前世編 第六章 影を抱く日々(前半)
第六章 影を抱く日々(前半)
朝の光は、薄いカーテンを透かして、六畳一間のアパートの畳の上に柔らかな格子模様を描き出していた。
まだ眠気の残る意識の淵で、最初に届くのは台所からの音だ。フライパンで卵が焼ける軽やかな音、そして味噌汁の湯気が立てる微かな「シュシュ」という鳴き声。かつて祖母が守っていたあの台所の風景を、今は僕の妻となった彼女が、一日の始まりの儀式として引き継いでいる。
「鼻歌……」
彼女が小さく、聞き取れないほどの音量で口ずさんでいる旋律が、狭い空間に溶け込んでいた。
僕は布団から這い出し、使い古した姿見の前でネクタイを締める。身に纏うのは、あの成人式の日に彼女が贈ってくれた、深い紺色のスーツだ。
あれから数年が経ち、生地の光沢は失われ、袖口には目立たない程度の擦れができている。けれど、このスーツの重みを感じるたびに、僕はあの時の誓いを思い出す。「君を支えたい」と言ったあの日の自分と、それを「どこまでも一緒に行くよ」と笑って受け入れてくれた彼女の姿。
この服は、もはや単なる衣類ではない。社会という戦場で僕が僕であり続けるための、誇り高き鎧だった。
テーブルには、二つの弁当箱が並んでいた。
白いご飯の上には、市販の冷凍食品の唐揚げと、彼女が朝から焼いてくれた少し形の不揃いな卵焼き。
「今日も運転、気をつけてね」
「ああ。行ってきます」
玄関で交わす、たったそれだけの短い会話。けれど、そのやり取りの積み重ねこそが、僕たちの小さな世界の屋台骨だった。九州の乾いた冬の空の下、僕は中古車のエンジンをかけ、工業団地へと続くいつもの道を走り出した。
結婚して一年が過ぎた頃、僕たちの元に新しい命が舞い降りた。
産婦人科の帰り道、まだ平らな自分のお腹を何度も、確かめるように愛おしそうに撫でる彼女。その姿を隣で見守りながら、僕はハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
「この子、きっとあなたに似るよ」
「え、俺みたいな顔? 女の子なら君に似た方が絶対にいいよ」
笑い合いながら見上げた空には、風に舞う桜の花びらが散っていた。 1990年代が終わりを告げようとする、あの春の日の突き抜けるような青さは、僕の記憶に鮮烈な色彩として焼き付いている。
出産の日は、世界が静止したかのような静寂の中にあった。
病室の白い天井を見つめながら、僕はただ、扉の向こう側で戦っている彼女の無事を祈り続けていた。どれほどの時間が経っただろうか。不意に、すべてを切り裂くような、力強く、それでいて透明な産声が響いた。
看護師に促され、おずおずと抱き上げた赤ん坊は、驚くほど小さく、そして温かかった。
「見て、光一くん。女の子だよ。私たちの娘……」
疲れ切った、けれど神々しいまでの微笑みを浮かべた彼女が、僕を呼ぶ。その瞬間に、僕の胸の奥で何かが決壊した。 溢れてくる涙を止めることができなかった。
「守らなきゃ。この子を、何があっても」
それは、父が僕を育てたときに抱いたであろう覚悟と同じ、一人の男としての、そして「父親」としての絶対的な誓いだった。
育児という名の現実は、想像を絶する過酷さを伴って押し寄せた。
夜泣き、数時間おきのミルク、容赦のない寝不足。朝、鏡を見るたびに自分の顔色が土色に沈んでいくのが分かった。仕事から帰ると、戦場のように散らかった部屋で、憔悴しきった彼女が娘を抱いて立ち尽くしている。
深夜、娘の泣き声で目を覚ます。
「私がやるから、あなたは寝てて」
そう言う彼女を制し、僕はそっとキッチンへ向かう。静まり返ったアパートの中で、お湯を沸かすポコポコという音だけが響く。 眠気で意識が朦朧とする中、ミルクを冷ましながら、暗いリビングで彼女と視線を交わす。
言葉はなかった。けれど、その沈黙の共有こそが、僕たちの絆をより強固なものへと変えていった。
「頑張ろうね」
小さな声でどちらかが呟く。それが、僕たちにとっての唯一にして最強の合言葉だった。
娘がたどたどしく笑い、「パパ」と呼ぶようになった頃。僕たちは、一つの大きな決断を迫られていた。
「家を建てようか」
