セリナ編 第十三章 エレナの誕生日③ 兄という立場
5朝の支度が一段落し、家の中が少しだけ静かになる時間がある。
父さんは領の仕事に向かい、母さんは洗濯や片付けに取りかかり、セリナ姉は剣の手入れを始める。エレナは居間の隅で、昨日もらった木製の人形を床に並べて遊び始めた。
そんな何でもない時間の中で、僕はふと考えてしまう。「兄、か。」前の世界では、僕は父親だった。小さな娘がいて、仕事に追われる毎日の中で、成長を「見守っているつもり」でいた。実際には、見逃していた瞬間も多かったのだと思う。
初めて言葉を覚えた時。
初めて一人で外に出た時。
不安で泣きながら帰ってきた夜。
思い出そうとすると、胸の奥が少しだけ痛む。この世界では、立場が違う。僕は父じゃない。兄だ。
守る責任はあるけれど、決定権はない。
導くことはできるけれど、すべてを背負うことはできない。
それでも.エレナが転べば、真っ先に駆け寄りたい。泣けば、理由を聞く前に抱きしめたい。怖がれば、「大丈夫だ」と言ってやりたい。
それは、前世の後悔があるからかもしれないし、今世で得たものなのかもしれない。
エレナは、まだ何も知らない。
学校が楽しい場所だと信じて疑わないし、兄や姉がいれば何でも乗り越えられると思っている。
その期待を、裏切りたくない。
僕は居間の端に座り、エレナが人形を並べて遊ぶ様子を眺めていた。
「これね、セリナ姉ちゃん」
エレナが人形をひとつ持ち上げる。
「こっちは、ルーメン兄ちゃん」
次に別の人形を持ち上げる。
そして、少し考えてから、真ん中に一番小さな人形を置いた。
「これは、わたし!」
胸が、きゅっとなる。
無意識に、エレナは二人に挟まれる位置を選んでいる。それが、この子にとっての「安心」なのだ。
「ねえ、兄ちゃん」
エレナが振り返る。
「学校行ったら、また三人で帰れる?」
「ああ。用事がなければ、三人で帰ろう」
「約束?」
「約束だ」
小さな指が差し出される。僕は迷わず、指を絡めた。
その様子を見ていたセリナ姉が、少しだけ笑う。
「二人とも、仲いいわね」
「セリナ姉も一緒だよ」
僕がそう言うと、セリナ姉は一瞬きょとんとしてから、照れたように目を逸らした。
「……当然でしょ」
でも、その声はどこか嬉しそうだった。
こうして家族が揃っている今は、当たり前のようで、きっと当たり前じゃない。
時間は進む。成長は止まらない。
だからこそ、今この瞬間を、ちゃんと覚えておきたい。
エレナが三歳で、セリナ姉が九歳で、僕が七歳で。同じ屋根の下で、同じ時間を過ごしている、この静かな日々を。
エレナの誕生日は、ただの通過点だ。
家族が少しずつ次の段階へ進む、その合図に過ぎない。これから先、学校で何が起きるかは分からない。楽しいことばかりじゃないかもしれない。
それでも。兄として、この子の隣を歩く覚悟は、もうできている。そう心の中で静かに誓いながら、僕はエレナの頭に手を伸ばした。
「もうすぐ、忙しくなるな」
「うん!」
エレナは屈託なく笑った。
その笑顔を守るために、できることを、できるだけ。それが、今の僕に与えられた役割なのだと思う。
夕暮れが近づくと、家の中の光の色が変わる。窓から差し込む橙色の光が床を長く伸び、昼間の賑やかさをゆっくりと包み込んでいく。
エレナは遊び疲れたのか、いつの間にか母さんの膝の上でうとうとし始めていた。小さな手が母さんの服の裾を握ったまま、安心しきった顔で目を閉じている。
「ほんとに、まだまだ子供ね」
母さんはそう言いながらも、その声は柔らかい。撫でる手つきは、慣れと愛情が混ざった、静かな優しさだった。
セリナ姉は居間の端で剣を磨いている。刃を傷つけないように慎重に、けれど手慣れた動きで布を滑らせていた。その姿は年相応以上に落ち着いていて、もう立派な剣士のようにも見える。
本当に、みんな少しずつ変わっていく。エレナはこれから学校に通うようになる。セリナ姉は、ますます剣術に打ち込み、きっと遠くへ行く日も来るだろう。僕自身も、いつか家を離れる。
そんな未来を思うと、胸の奥が少しだけざわつく。だが、不安ばかりではない。エレナ誕生日がそうだったように、家族で笑い合える時間は確かにある。
それは、失われる前提のものではなく、積み重なっていく記憶なのだと思いたい。
父さんが仕事から戻ってくると、居間の空気が少し引き締まった。大きな体で戸を開け、エレナの寝顔を見ると、声を落として言う。
「もう寝たか」
「ええ、さっきまで起きてたんだけどね」
父さんは頷き、僕とセリナ姉に目を向けた。
「エレナも、もうすぐ学校だな」
それは確認というより、心構えを確かめるような声音だった。
「うん」
僕が答えると、セリナ姉も小さく頷く。
「何かあったら、すぐに大人に言え。二人で抱え込むなよ」
「分かってる」
セリナ姉の返事は即答だった。
父さんは満足そうに頷き、それ以上は何も言わなかった。必要以上に干渉しないのも、この人なりの信頼なのだ。
夜になり、それぞれが部屋に戻る前、エレナが一瞬だけ目を覚ました。
「……兄ちゃん」
「どうした?」
「えへへ……きょう、たのしかった」
「そうだな」
エレナはそれだけ言って、また眠りに落ちた。その小さな寝息を聞きながら、僕は思う。
この子にとって、今日が「楽しかった日」として残るなら、それでいい。
学校に行けば、きっと泣く日もある。思い通りにならないことも、怖いことも、悔しいことも知る。
それでも、帰る場所があって、話を聞いてくれる人がいて、一緒に歩いてくれる兄と姉がいる。それだけで、人は何度でも立ち上がれる。
部屋に戻る途中、セリナ姉が声をかけてきた。
「ルーメン」
「なに?」
「……明日も、エレナと一緒に行こうね」
「ああ、もちろん」
短い会話だったが、それだけで十分だった。それぞれの部屋に灯りが消え、家は静かになる。外では、虫の声がかすかに聞こえている。エレナの誕生日は終わった。だが、これは終わりではない。
むしろ、これから始まる日々の、静かな前触れなのだと、僕は感じていた。
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