、これ見て」と小さな発見を見せに行くことも増えた。俺はそれを少し離れたところから眺めながら、平穏というものの温かさを噛みしめていた。
やっぱり、俺の聞き間違いだったんだろう。
胸の奥に引っかかっていた不穏な感覚が、日々の小さな幸せに薄まっていく。夜になって寮で本を開くときでさえ、以前ほど神経質に周囲の気配を確かめなくなっていた。
何も起こらない。それが、いちばん良い。そう思いたかった。
昼休みの終わりが近づいた頃だった。
学院の広場は、いつものように子どもたちの声で満ちていた。走り回る足音、笑い声、遠くで鳴る鐘の予鈴。その中に、ひときわ大きな泣き声が混じった。
反射的に振り向く。広場の中央付近で、エレナが座り込んでいた。
「……エレナ?」
駆け寄るより先に、泣き声がはっきりと耳に届く。声を押し殺そうとしても押し切れない、子ども特有の、恐怖と痛みが混じった泣き方だった。
エレナは地面に手をつき、膝を抱えるようにして泣いていた。近づいて見れば、肘と膝が擦りむけて赤くなっている。制服の端にも、土が付いていた。
「どうしたの?」
そう声をかけると、エレナは涙で濡れた目を上げて、震える声で言った。
「……う、うしろから……おされたの……」
一瞬、胸がざわつく。
けれど、周囲には子どもが多い。走り回っていた誰かが、ぶつかっただけ.そういう可能性も、十分にあった。
「ぶつかっちゃっただけ、かもしれないね」
そう言いながら、俺はしゃがみ込む。肘も膝も、確かに擦り傷だが、深くはない。血もすぐ止まりそうだった。
そのとき、駆け足の音が重なる。
「エレナ!」
セリナ姉だった。
エレナの姿を認めるなり、迷いなく間に割って入り、妹を抱き寄せる。その表情は、心配を通り越して、怒りに近い色を帯びていた。
「大丈夫!? どこを怪我したの!」
エレナが泣きながら膝を指すと、セリナ姉は即座に俺を振り返った。
「ルーメン!」
ヒーリングの魔術を静かに紡ぎ、擦りむけた部分にそっと手をかざす。淡い光が滲み、赤みがゆっくりと引いていく。
その間に、エアリスも息を切らして駆け寄ってきた。
「エレナちゃん、どうしたの? ……あ、ルーメン、大丈夫?」
「ちょっとぶつかっちゃったみたいだね。かすり傷だから、もう治したよ」
俺がそう伝えると、エアリスはほっとしたように頷いた。
その一方で、セリナ姉の視線は鋭く、周囲を射抜いていた。
「……誰なの」
低く、張りつめた声。
「うちのエレナにぶつかった子は。出てきて、謝りなさいよ」
その剣幕に、広場の空気が一瞬で凍りついた。
さっきまで動いていた子どもたちが、足を止め、視線を向ける。誰も名乗り出ない。ただ、戸惑いと緊張だけが広がっていく。
俺が声をかけようとした、その前に、エアリスが一歩前に出た。
「セリナちゃん、気持ちは分かるけど……ちょっと、みんな怖がってるみたい。落ち着こう?」
柔らかいけれど、はっきりとした声だった。
セリナ姉は唇を噛み、俺の方を見る。
「……ルーメンも、許せないわよね?」
問いかけに、俺は一度だけ周囲を見回してから答えた。
「わざとなら許せない。でも……ただ当たっただけかもしれないし。エアリスと同意見だよ。セリナ姉、落ち着いて」
短い沈黙のあと、セリナ姉は大きく息を吐いた。
「……分かったわ。エアリスとルーメンが、そこまで言うなら」
そう言って、ようやく肩の力を抜いた。
その場は、それで収まった。少なくとも、そのときは。
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