セリナ編 第十四章 エレナの入学③ 姉兄の警戒
翌朝。エレナは昨日よりも少しだけ軽い足取りで身支度をしていた。制服を着るのも、昨日より手際がいい。
「きょうも、いっしょにいくよね?」
エレナが俺とセリナ姉を交互に見上げる。
「もちろんよ」
「当たり前だろ」
三人で並んで家を出る。
朝の空気はひんやりとしていて、昨日とは違う一日の始まりを感じさせた。
学校までの道すがら、エレナは昨日覚えた歌を口ずさみながら歩いている。その無邪気さが、逆に胸に刺さった。
校門が見えてきた瞬間、俺は無意識に周囲を見渡す。昨日と同じような子どもたち、同じ風景。だが、同じ日が続くとは限らない。
教室に入ると、エレナは自分から席に向かった。
その成長が嬉しくもあり、少し寂しくもある。
セリナ姉はエレナの背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「昨日は何もなかったけど……油断はできないわね」
「うん」
俺は頷く。
「もし何かあったら、すぐに動こう」
セリナ姉は強く頷いた。その瞳には、剣術を磨いてきた者特有の覚悟が宿っていた。
守る。言葉にせずとも、俺たちは同じ決意を共有していた。
昼休みが近づくにつれ、俺の意識は自然とエレナのほうへ向いていた。教室は違う。だが、同じ校舎の中にいると思うだけで、無意識に感覚が研ぎ澄まされる。窓の外では、下級生たちの楽しげな声が聞こえてくる。昨日よりも、ほんの少し賑やかだ。
授業が終わり、昼休みの鐘が鳴った。セリナ姉と顔を見合わせる。
「様子、見てくる?」
「うん」
二人でエレナの教室へ向かう。廊下を歩く間、俺は周囲の気配に注意を向けていた。誰かがこちらを見ていないか、足音が不自然に近づいてこないか。
だが、特に異変はない。子どもたちはそれぞれの昼休みを楽しんでいる。
教室の入口に立つと、エレナは席に座っていた。昨日よりも姿勢が良く、机の上には包みが置いてある。
「エレナ」
声をかけると、ぱっと顔を上げた。
「ルーメンにいちゃん! セリナねえちゃん!」
嬉しそうに手を振る。
その表情を見て、胸の奥が少しだけ緩んだ。少なくとも今は、問題なさそうだ。
「どう? 困ったことない?」
セリナ姉がしゃがんで目線を合わせる。
「ううん! せんせいも、やさしいよ!」
「そう。じゃあ、ちゃんとお昼食べてね」
エレナは大きく頷いた。その仕草ひとつひとつが、昨日よりも確実に“学校の子”になっている。
教室を出てから、俺は小さく息を吐いた。
「今のところは、大丈夫そうだね」
「ええ。でも……」
セリナ姉は言葉を濁し、廊下の奥を見つめる。
「気を抜いたらだめ、よね」
俺がそう言うと、セリナ姉は静かに頷いた。
午後の授業が始まり、俺は机に向かうだが、集中しきれない。エレナの姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
放課後、約束通り、三人で帰る時間だ。
エレナは教室から出てくると、俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
「きょうも、たのしかった!」
「それは良かった」
セリナ姉が微笑む。
帰り道、エレナは学校で覚えたことを次々と話す。字を書いたこと、歌を歌ったこと、先生に褒められたこと。
その無邪気な声を聞きながら、俺は周囲を観察していた。背後、曲がり角、少し離れた位置を歩く生徒たち。
何も起こらない。それが一番いい。
家に着くと、母さんがすぐに出迎えてくれた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「たのしかった!」
エレナが即答する。
母さんは安心したように微笑んだ。
「それなら良かったわ」
その夜、布団に入ってからも、俺はしばらく目を閉じられなかった。今日一日は平穏だった。だが、平穏が続く保証はない。
守る。その言葉を、胸の中で何度も反芻しながら、ようやく眠りに落ちた。
翌朝。まだ空気の冷たい時間帯、家の扉を出ると、朝露の匂いがした。エレナは少し眠そうな顔をしながらも、きちんと身支度を整えている。昨日よりも、ほんの少しだけ足取りが軽い。
「おはよう、エレナ」
「おはよう!」
その声には、昨日の不安の名残はほとんど感じられなかった。
三人で並んで歩く登校路。道の両脇には、朝の光を浴びた草花が揺れている。
エレナは、昨日よりも周囲を見る余裕があるようだった。
「ここね、きのうもとおったよね」
「そうだよ」
「きょうも、がっこうたのしいかな」
その問いかけに、セリナ姉は即座に答えた。
「楽しいに決まってるわ。エレナはもう立派な一年生だもの」
校門が見えてくる。昨日と同じ光景。だが、昨日とは違い、エレナの手は強くこちらを握っていなかった
。校舎に入る直前、俺は自然と周囲を見渡す。特に怪しい気配はない。昨日聞こえた“あの言葉”を発した人物の姿も見当たらない。
教室に着くと、エレナは自分の席へ向かう。振り返って、にこっと笑った。
「いってきます!」
その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
午前中の授業。俺は黒板の文字を追いながらも、意識の一部を常に外へ向けていた。気にしすぎかもしれない。だが、気にしないわけにはいかなかった。
昼休み。セリナ姉と目が合う。
「今日も、見てくる?」
「うん」
昨日と同じように、エレナの教室へ向かう。だが、今日は少し様子が違った。教室の前で、低学年の子たちが集まっている。
笑い声。ざわめき。
俺とセリナ姉は一瞬だけ顔を見合わせ、足を止めた。だが、次の瞬間、エレナの声が聞こえた。
「だいじょうぶだよ!」
中を覗くと、エレナは友達らしき子と並んで立っていた。どうやら、些細なことでぶつかっただけらしい。
先生がすぐに間に入り、場は収まっていた。エレナの表情に、恐怖はない。
「……大丈夫そうだね」
俺が小声で言うと、セリナ姉も頷いた。
放課後。三人で帰る道すがら、エレナは少し誇らしげだった。
「ねえねえ、きょうね、ともだちできたよ」
「そうなの?」
「うん! いっしょにえをかいたの」
その言葉を聞いて、胸の奥で何かがほどける。昨日から張り詰めていたものが、ようやく緩んだ気がした。
家に着くと、母さんがいつも通り迎えてくれる。
「今日も楽しかった?」
「うん!」
その夜、食事のあと、エレナは早々に眠ってしまった。
寝顔を見下ろしながら、俺は思う。少しずつでいい。エレナが、この場所に慣れていけるなら。
だが、同時に胸の奥で小さな警鐘が鳴っていた。“まだ終わっていない”と。その感覚を抱えたまま、静かな夜が更けていった。
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