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セリナ編 第十四章 エレナの入学② 入学の夜

今日からしばらく、エレナの席はセリナ姉の隣だ。それは最初から決まっていた配置であり、俺にとっても、これ以上ない安心材料だった。しかし、さきほど耳にした言葉が、頭から離れない。

エレナの隣にいるセリナ姉に伝えたい。だが、今この場で話せば、エレナを不安にさせてしまう。

俺は一瞬だけ考え、校長先生がセリナ姉を呼んでいる、という形を取ることにした。自然な流れで教室の外に出る。

廊下に出ると、ざわめきは遠ざかり、空気が一気に静かになる。

「さっきの紹介の時さ……」

俺は声を落として話した。

「『セリナ姉にやられたから、エレナに仕返ししとくか』って言ってるやつがいた。心当たり、ない?」

セリナ姉は少しの間、目を伏せて考え込んだ。

「……ないわ。ルーメンを助けた時だって、私は何もしてない。でも……そういうことなら、警戒は必要ね」

すぐに結論を出すのではなく、状況を受け止めた上で冷静に判断する。その姿に、やはりこの人は「姉」なのだと、改めて感じさせられた。

「ルーメンも、よろしくね。早くエレナのところに戻らなきゃ」

教室に戻ると、エレナはきちんと椅子に座り、足をぶらぶらさせながら周囲をきょろきょろと見回していた。

その無邪気な姿を見て、俺は心の中で、静かに誓う。何があっても、この日常は壊させない。



授業が始まってからも、俺の意識は何度もエレナの方へ向いてしまっていた。黒板に書かれる文字、先生の説明、それらを聞き逃しているわけではないが、どうしても視界の端で、エレナの小さな背中を追ってしまう。

セリナ姉は姿勢よく座り、時折エレナの方へ視線を落としては、安心させるように小さく頷いている。その一つ一つの仕草が、エレナにとってどれほど心強いものか、俺には痛いほど分かった。


エレナはというと、最初こそ緊張で体を固くしていたが、少しずつ周囲の雰囲気に慣れてきたのか、先生の話に耳を傾け、配られた紙を両手で大事そうに持っていた。

ときどき、文字の形が分からず首を傾げる。そのたびに、セリナ姉がそっと指で示して教えている。声を出さず、視線と動きだけで伝えるやり方は、さすが長年弟妹を見てきた姉だと思わされた。


休み時間になると、教室の空気は一気に緩む。あちこちで椅子を引く音がして、子どもたちが集まり始めた。

エレナの周りにも、好奇心を隠さない視線が集まる。

「ねえ、エレナちゃんだよね?」

「さっき前に出てた子だ」

そんな声に、エレナは少し戸惑いながらも、「うん」と小さく頷いた。

俺は席を立ち、自然な流れでエレナの近くに寄る。セリナ姉もそれを察して、さりげなく立ち位置を調整する。三人で囲む形になり、外から入り込む余地を作らない。

これは無意識の行動だったが、きっとこれから何度も繰り返すことになるのだろうと感じた。


幸い、この休み時間には何事も起こらなかった。

エレナは同じ年頃の女の子と並んで座り、持ってきた小さな布袋の中身を見せ合っている。笑顔も見え、胸の奥で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。


午前の授業を終え、下校の時間になる。校門を出た瞬間、エレナはほっとしたように大きく息を吐いた。

「セリナ姉ちゃん、ルーメン兄ちゃん、楽しかった!」

その声は弾んでいて、朝の不安そうな様子が嘘のようだった。

「良かったわね」

セリナ姉はそう言いながら、エレナの頭を優しく撫でる。

「困ったことがあったら、すぐ言うのよ」

「うん、わかった!」

エレナは元気よく頷く。


家から学校までの道のりは、子どもにとっては決して短くない。特にエレナの小さな足では、疲れが出るのも無理はない。歩きながら、セリナ姉は何度もエレナの様子を確認していた。

「歩ける?」

「大丈夫!セリナ姉ちゃんとルーメン兄ちゃんと一緒だから!」

その言葉に、セリナ姉は微笑み、少し歩いたところで立ち止まった。

「疲れたら、おんぶしてあげるからね」

「やったー!おんぶして!疲れた!」

言葉とは裏腹に、エレナは最初からそのつもりだったのだろう。

セリナ姉は苦笑しながらも、迷いなく背中を向ける。

小さな腕が首に回され、エレナの体温が伝わってくる。

その様子を見ながら、俺は思った。この日常を守るためなら、どんな手間も惜しくない。


夕暮れの道を三人で歩き、家に着くと、母さんがすぐに出迎えてくれた。

「おかえり。大丈夫だった?学校、楽しかった?」

「うん!」

エレナは声を弾ませて答える。

「セリナ姉ちゃんにおんぶしてもらったの!」

母さんは安堵したように微笑み、三人が無事に帰ってきたことを確かめるように目を細めた。

その表情を見て、俺は胸の奥で静かに息をつく。今日は、ひとまず無事だった。



夕食の準備が進む中、エレナはいつもより少しだけ饒舌だった。食卓に並ぶ前から、今日あったことを順番も関係なく話し始める。

「ね、ね、きょうね、せんせいがね、おなまえよんでくれたの!」

「うん、ちゃんと言えてたわよ」

セリナ姉がそう言うと、エレナは誇らしげに胸を張る。

「それからね、となりのこがね、えがおでね、こんにちはって!」

その一言一言が、エレナにとってどれほど大きな出来事だったのか、聞いているだけで伝わってきた。

母さんは鍋をかき混ぜながら、何度も頷く。

「良かったわね。最初の日は緊張するものだけど、ちゃんとお話できたのね」

父さんも席に着き、腕を組んでエレナの話を聞いている。

「初日としては上出来だな。よく頑張った」

その言葉に、エレナはさらに嬉しそうに笑った。


俺はその様子を見ながら、胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じていた。

だが同時に、朝礼のときに聞こえた、あの言葉が頭から離れなかった。

「セリナにやられたから、あいつに仕返ししとくか」

エレナの笑顔を見れば見るほど、あの一言の異質さが浮き彫りになる。


食事が終わり、エレナは眠気に勝てず、椅子の上でうとうとし始めた。セリナ姉が「もう限界ね」と言って抱き上げ、寝室へ連れていく。

その背中を見送りながら、俺は母さんと目を合わせた。

母さんは何も言わなかったが、その表情から、同じ不安を感じ取っていることが分かった。


夜、部屋に戻ってからも、なかなか寝付けなかった。窓の外からは、虫の声が静かに響いている。俺は布団の中で、今日一日の光景を繰り返し思い返していた。

エレナの緊張した表情。セリナ姉の警戒する視線。そして、あの耳に残る言葉。

気のせいであってほしい。

そう思いながらも、胸の奥では別の声が囁いている。

備えておくべきだ、と。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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