娘が小学校に上がる前に、安心して帰れる場所を作ってやりたい。転校なんていう寂しい思いをさせたくない。 かつて僕が九州の古い家で祖父母に守られて育ったように、この子にも「自分の家」という根っこを張らせてやりたかった。
休日は、何度も住宅展示場へ足を運んだ。
大手のハウスメーカーが並ぶ展示場は、夢の国のように眩しかった。最新のシステムキッチン、広いリビング、吹き抜けの天井。
「すごいね、光一くん。こんな家、本当に住めるのかな」
目を輝かせる彼女と、モデルルームの廊下をはしゃいで走り回る娘。けれど、営業マンから渡される見積書の数字は、僕たちの現実を容赦なく叩きつけた。二つの奨学金の返済がようやく終わりを見せ始めたとはいえ、僕の安月給でこれほどのローンを背負うのは、もはや自殺行為に等しかった。
「……ごめん。やっぱり、ここは無理だ」
肩を落とす僕に、彼女はそっと手を重ねた。
「いいよ。見栄を張る必要なんてない。私たちが無理なく笑って暮らせるのが一番だもん」
最終的に僕たちが選んだのは、街の片隅に事務所を構える、一番安い地元の工務店だった。
展示場のような華やかさはない。建材も標準的で、最新の設備なんて一つもない。けれど、その工務店の社長は、泥臭い僕の経歴を面白がり、限られた予算内で最大限の工夫を凝らしてくれた。
「豪華じゃなくていい。雨風を凌げて、家族が温かいスープを飲める場所なら、それでいいんです」
僕の言葉に、社長は深く頷いてくれた。
三十年の住宅ローン。銀行の審査を待つ時間は、生きた心地がしなかった。
「通ったよ……」
電話越しの僕の声を聞いた瞬間、彼女は受話器の向こうで声を上げて泣いた。
「本当に、私たちの家が持てるんだね……。光一くん、ありがとう」
その涙を見たとき、僕は自分が「本当の意味で大人になった」のだと実感した。自分の自由や余暇を捨て、家族の幸福のために一生を質に入れる。それが、父親になるということなのだと。
建築が始まると、僕は毎週末のように工事現場へと車を走らせた。
基礎が打たれ、柱が立ち、屋根が架かる。少しずつ形を成していく「一番安い、けれど僕たちの城」。僕は庭の隅、まだ泥だらけの土の中に、一本の細い苗木を植えた。
梅の木だった。
「この子が小学校に上がる頃には、きっと綺麗な花を咲かせるよな」
まだ頼りない枝先を眺めながら言うと、彼女が僕の腕に寄り添って頷いた。 厳しい冬に耐え、一番に春を告げるあの花のように、この家も、娘も、強くありたい。そんな願いを込めた。
引き渡しの日。
ずっしりと重い金属製の鍵を渡されたとき、僕の指先は微かに震えていた。
その日の夜。まだ段ボールに囲まれ、引っ越し作業の途中のリビングで、僕たちは家族三人でカレーを食べた。
「ここ、パパのおうち?」
娘が目を輝かせて尋ねる。
「そうだよ。今日からここが、〇〇ちゃん(娘の名前)のおうちだよ」
そう答えながら、僕は見慣れない、真新しい安価なシーリングライトの灯りを見上げた。
食事が終わり、娘を寝かしつけたあと。僕は一人でリビングの窓を開け、夜の庭を眺めた。
冷たい夜風が吹き込み、植えたばかりの梅の細い枝が、心細そうに揺れている。
静寂。
アパートの頃のような、隣室の生活音も聞こえない、完璧なプライベートな空間。
けれど、その静けさが、不意に僕の胸の奥をざわつかせた。
「こんな幸せが、本当にいつまでも続くだろうか……」
その不安はあまりにも深く、僕の足元を暗い水底のように浸食し始めていた。
その時、テーブルの上に置いていた携帯電話が、ブー、ブーと低く、無機質な振動音を上げた。
暗い部屋に、青白い液晶の光が浮かび上がる。
“会社・部長”
「どうしたの?」
戻ってきた彼女が、不審そうに僕を見た。
「……いや、なんでもないよ」
僕は画面を伏せ、無理に笑顔を作った。けれど、自分の声が、自分でも驚くほど不自然に震えているのが分かった。
メールの文面は、極めて簡潔だった。
『来週、今後の君の処遇について、大切な話がある』
窓の外、夜風はさらに勢いを増し、梅の木が激しく身をよじらせていた。
春はまだ、遠い。僕の心には、これまで経験したことのないような、冷たく、巨大な「影」が静かに忍び寄りつつあった。
最後まで読んで頂きありがとうございます
少しでもお気に召しましたら、ブックマークと☆の評価をお願いします。




